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師父慕う少女、果てに至る物語  作者: 犬山
犬、猿、雉
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09捲土重来の仮宿


 今晩もレヴィは夜勤があるらしく、仮宿にナタリアを自ら案内する時間はなかった。かといって部下に任せるのはナタリアにとって危険である。


「大丈夫じゃ。あまり見くびるでない。地図さえあれば目的地に行くことくらい訳ないわい」


 子供をはじめてのおつかいに出す親のごとくナタリアの心配をするレヴィに苛立ち反発心からついつい声を荒げてしまう。もっとも、まだ幼いナタリアが怒りを声ににじませようとしても、甲高い声が微笑みを誘うばかりだが。

 現にレヴィも苦笑しつつ、ナタリアを宥める。


「そうは言ってもですね。叔父の店は表通りに面していないので、知らないと見つけ辛いのです。ナタリア一人で行かせるわけには。今日は私とここに泊まって、明日の朝私が連れて行きますから」


 まさか未婚のレヴィが子守で休むなどと、口が裂けても言えるはずがない。なんとか言い訳を用意して夜勤を休むのだろうが、その苦労が透けて見えるようで、どうしても遠慮をしたい申し出だった。

 ナタリア一人でこの部屋に宿泊するというのは危ない。それは獅子の群れの中に、肉を放り込んでおくくらい危険な行為だ。なにせこの宿にはつい先程、ナタリアにいきなり襲いかかってきたレヴィの部下が泊まっているのだ。こってり油を絞られて、おしおきされたとはいえ、再犯の可能性が皆無というわけではない。

 動機の聞き取りもまだしていないから、レヴィもナタリアを一人で部屋に残すつもりは毛頭なかった。

 

 その点でレヴィの叔父の家ならば、ちゃんとした大人が居るわけで、レヴィとしても安心して預けられる場所だ。二人が揉めているのが、今から叔父の家に行くのか、明日行くのか、という時期の違いだけだ。


「大丈夫じゃと言うておろうに!<聞き耳>と<超感覚>があれば見つけられるわい」


 半人前とはいえナタリアは魔術師である。特に情報処理と思考判断に優れた夜属性を扱えるので、簡単に迷子にはなることはない。

 集音する<聞き耳>があれば行き交う人々の足音の多寡で表通りの方向を察知することも容易い。

 事実ナタリアは数度しか城下町に出たことがないにも関わらず、又聞きで位置のみ知っていた兵舎に真っ直ぐ向かえたし、こうしてレヴィと出会うこともできた。

 根拠のない自信ではない。実績のある自信だ。

 

「そこまで言うのでしたら……。地図を書きますので待っていてください」


 根負けしたレヴィはナタリアに地図を渡してくれた。

 地図を見た限りではそれほど複雑な道ではない。何度か角を曲がり、後は真っ直ぐ。最後に路地に入ればそこが目的地。

 第三区画の端の方にある小さなパン工房が目的地である。

 一人上京したレヴィの叔父が経営している店で、レヴィも帝都に来たばかりの頃世話になっていたらしい。彼女の話によると、丁稚のために二階の部屋が三部屋あるので運が良ければ空いているだろう、とのことだった。

 

 説明中に出勤時間が差し迫っている事に気づいたレヴィが慌ただしく鎧と兜を身に着けていく。赤い髪をコンパクトに丸めてぐい、と兜の裏に押しこむ。兜の後頭部、うなじの部分にはらりと一房流れた燃える髪は、艶かしい。

 

 そのまま出勤していくレヴィを見送ってから、ナタリアは宿を出た。

 出かける際に、宿の息子に会えるかと思ったが、いつも家業の手伝いばかりしているわけではないらしく、姿さえ見かけなかった。

 宿の場所は記憶したので約束は今度果たせば良いだろう。

 ナタリアは一人、地図を頼りに歩き出した。

 

 

 

 

 

 城からは更に離れていく。

 兵舎や城の勤め人の利用する商業施設があった第二区画を通りぬけ、第三区画へと入る。区画整備の手の届く街の範囲はだいたいここまでで、これ以上中心地から離れると、農村からの流民が無許可に住み着いているスラム街に入ってしまう。

 最近頻発する反乱騒動のせいで民衆の不安が増し、安全な都市部に人が流れてきているのだ。

 首都ともなればそのスラム街もかなりの規模になり、国も容易く撤去できない。

 城壁を持たない珍しい都市でもある帝都においては、第三区画とスラム街との明確な境界線がないせいで、治安の悪さがスラム街から第三区画へと伝染病のように流れこんできていた。

 レヴィがナタリアに渡した地図に書かれているパン屋周辺は、三年前ならばごく普通の治安状態の区域だったのが、今では素性のしれない人間がうろつくほど治安が低下してしまっていたのだ。

 レヴィはそこまで状況がひどくなっていると知らなかったから、ナタリアにその事を伝えることもなかったし、予定になかった急な行動だから抜かりがあっても仕方がない面があった。


 ナタリアが気づいた時には合計四人の人間に囲まれていた。姿はまだ全く見えていない。しかし魔術で強化された感覚は、ナタリアを中心にしてぐるりと円状に取り囲む怪しい人影を知覚していた。


「なんか、狙われてる」


 目立たぬようこっそりとあたりを見回す。ナタリアの近くを歩くのは疲れた顔をした人夫二人組と、樽腹の小汚い中年男性一人。金持ちにも見えなくて、悪漢のターゲットになりそうな人間は居ない。ナタリアの勘違いや自意識過剰ではなく、彼らの標的は自分である可能性が高い。

 ナタリアは高級な衣服を身に着けているわけではないが、仮にも帝城でも見苦しくない身なりである。周囲の空気から浮きに浮きまくっている事は、ナタリア自身にも肌で感じられるほどだった。

 物取りか誘拐か。

 さり気なく警戒しながら歩みは止めない。

 出来るだけ人通りの多い場所へ進もうとするのだが、その度に向こう側の包囲網が形を変えて行く手を阻む。

 土地勘が無いのが痛手だった。

 追跡を振り切る事も囲みをすり抜ける事も出来ない。


「これは……確定じゃな」


『んじゃ、偵察行ってくる』


 ナタリアが戦闘を覚悟すると同時、飛び出した”声”が離れていく気配だけを感じた。絶対に認識されない彼ならば気づかれないように様子を窺うことは容易い。自己紹介の時、彼自身が言った言葉だった。

 怪しまれないように歩調はそのまま。

 ナタリアは平静を装い、”声”の帰りを待った。

 口を閉ざして、耳をそばだたせて。

 何もしていなくても<超感覚>によって鋭敏化した第六感が危機を感じとり、ビリビリと肌を泡立たせる。


 そして――ついに敵の姿が視界にチラと映った。

 見かけは何の変哲もない労働者風の男だったが、ただ道を歩いているだけにしては異様に目つきが鋭く、腰の短剣は護身用にしては少しばかり大きすぎる。

 ナタリアが目を向けると、怪しまれるのを避けようとするかのようにさり気無く顔を逸らす。

 けれどわかって見れば、それは明らかに不自然な仕草だった。

 ナタリアは内心で確信を抱く。

 地理に不慣れなナタリアは意図せぬままに人通りの少ない方、少ない方へと誘導されていた。

 そしてついに。道ゆく人影が皆無になった頃。

 ナタリアの前後左右から四人の男たちが姿を現した。


 偵察から戻った”声”が告げた人相とピッタリ一致する。どれも見たことのない小汚い浮浪者たちだ。

 代表者のように、ナタリアの正面に一人の男が立ち塞がった。


 無言でナイフが腰から抜かれた。

 けれど、魔術の発動は確認できない。周辺魔力の減少はない。

 ならば大丈夫。相手に隠し球がないのならば、逃げ切れる。

 ナタリアが魔術を発動させようと、術式を構築した時、不意に場に闖入者が現れた。


「んあ……?」


 痴愚のようにぽかんと大口を開けた巨大な男がいた。軒先に頭頂部が届こうかという圧倒的な巨体。これ程の異形、異相。彼が人間であるはずがなかった。


「亜人か、しかも豚人間。臭い匂いがこっちまで漂ってきやがる。おいてめえ、さっさと失せな。とっとと消えないと刻んでバラして食っちまうぞ!」


 壁にぶつかって潰れたような鼻の骨格が特徴的な豚人間は、男の汚い罵倒の言葉も聞こえていないようだった。高い視点から、キョロキョロと周囲を見渡してナタリアや彼女を取り囲む男達を視界に収める。


「んー。何してる?」


「おい、聞こえなかったのか!さっさと去ね、と言ったんだ」


 脅しが毛程も効いていないことに気付いた男は、顔を真っ赤にして怒鳴った。

 しかし身長差があまりにも大きかった。

 二メートルを越える巨体を持つ豚人間は重厚な脂肪を鎧のように纏っている。男の持つような大きめの片手ナイフでも、豚人間相手ではペーパーナイフのように心許ない。


「ぶふ、あぶない」


 激昂のあまりナイフを持った手を振り回す男を認めた豚人間は、一本一本が丸太のような太い指で、男の体を軽く撫でた。

 本当に羽根で触れるような優しい仕草だった。

 

 そうするとまるで手品のように男の意識は消えてしまい、ナイフをポロリと手から落としてその場にへたり込んでしまった。

 路傍の石を払うかのような容易さで、仲間を一人無力化させられた男たちは、目に見えて動揺した。

 小心な彼らの自信は数と武装によって支えられていた。暴力を是とする以上、より大きな暴力には屈するしかない。

 人間と魔物の中間種だと言われれる亜人は、筋力も耐久も文字通り人間離れれしている。専用の装備を用意するか、対処法を知る戦闘の専門家でも無ければ、勝てない。ナイフを持っただけの一般人では歯が立たないだろう。


『なんだか分からないが、チャンスじゃないか。それにしても、豚が言葉を話しているな。あれも人間なのか……。デミヒューマンってやつかねぇ』


 先行きを見守るナタリアは、襲撃者の意識が逸れてしまったことに気付いた。

 好機とばかりに、<風弾>の引き金に指をかけたままで、ナタリアは姿勢を低くして物陰にその小さな身体を潜ませる。一時的に彼らの視界から逃れたに過ぎないが、不意を打つには十分過ぎるくらいだ。

 ナタリアの瑣末な動きは幸いにして、賊に見咎められる事は無かった。

 彼らは彼らで亜人の闖入者の対処に慌ただしかったのだ。


「畜生、よくも!!」


 長柄ものを持った二人が陣形を組んで、刃先を同じ方向に揃えて巨人を威嚇する。


「化け物がっ」


 二人の槍衾の後方から、一人がナイフを投げ付けた。

 豚人間に迫った凶刃を見て、ナタリアは身を竦ませた。自分は躱せなかった。レヴィに助けて貰わなければ、危ない所だったのだ。平静でいられる筈もなく、見知らぬ亜人の無事を無意識下で願っていた。

 そのナタリアの意思に反応した<風弾>が、軛解き放たれた猟犬のように一直線に飛び出す。


「あ」


 見事に的中。

 空中で横っ腹を強かに打ち据えられたナイフは、失速し地面に突き刺さる。

 唖然とする襲撃者たち。

 巨人の豪腕はその致命的な隙を見逃しはしなかった。豪風が辺りに吹き荒れる。鈍重な動きに秘められた運動エネルギーは計り知れない。小枝のようにパラパラと飛ばされ失神した男たちの身体三つ。出会い頭にやられたのと合わせて、計四人の悪漢はあっという間に制圧されていた。

 いくら訓練を積んでいないごろつきとはいえ、数の不利をあっさりとひっくり返すあたり、亜人の身体能力の高さは図抜けている。


「うんむ。面倒なことになったなぁ。大丈夫かあ?」


 ナタリアの視界は急に暗くなる。夜属性の敏感な知覚によって、自分の潜む物陰を覗き込むようにしている亜人の存在が原因だと知る。


「大丈夫じゃ。助かったわい。礼を言う」


 微かな恐怖を押し隠し、心の準備をしてからナタリアは相手に向かい合った。機先を制するようにぺこりとお辞儀をする。


「いんやぁ、気にすることないがぁ。じゃけど子供一人でこんな危ない場所まで来ちゃいかんよ。親御さんはどうした?」


 常識的すぎる対応はかなり意外だった。大男の外見はかなり恐ろしく、落ち窪んだ眼窩を見つめていると吸い込まれそうに感じる。

 孤児院に一人だけいた亜人の子供は、まだ幼かったせいでコレほどまでに人間との種の違いを実感できなかったが、彼は違う。

 年齢など推測すらおぼつかないが、成人していることは確かだろう。素手で悪漢たちを伸してしまった腕力は見ての通り。発声器官が喉の奥の方にある関係で、随分と声がくぐもって聞こえる。

 外面は物騒だが、わざわざ屈んでまで視線を下げてくれる気遣いは、彼の繊細さを表しているように思えた。

 ナタリアは相手の柔らかな物腰を見て、少し信頼を預けてみることにした。

 

「あるパン屋を探しているのじゃ。知り合いに紹介されてのぅ」


 レヴィの親戚が経営するパン屋の特徴を言ってみる。地理的にはかなり近い所にあるはずだから、この下町の住人であるであろう彼がそのパン屋を知る可能性は決して低くなかった。


「んが?オデオンさんのとこか??」


 まさにその予想は的中した。レヴィの親戚の具体的な名前は何も出さずに、匂わせただけで店の名前を言ってみせた。知っているふりではなく、本当に彼はパン屋を知っているのだ。


「近いから送ってやる。一人は、危ないぞ」


 事実そうなのだろう。この界隈の危険な香りはまだ子供のナタリアにすら感じられるほど本能に訴えかけるものだ。いくら魔術の扱いに長けていたとしても、不意打ちを受ければ呆気無くやられてしまうことだって有る。

 守ってもらうことに異存はない。問題なのは出会ったばかりの彼を信用できるかどうか、という話だ。


『……』


 ”声”は口出しをしなかった。ナタリアの判断を持つようにだんまりを決め込んでいる。


「すまぬな。恩に着るぞ」


 疑念はあった。しかし粗暴な口ぶりながら、純朴さが滲みでる彼の人柄はナタリアの警戒心に引っかかるものがなかった。

 確かに彼は剛力をその身に宿す亜人ではあるのだろう。けれど、武器を手にしたごろつきを相手にする時でさえも出来るだけ怪我のないように手加減していたし、分別はあるのだ。

 帝国の厳しい亜人差別にもめげない思いやりの精神は素直に褒められるものだろう。


 結果としては懸念していたようなことは何も起こらなかった。

 ナタリアに絡んでくる無法者はいなかったし、子供だと侮られ声をかけられることさえ無かった。隣に馬鹿でかい亜人の護衛を連れていたのだから、当たり前だ。

 傍から見れば、良家の子女とそれに付けられた奴隷の護衛という風に見えるだろうか。

 とにかくこれ以上のトラブルに巻き込まれなかったのは幸いだった。


「ん、ここじゃあ」


 外見はごく普通の民家に見えた。しかし風に乗ってバターのいい香りが漂ってくる。嗅いでいるだけで、よだれが溢れてきそうな芳醇な香りである。


「おーい!オデオンさん」


 大声を出してから亜人の男は、躊躇なく扉を開けた。途端に流れ出したパンの匂いは、直接的なものではなくもっと奥ゆかしいものだった。何年間もここでパンを焼き続けてきたのだろう。材木に染み込んだ微かな匂いの蓄積が、何よりも雄弁にここがただの民家ではない事を語っていた。


「はいよー、ただ今」


 奥の方から人がやってくる音が聞こえる。ナタリアは懐の中でレヴィに貰った紹介状を握り締めながら、相対の時を待った。

 程なくして姿を見せた中年は、燃えるような赤毛以外は華々しいレヴィに似ても似つかない冴えない男性だった。


「先生じゃないですか。いったいどうしたんですか?」


「オデオンさん。用事があるのはおらじゃなくて、こっちの子さぁ」


 天井の低さに窮屈そうに身を縮めた亜人が、ナタリアを指した。

 巨人と目線を合わせるために、だいぶ上方を見上げていたオデオンは、その時初めてナタリアの存在に気付いたようだった。


「初めまして、オデオン殿。わしはナタリア。ヘイルダム・ダールクヴィスト殿にここを紹介されて来たのじゃが」


「……ふーん。子供の出鱈目な嘘じゃあなさそうだ。私には姓もない。あの子との繋がりを知る者はそう多くない。あの子が軽々に話すとも思えない」


 答えず黙ってナタリアは紹介状を差し出した。身内宛のものだから、そうかしこまったものでもなく、メモ程度のものだったが筆跡から真偽確認は出来たらしく、オデオンはメモを見て優しい笑みを浮かべた。


「そうか、そうか。あの子も立派になったものだ。我が事のように誇らしいよ」


「あー。それじゃあ、おらはこれで。もう一人であんな場所を歩くんじゃないぞ」


 懐かしそうな横顔を見せたオデオンを見て、空気を察した大男はやはり窮屈そうに首を竦ませたまま、身を屈めて退出していった。


「重ね重ね、礼を言うぞ」


 ナタリアのお礼の言葉に片手を上げて応えた大男は、路地の向こうに消えて行った。

 彼を見送った後、ナタリアは再びオデオンに向かい合う。

 オデオンは営業スマイルを顔から消して、無愛想な顔に変わっていた。こうしてみると平凡だった容姿も、引き締まって見えて渋い男に見えなくもない。


「あの子はやっぱり仕事が忙しいのか?近況をなにか知っているか?」


「あぁ。ヘイルダム殿の宿舎からここに直接やってきたからのぅ。わしの知る彼女はいつでも壮健であったよ」


「そうか。元気そうか。よかったよかった」


 姪っ子が息災だと聞いて顔を綻ばせたオデオンは、意識的に表情を引き締めてナタリアに向き直った。


「あの子からの手紙には、しばらく家に住まわせてやって欲しいとしか書かれていなかったんだが、事情は?」


「さして面白い話でもないがのぅ。求められるのならば応じようぞ。ああ、わしに出来ることでなら滞在費の礼は幾らでもしよう。こう見えて魔術師じゃ。便利に使ってくれて構わぬ」


 事情といってもナタリアにとっては苦痛の記憶だった。親とも呼べる最愛の師父を失い、遺産を奪われ城から放逐されて。神経の細い人なら、まず間違いなく参ってしまうであろうトラブルの連続だ。気丈な精神で弱気を抑えこむナタリアだったが、平穏だった今までの日々と比べ、数日のうちに立て続けに賊の襲撃を喰らうなど、スリリングな非日常に悩まされ続けている。

 それが負担にならないはずもなく、何もかも忘れてしまいたいとさえ思っていた。

 だからこの申し出は半ばやけっぱちのようなものでもあった。洗いざらいぶち撒けてなにか変わるかも、少しは楽になるかも、という縋るような希望が込められていたのだ。


「話したいのならご勝手に。運が良かったな。今の時期は二階は空だ。その分、掃除もできていないが」


 ぶっきらぼうにそれだけ言って、オデオンは階段を指し示した。

 指と、その指す方向を交互に見比べてオデオンの顔色を窺う。

 これは――泊めてくれるということだろう。


「すまぬ、恩に着る」

 

 お礼を述べてから、ナタリアは貸し与えられた二階の部屋に移動した。

 オデオンは特に案内をするでもなく、奥の方に引っ込んでしまった。今のナタリアにはその不親切さがありがたかった。

 

 掃除も満足にされていない空部屋はかなりひどい有様だった。しかし、定期的に人が住んでいたおかげか、致命的な破損といったものは見受けられない。少し清掃すれば十分に使用に耐えるだろう。

 日が完全に落ち切ってしまう前に作業を済ませたかったナタリアは、風の助けを借りて手早く室内の埃を集めて外に吹き飛ばした。レヴィは代金など必要ないといったが、それではナタリアの気が済まない。何かオデオンへのお返しのようなものを考える必要があるだろう。


「あ、そういえば名前を聞いてないや」


 お返しという言葉で思い出した。

 彼。亜人の彼。人並み外れた力を持ちながら、優しさを失わない強いひと。

 人族と血が混ざることで、種が薄くなることを嫌い辺境に集落を作る亜人は多い。その分、都会に出て人と馴染もうとする亜人は少数派だ。彼は奴隷の首輪も付けておらず、おそらくは自由民。わざわざ田舎から都会に出てきた口だろう。

 オデオンは彼を先生と呼んでいた。聞いてみれば名前を教えてもらえるかもしれない。

 

 軋む階段をとんとんとん、とリズムよく降りていく。一階に降りると、戸締まりをしていたオデオンとばったり出くわす。


「これはいい所に。亜人の御仁の名前を知ってれば、教えてもらいたいのじゃが」


「デュアルソロス先生の事か?うちの近所だから会いたければいつでも会えるぞ。生徒さんに勉強を教えているらしいから、その分込みでよくうちで大量購入してくれるんだよな。あの先生はいい人だよ。亜人だからって差別されても、挫けない。尊敬される人ってのは、あんな人を言うんだろう」


 デュアルソロスは近所で数学塾を開講しているらしい。頭の血の巡りが悪いと嘲謔される豚人間の彼が、学問を教えている姿はまったく想像できない。詳細を知りたいところだが、一刻も早く床につきたがっていたオデオンをこれ以上引き止めるわけにも行かず、それ以上の情報は得られなかった。


「……わしも寝るか」

 

 大人用の大きすぎる寝台に横たわりながら物思いに沈むナタリアは、いつの間にやら久方ぶりの安眠を享受していた。敵意に晒されない邪魔されない、澄んだ安らぎ。

 大人たちの善意と守護の気持ちが、幼い心を優しく抱擁してくれた一日だった。

 レヴィ、デュアルソロス、オデオン、そして――

 治安の悪化に対抗するように、頑丈な錠が守るオデオン宅の扉の前。

 その晩、人魂のようなゆらめく陽炎が仁王立ちしていたとかいないとか。


 ナタリアの寝顔は安らかなものだった。


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