10枕戈待旦の幽議会(上)
何者かの守護をおかげか、一晩ぐっすり眠れたナタリアの朝は早かった。
固い布団の上で上半身を起こして寝ぼけ眼をこすっていると、階下から盛んに物音が聞こえてくる。まだ日の昇らないうちうちから家内が騒がしくなる。何事かとしっかり目を開き様子を窺えば、早朝から力仕事をこなすオデオンの姿が窓の外にあった。
重そうな麻袋を一度に何個も運び、厨房でパンを焼く準備を進めている。
ナタリアは孤児院にいた頃は、厨房を手伝った経験もある。少しくらいは力になれるだろうと、寝台から跳ね起きた。シーツの乱れを直してから、共用井戸で身体を清め、厨房に居たオデオンの前で、
「力仕事は苦手じゃが、雑用ならこなして見せよう。何か手伝えることはないか?」
「あーうん、そうね」
ここにきて初めてナタリアの存在を思い出したという表情のオデオンは、暫し悩んだのちに、朝食の用意を頼んできた。
会話をする僅かな時間さえ惜しいようで、ナタリアに気を遣うことなど全くしない。言いたいことだけ言ってしまうと素早く作業に戻ってしまった。
仕事の邪魔をしたくなかったナタリアは素直に言われたとおり、飯の用意をしておくことにする。
「城では全部下働きの奴隷がやっておったから、台所に立つのは随分と久しぶりじゃのぅ」
およそ半年間のブランクがあることになる。
慣れない他家の台所であるがゆえに、道具の位置もろくに分からない。丁度出しっ放しになっていた鍋に目が止まった。それに水を注ぎ簡単な野菜スープを作ることにする。
竈を見てみると、すっかり火の気が消えていて、熾火がない。仕方なく日属性の<発火>魔術で竈に火を灯す。熾火がなかったのは、きっとオデオンが日属性に適性を持っているからだろう。
レヴィの属性は空。その叔父であるオデオンは日。一族の間で異なる属性というだけで、井戸端会議の大好きな噂好きの奥様方ならば半日は喋っていられる醜聞の気配がするものだが、ナタリアはその部分ではまだまだ純真だった。
孤児院で育ち、帝城で修行を積んで来た為に、特殊な社会しか経験していないのだ。
料理が完成する頃には、鼻の頭に白い粉が付きっぱなしのオデオンが荒々しく台所にやってきた。
「あ、そうか。飯の用意頼んだんだった」
自分でナタリアに言ったっことなのに、忘れている様子のオデオン。
むしゃむしゃとパンとスープを貪りながらナタリアに礼を言った。賛辞や称賛は聞き慣れているナタリアは、大人の微笑でそれに応え、ハンカチでオデオンの鼻の汚れをとってやる。
まるっきり子供扱いで、年齢が逆転したようなちぐはぐな光景だったが、上の空のオデオンは気が付くこともなく、飯を食べた後は店舗の方へ去って行った。
残された食器の汚れを綺麗にしてから、さて、とナタリアは思案する。
『喫緊の問題は一応の解決を見た。取り敢えず、城を追い出されても即野垂れ死はない。逆転の芽は残るだろうぜ』
「いや、まだじゃ。せめて師父様がわしに託された遺言状を取り返さぬことには、死んでも死にきれぬ」
ゼディアールヴ一党が奪っていった書状は祖父の他の遺産と異なり、明確にナタリアに所有権が移るものだ。なんとしてでも取り返し、師父が生前に書き残した言葉を知りたいと思う気持ちは非常に強かった。
とはいえ、気持ちが先走るばかりでは事態は好転しない。
現物の所在さえわからない現況。一番ありそうなのは、未だゼディアールヴが現物を所有していることだろうが……。
『うーん、難しいな。せめて内容がわかれば相手の出方も予想できるが。――少なくとも高価で売れる貴重品ではないんだ。闇に流されて回収不能という最悪のシナリオはないはずだぜ』
推測ばかりになってしまうが、おそらくゼディアールヴは遺言状を開封しているだろう。強引な手段で掠め取ったのだ。大切に保存などしておく筈がない。
中身を見たゼディアールヴは一体何を思ったのか。重要な情報が隠されていると信じて、封を解いたに違いない。その先の環状は落胆、あるいは満足?
与えられた部屋の椅子でナタリアが”声”と話していると、いつの間にやら朝が訪れていたようだ。先程から店に入る客の姿がちらほら見受けられる。朝食用にパンを購入しに来る客を相手にしようとするならば、なるほど。これほど早起きしなければ経営が立ちいかないのも分かろうものだ。
窓から下の通りを眺めていると、非常に目立つ鎧姿の兵士がしゃきしゃきした足取りで、オデオンの店にやってきていた。
顔面全体を覆い隠す金属兜からは、馬の尻尾のような赤毛の束が一筋はみ出している。
ナタリアは思わず窓を開き、空属性による微風に声を乗せて、彼女の名を呼んだ。
「おーい!レヴィ。おはようっ!」
歳相応の元気な挨拶を聞いた鎧姿のレヴィは、夜勤の疲れが一瞬にして軽くなったような晴れ晴れとした顔で、ナタリアに手を振り返した。
軽い足取りでこちらにやってくるレヴィ。ナタリアも彼女に合わせて、出迎えるように部屋を出て階段へ向かった。
二人がぶつかったのは、階段の踊り場だった。
「お早うございます。昨日は無事につけたようですね、良かったです」
『ほんと、無事で良かったよ……』
「実は来る途中で、チンピラの集団に狙われてのぅ。運良くデュアルソロスという通りすがりの善人に助けてもらったのじゃ。一人でも何とかなったとは思うが、その場合怪我の一つくらいはしていたかもしれん。感謝じゃな」
「んなっ!?」
レヴィは眼を丸くした。
なにか言いたげに口をもごもごさせて、結局ため息を一つはいただけ。ゆっくりナタリアの頭を撫でて、
「――どっと疲れが出てきたみたいです。取り敢えず、部屋に行きましょうか。叔父さんに部屋はもらえたのですか?」
肩を叩いて進むように促してくる。ナタリアはオデオンの好意に甘えて、二階の部屋を使わせてもらったことや、二階の部屋に住み込んでいる見習い職人は誰も居ないことなどを伝えた。
「修行は周期的なのですね。私が叔父さんの二階に下宿していた期間は、あまり長くもありませんでしたから、そこら辺はあまり詳しくないのです」
二階の廊下に並ぶ三つの部屋の、真ん中でナタリアは立ち止まった。
「ここが借り受けておるわしの部屋じゃ」
「私が以前使っていた部屋と同じです。心持ち他の部屋よりも広いんですよ」
ナタリアはレヴィと同じ部屋を選べた自分をちょっとだけ誇らしく思った。別段どうということのないことだが、嬉しいものは嬉しい。
まだ自分でも把握しきれていない部屋にレヴィを招き入れる。
彼女はナタリアよりも余程慣れた様子で、二脚の椅子の一方に座りながら鎧の留め金を緩める。フルフェイスの兜をばさりと脱ぐと、蒸れた臭いと豪奢な頭髪が広がった。
手早く手拭いで乱雑に頭をこするレヴィ。ナタリアも汲んできた水に手の平を沈め、日属性の発熱効果で適温のお湯を作って、甲斐甲斐しくレヴィの世話をする。
鎧を脱ぎ捨てリラックスしたレヴィは、粗末な椅子に浅く腰掛ける。
「――それで、襲われたとは一体どういうことですか?」
真剣な眼がナタリアの瞳を覗きこむ。
憂慮、心配。気遣わしげな眼は昔の衛兵長と同じもので。
取り巻く状況が激変しても、変わらないものだってきっとある。
それなら――まだ、頑張れるはず。
「なんでもないのじゃ。服装で目立ってしまったのか、ごろつき数人に囲まれてのぅ。魔術で突破しようとした時に、デュアルソロスなる者に割って入ってもらったのじゃ。このパン屋の常連らしいから、わしに聞くよりもオデオン殿に聞いてみるほうが早い」
「……本当に、ただのごろつきでしょうか?」
『あぁ。それは俺も感じていた。幾らなんでも運悪過ぎだ。後ろで糸引いている奴がいるのかもしれねぇ。そもそも陰謀に巻き込まれかけているんだ。覚悟だけはしておけ』
”声”とレヴィが異口同音に言う。
「分からぬ。じゃがこれが敵の攻撃だったとしても、わしは屈さぬ。抗い、戦う。師父様の名に恥じぬ振る舞いをするのみじゃ」
「そう……ですか。……ならば、良いでしょう。覚悟があるのなら。あなたが戦う戦士だと言うのなら、ここで隠し事をしては小さな戦士への侮辱になるでしょうから」
口篭ったレヴィが、強い口調で言い切った。ナタリアの意思を確かめ、その言葉を告げる。
「幽議会というモノが開かれるそうです。列席者として私も召喚されました。皇帝陛下不在の今、主だったお偉方が何人も臨席します。話し合う題目は――大賢者の死について」
どくん、心臓がはねた。言葉を失ったナタリアに畳み掛けるようにレヴィは言葉を続ける。
いや、苦しみを出来るだけ短くしてやりたい彼女の心遣いの発露だろう。
両目を閉じてナタリアを見ないようにして、レヴィは粛々と事実だけを告げる。
「大賢者様の死は帝国に大きすぎる打撃を与えました。その死を公表するのか否か。公表するのであれば、どの階層の人間までに、誰が何処でどのように。大賢者様の死に関係するもろもろの事を話し合う場です。情報のむやみな拡散を防ぐため、少数の権力者ばかりが集められています。私如きが本来知らされるはずのない会議ですが、今回は大賢者様の死の見届け人として、出席を軍から要求されました。……ナタリアについては何も言われませんでしたが、大賢者様を見送ったというのならば、あなたにも十分出席する資格があると思います。――会議では傷つくことがあるかもしれません。身体ではなく精神に癒えがたい傷が刻まれるかもしれません。何かを勝ち取ることさえも出来ないかもしれない。出席したことを後悔するかもしれません」
脅すようにレヴィは眉間に皺寄せてナタリアを睨みつけた。
ナタリアはその視線を跳ね返すように胸を張って前を向いた。
「もちろん、会議にナタリアが出席しなくとも、後ほど会議の内容を私が伝えることも出来ます。というより、この選択肢のほうが余程良いのだと思います。少なくとも私はそう思う。けれど、選ぶべきはあなただと思うのです。戦士であるというのならば、あなたは大人に守られるばかりの柔弱な子供ではない。ひとりよがりな決め付けで、一方的にあなたを守ったような気になっているのは御免ですから」
その会に臨席すれば、否応なく現実を直視させられるだろう。師父がもうこの世にはいないという辛い現実を。
けれど――
迷わない。負けたくない、負けられない。
千載一遇のチャンスに尻込みをしている場合ではない。
掴む、戦う、立ち向かう。まだ、まだ戦える。
「是非もない。師父様の事ならば、弟子のわしが出席するのが筋ではないか」
声は震えてはいなかった。レヴィの紅い虹彩に自分自身の姿が映っている。大丈夫、胸は張れている。
幽議会が開かれるのは三日後。城を追い出される期限は一夜明けて明後日まで。ナタリアが追い出されるのを見計らったようなタイミングでの会に不快感を覚える。
公に出来ない事情があるのだから、ごくごく内密なものになる。レヴィの伝手がなければ、愛弟子のナタリアでさえも知らされることはなかったであろう。
そういう意味ではレヴィにはいくら感謝してもし過ぎるということはない。
ナタリアが気を吐いたのを見て、レヴィは薄く微笑んだ。
「分かりました。その意思を尊重しましょう。当日迎えに来ますから、気構えだけはしておいて下さい。――で、私からの話はこれで終わりですが、もう一つ。喫緊の用件がつい先程生まれてしまいました」
わざとらしく柏手をうって、レヴィが今度こそ満面の笑みを浮かべた。
「戦闘訓練の話がありましたね。確かに私も今のナタリアをそのままにしておくのは不安です。付かず離れずで守れないからこそ、せめて自衛出来るだけの術を身に着けてもらわなくては」
「う、うむ。そうじゃったな」
訓練自体は望むところではあったが、レヴィの不気味な笑顔に威圧されて、たじたじとなる。
「安心して下さい。まだ骨格の出来ていない時期に無理はいいません。それにナタリアは魔術師でしょう?幾らなんでも新兵用のメニューはしませんから」
「す、少しも安心できんのは何故じゃろうなぁ……。お手柔らかに頼む」
「お任せ下さい」
――それから数時間、オデオンの家の二階は物音一つしなかった。
あの日。運命が擦り切れたローブを身に纏い、やってきたあの日。
ナタリアは本当に未熟な子供に過ぎなかった。
「ほれ、こんな風に。最初は特に何かを覚えずとも良いのじゃ、簡単じゃろう?」
孤児院から帝都に向かう旅。その一日目の夜は屋根壁の無い野ざらしの空き地で越すことになった。
拾ってきた樹の枝を両手いっぱいに掴んだ師父――いやこの時はまだファーレーン様だったろうか――とにかく、帝国の誇る随一の大賢者は大量の燃料を抱えて、ナタリアに手本を見せていた。
土の上の、落ち葉の下の。相当深い所に埋もっていた枝も多かった。湿っていて何日か天日干しせねば焚き火には向かない枝だ。少なくともナタリアの見る限りはそうだった。
パキパキ、と小枝を踏み割るような音がした。
音源は大賢者の持つ一抱えほどもある小枝だ。よく見ると湿っていた枝がまるで嘘のように乾ききっている。水分を飛ばされた枝は、金銭で贖うレベルの上質な燃料に変わっていた。
特に何かをした風でもなかった。それなのに湿った枝は枯れ枝に変化した。
これは――
「魔術?でも、どうやって」
当時のナタリアは夜属性の適性だけあっても、魔力の流れを視認する事などできなかった。だから大賢者がどうやって枝を乾かしてみせたのか、推測する以外に手立てはなかった。
「日属性の人間は体内に熱を持っておる。これが全方位に常時熱を放射していて、物を暖めることにも使える。触れてみると、日属性の者は他属性の者よりも幾ばくか温かい体温を持っておるのじゃ。わしもお主も、日属性おエーテルが体内に満ちておるのじゃから、同じことが出来るのじゃぞ?」
まだ乾かしていない濡れた小枝を一本ナタリアは渡された。
手の平からじっとりと湿り気を感じる。これが本当に乾くのだろうか。
ゆっくりと感触を確かめながら、力をかけてみる。当然枝はたわみ、折れそうになる。何度かギリギリまで試してみて効果が無いと分かると、今度は擦ってみたりした。ざらざらとした表面の僅かな凹凸さえ感じ取れるほどに意識を集中した。
熱。熱。
温かさ。生じたイメージは炎。厨房の燃える炎。
肉を焼き、硬くて食えたものではない野の菜を柔らかくしたり、魔法のように美味しさを生み出す炎。
触れれば火傷するような暴力も秘めた揺れる熱。
気付けばそうなっていた。
ナタリアの熱が伝わり水分を飛ばされた小枝は、大賢者の持っていた枝と同じように上質な枯れ木にすり替わっていた。
「上出来じゃな。魔力も消費されておる。よかったよかった」
大賢者の巖のような手が不器用に頭を撫でる。多分身長差があるから、手の置き場所に丁度都合がいいのだ。褒められ慣れているはずのナタリアも、何故か彼の称賛は嬉しく感じた。きっと彼も一緒になって喜んでくれているからだろう。
孤児院の先生の褒める言葉は、純粋にナタリアの為した行為を称えるものだった。それはきっと分け隔てなく子どもたちを育てていくためには仕方のない事だったのかもしれない。特別を許さない、均質化された称賛、賛辞。誰がやったかではなく、何をやったかを重視する価値観。
大賢者の褒め方は質が違う。ナタリアがナタリアだからこその言葉。親がいるとしたらこのような感じなのだろうか。
大賢者が大量に用意した枯れ木とナタリアの分を合わせて、焚き火を作る。
<発火>魔術が発動し、赤い火が組み上がった燃料に灯される。
少しづつ木を足していって、だんだんと火は大きくなり炎になる。
チロチロチロ。
心の何処かが暖かくなる。
魔術とも呼べない魔力の行使。それがナタリアが初めて大賢者に習ったことだった――
「……こんな物でしょう。飲み込みの良い生徒に教えるのは、存外に楽しいものですね。――基本は反射です。考えてから選択すれば、その分動きには隙が生まれてしまいます。だから身体に動きを覚えこませることが、武術でも魔術でも重要なのです」
朦朧としていた意識が現実に浮上する。なんだか昔の夢を見ていた気がする。いや、白昼夢を見たわけではなく、眠り込んだりはしていなかった。多分意識が消えるくらいに厳しい訓練をこなしたのだ。ぼんやりとだが記憶には残っている。
「まあこんな短時間では十分な効果も望めませんが」
「な、何回魔術を使ったのかさえ覚えておらんぞ……。周囲のエーテルを食い散らかしてしまったんじゃなかろうか……?」
ゼイゼイ荒い息をつく。もちろんエーテルは拡散する性質を持っているから、一時的に空間のエーテルが枯渇することがあったとしても、すぐに元通りになるものだ。けれどレヴィの指導による魔術の連続行使は過酷なもので、本当にエーテルが無くなってしまったのではと思うくらいだったのだ。
「自我が強すぎては戦闘なんて出来ませんよ。判断なんて、いちいち考えていては一瞬の遅れが命取りです。自我が消えるくらいの訓練を積まなくては、実戦なんてとてもとても……。大賢者様の事はもちろん尊敬していますが、こと戦闘にかけては譲る気はありません。これからも私の指導を受けるつもりなら、覚悟しておきなさい、ナタリア」
ナタリアの術式行使に付き合って、同程度の回数魔術を発動していたにも関わらず、涼しい表情のレヴィ。術式行使に筋肉はいらない、ただ脳を回転させ記憶領域から術式を精密に引き出すことだけが望まれる。レヴィとナタリアの肉体的な差異は、魔術的スタミナの多さに関係しない。レヴィがピンピンしているのは純粋に経験による慣れだ。
「う、うむ。高名な魔法剣士殿はやはり伊達ではないのぅ……」
見せ付けられた地力の差だけでも、積み重ねてきた年月の重さが感じられて、ため息を付きたくなる。
何時かは其処に辿り着けるのだろうか。
『……お疲れさん』
厳しい訓練風景を黙然と見守っていた”声”が言う。ナタリアの意識が朧なときもずっと見ていたのだから、むしろナタリアよりも実感の篭った言葉だった。
ナタリアが課された訓練内容は極めて単純だった。ようは反射速度を鍛える訓練である。
レヴィが魔術を展開する。
その予兆を察知した瞬間に抜き打ちで、魔術を放射するのだ。
先に発動していたレヴィを上回る速度で術式を行使できるようになれば合格。それも一回や二回ではなく、安定して先を制するようにならねばならない。
当然のごとく、数時間で合格を貰えるわけもなく、何度も何度も繰り返し魔術の発動を強制させられた。
普通に考えて、先発しているレヴィをどうやってスピードで抜けるのか、という話なのだが後の先という形で先行することは実際不可能というわけではなかった。
一度だけだが、ナタリアもそれに成功している。既に訓練時間も終了間際、疲労によって脳はうまく働かず、自分が今何をしているのかさえもあやふやな瞬間だった。忘我の一瞬、ナタリアの動きは己の意識を凌駕して、レヴィの術式発動を封じていた。
神がかったというか、直感で発動を察知したというか。
とにかく、よくわからない感性に従ってナタリアは僅かばかり先んじた。
強くなれたかは分からない。彼女の言う通り、短時間で効果を望むものではなく、繰り返して身に付けていかねばならない類の技術だろう、これは。
けれど。前には進めた。藻掻いても藻掻いても、まったく前に進んだ実感が得られないことだってざらにあるのに、確かな進歩である。
「それでは、私は一度宿の方に戻りますが、あなたはどうしますか?このまま三日後までここに滞在するのなら私からもう一度叔父に話を通しておきますが」
「うむ、頼む。わしも帝城に戻ろうと思う。三日後の幽議会に向けて少し情報収集が必要じゃと思ってのぅ」
「……十分に、気をつけて下さい。くれぐれも今教えたことが必要になるなんて事態が来ないように」
一瞬渋い顔をしたレヴィだったが、嘆息してナタリアの帝城行きを認めてくれた。
城を追い出される前に何とかして手がかりか何かを掴んでおきたい。時間的猶予は少ない。
徹夜明けのレヴィは少しも眠そうな素振りを見せずに、帰る準備を始める。
重そうなフルフェイスの兜を頭から被り、留め金をはめる。手荒く結んだポニーテールを兜後部の隙間から伸ばせば、もう身支度は終わりだ。
「あなたの決意は尊重します。けれど、助けが必要なときはいつでも頼ってくれていいのですよ?私のような戦うことしか脳のない人種には、それが一番ありがたいですから」
「ふふ、既に沢山沢山。返しきれないくらいに助けられておるよ。心配せずとも良い」
彼女の顔はすっぽり覆われ見えなくなった。けれどくぐもったレヴィの声は聞き慣れたもので、どうしても嬉しくなってしまう。
別れを告げて鎧の騎士は階下に降りていった。そういえば朝方は随分と騒がしかった店先も、ピークが過ぎて静かなものだ。オデオンも手が離せないということはないだろう。
「さて、ではわしも準備をせねばな」
『本当は、行かないほうがいいんだがな……。安全地帯で情報だけ集められるならそれに越したことは無いと思うんだが』
「虎穴に入らずんば虎児を得ず。恐れて行動を躊躇するわけにはいかんのじゃ」
『死にたがったりは、するなよ』
一瞬、息が詰まった。
「な、何を馬鹿なことを……」
『昨晩、無理矢理に一人で外出した時から思っていたんだが。向こう見ずというにも程がないか?糞連中に目をつけられた時も一人で立ち向かおうとか、どう考えてもガキの出来る判断じゃねーよ』
「は……はは、今更じゃな。子供らしく無いという言葉は言われ慣れておる。賢いなどと、師父様を知るわしは口が裂けても言えんが、そこそこの頭はあるのじゃぞ?早熟の天才など珍しくもなかろうに」
口の中はカラカラだった。
多分、訓練がハードだったせいだろう。
緊張して、多分それで。
喉が渇く。
『ちげーよ。そんな話はしていない。あの時だってそうだ。衛兵長に会うために行った宿で兵士どもに襲われた時。対処してのけた所まではいい。どうして襲われて平然としてられる?どうして泣き叫ばない?泣かない子供なんて、その理由は碌なものじゃない』
そんなことはない。怖かった。平然となどしていなかった。
ああ、だけど。言い返そうとしても相手は見えない。目の前に居ない相手に言い返すには少しばかり勢いが必要だ。助走を付けなくちゃ、叫べない。助走が足りない、立ち止まったままじゃあ言葉を返せない。
「な、泣くだけで物事が解決するのならば、幾らでも泣くわ。じゃが、そうではない」
『その通り、泣くだけで世界を変えられるなんて思い上がりも甚だしい。重く重く、簡単には変えられないのが現実だ。何度ノックしても、決して開かない鍵のかかった扉のように』
「ならば、なぜ?わしは正しいのではないか?泣くことに意味など無い」
『意味はある。きっと何にだってな。ジジイが居なくなってからここまで、お前は全力疾走し過ぎだ。張り詰めた糸は案外簡単に切れちまう。人間の心だって同じだ。少しは遊びがあったほうが、打たれ強い人間になれるんだぜ?』
”声”の言わんとする事も分からないではない。走り続けた足はガクガクと震えていて、多分一度立ち止まってしまえば再び走りだすことは出来ないだろうという確信があった。
遠からず破綻が来るのは自明の理だ。いつかは立ち止まり、休んで力を蓄えなければならない。さもないと、転んで大怪我をする羽目になる。
分かっている。分かっているのだ。
だから、せめて――
『あー。全く。こんな不毛な言い争いをしていられるか!――俺は一人で帝城に偵察に行ってくる。付いてくるなよ!』
わざとらしく言い捨てた”声”はそれきり気配が消えてしまった。
口論の最中に突然相手が去っていってしまったら、引き止めたりするか意地を張ってこちらも知らん振りをするかだろう。
「ふ、ふん!誰がついてなど行くものか」
結果として。喧嘩別れをしたナタリアは、帝城に行くことを取りやめていた。
開いたままの扉を睨みつけて、勢い良く閉じる。さっと振り返ってそのまま寝台に倒れるように飛び込んだ。
反り上がった両足が、ダランと力なく垂れていく。
枕に顔を埋めて長い息を吐いた。
「居るの?」
ポツリと零す。反応は無い。
「居ないの?」
まだ、分からない。こっそりと眼だけを隙間から覗かせて部屋の中を見渡す。
居ない、居ない。
透明な彼を正しく認識できるとは限らないが、少なくとも今は居ない。
「……」
息を潜めて気配を窺う。夜属性の探知の力を総動員させて、耳をそばだたせる。
居ない、居ない。
思い切って顔を上げた。下半身の力は抜けていて、両腕を突っ張り棒のようにして上半身を起こす。きょろきょろと見渡しても、陽炎のような靄は欠片も見当たらなかった。
思えば。召喚してからずっと彼はナタリアの傍にいた。他の誰にも干渉できないから、必然的にそうなっていた。まだ数日の付き合いなのに、ナタリアが誰よりも信頼しているのは師父亡き今彼である。
「おーい、居ないのー?」
あまり大きな声は出せない。階下にはまだオデオンが居るだろうから、迷惑になる。
「本当に、いっちゃった……?」
微かな声は静寂に吸い込まれて消えていく。
ようやくひとりきりだと確信できたナタリアは、再び枕に顔を埋めた。
およそ半日。
この日は幽議会に向けた準備など何一つ出来なかった。建設的なことなんて何も出来なかった一日だった。
だけどナタリアにとって不必要な一日だったかと言われれば、違うといえる。決して無意味ではない。
――意味はある。きっと何にだって。
次の日、目元を赤くしたナタリアは精力的に活動を開始した。幽議会に備えての準備と根回しである。遺言状を取り戻すため、更には不当に奪われ貶められた師父の名誉を取り返すために。
”声”もレヴィも出来る範囲で協力をしてもらった。
ここまでやったのだ。負ける要素はない。勝てる見込みだ。
暴力や武力に依らない。言論に依る彼女の決戦の日が差し迫っていた。




