師匠との出会い
「ふぇぇぇぇん!!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったシュバンが、俺にしがみついてきた。
「わっ……! 分かったから! 少し離れろって!」
それからというもの、俺は様々な生き物を観察するようになった。
糸が急激に細くなった生き物は、決まって数日以内に良くない出来事に見舞われた。
病状が急変したり。
大怪我を負ったり。
時には、それ以上に悲惨な結末を迎えることもあった。
そして――。
糸が切れる瞬間を、この目で見たこともある。
道端を歩いていた一匹のネズミが、通行人に踏み潰された時だった。
その命が尽きる、まさに一瞬。
グシャッ――!
プツン。
ネズミに繋がっていた糸が、まるで張り詰めた糸が切れるように音もなく断たれ、次の瞬間には跡形もなく消え去った。
その光景を見て、俺はようやく一つの結論に辿り着く。
――あの糸は、命そのものと繋がっている。
糸が消えれば、生き物は死ぬ。
少なくとも、俺にはそうとしか思えなかった。
もちろん、ネズミが死んだ後には新しい糸がどこかに生まれていた。
だが、その時の俺には、それを気にする余裕などなかった。
糸について分かったことが増えても、誰かに話そうとは思わなかった。
話したところで返ってくるのは、
「またフェレンが変なことを言っている。」
そんな視線だけだと分かりきっていたからだ。
そうして、月日は静かに流れていった。
十歳になった冬。
俺は初めて、『白い球』を目にすることになる。
それを見たのは、孤児院の裏庭にある倉庫の近くだった。
深夜。
どこからともなく聞こえてくる不気味な物音のせいで眠れず、寝返りを打ちながら何気なく窓の外へ目を向けた。
その時だった。
倉庫の外壁、その影の下に何かがあった。
――球体だった。
異様なほどに白い。
それまで毎日のように見てきた青い球とは、まるで正反対の色。
しかも、周囲の何かが一か所へ集まっているようにも見えた。
思わず目を奪われた。
だが次の瞬間。
理由も分からない恐怖が、全身を駆け抜けた。
背筋が凍りつき、息が詰まる。
本能が警鐘を鳴らしていた。
――見てはいけない。
俺は震える手で布団を頭まで引き寄せ、そのまま無理やり目を閉じた。
翌朝。
慌てて倉庫へ駆けつけた時には、あの白い球は蜃気楼のように跡形もなく消えていた。
結局、あれが何だったのか。
今でも分からないままだ。
それから二年。
俺は十二歳になった。
ある日、孤児院の古びた塀の近くを歩いていると、ひび割れたレンガの隙間で小さな生き物が蠢いているのを見つけた。
黒みがかった赤い甲殻。
忙しなく動く触角。
「……カブトムシか。」
少し前にシュバンが捕まえて見せてくれたので、名前だけは知っていた。
「これ、町で売ったら高く売れるかな!」
目を輝かせながら本気で相談してきたシュバンに、
「商人に追い返されるだけだからやめとけ。」
と真面目に答えたのを覚えている。
だが、目の前にいる個体は、その時のものとは違っていた。
黒みを帯びた赤色。
背中には気味の悪い模様が浮かんでいる。
俺はその場で立ち止まり、しばらくそれを見つめた。
どうしてあんな姿をしているんだろう。
あの無数の脚は何のためにある。
触角はどうしてあんなにも不気味なんだ。
見れば見るほど気味が悪い。
「うっ……。」
今すぐ踏み潰してしまいたかった。
だが、靴の裏に得体の知れない体液がこびり付くことを想像すると、それも嫌だった。
「……気持ち悪い。」
心の中で散々毒づいて、ようやく視線を逸らした。
だが――
その様子を、院長先生に見られていたことを。
その時の俺は、まだ知らなかった。
誕生日の朝だった。
院長先生は、俺と同じ誕生日で合同の誕生日会を開くことになった四歳年下の女の子――リナには、可愛らしい人形を手渡した。
そして、俺の前には小さな桐箱が置かれる。
去年の誕生日には、なかなか立派な木剣をもらった。
だから今年も、きっと実用的で格好いいものが入っているのだろう。
そんな期待を胸に、俺は桐箱の留め具を外した。
カチリ――。
蓋を開けた瞬間。
中に入っていたのは、柔らかな土と――
あの、おぞましいカブトムシだった。
「数日前から、あなたが塀のところでずっと見つめていたでしょう? シュバンが、『フェレン兄ちゃんは絶対に喜ぶ!』って教えてくれたのよ。」
院長先生は、心から嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「…………。」
違う。
俺は好きだったんじゃない。
気持ち悪くて目が離せなかっただけなんだ。
そう言いたかった。
けれど。
桐箱の中では、俺の拳ほどもある巨大なカブトムシが触角を激しく揺らしていた。
カサカサカサ……。
ゾゾゾゾ……。
無数の脚が土を引っ掻くたび、ぞわりと鳥肌が立つ。
気のせいだろうか。
その虫が、まるで俺を嘲笑っているようにすら見えた。
「うっ……。」
喉が詰まり、言葉が出ない。
修道院では、贈り物を受け取ったらすぐに感謝を伝えるよう教えられている。
なのに、唇は貼り付いたように動かなかった。
院長先生に悪気はない。
ただ、盛大な勘違いをしてしまっただけだ。
俺は震える手で箱を抱えた。
恥ずかしさと嫌悪感で、指先が小刻みに震える。
「ふ、ふふふ……。」
せめて笑顔だけでも浮かべようとした。
だが、引きつった笑みしか作れなかった。
……恨めしかった。
生まれて初めて。
院長先生を少しだけ恨んでしまった。
年に一度しかない誕生日に、どうしてこんな精神的拷問を受けなければならないんだ。
「……これなら、シュバンにあげればよかったのに。」
心の中で愚痴を零しながら顔を上げると、
ちょうど向こうからシュバンが満面の笑みで駆けてくるのが見えた.
シュバンは、何かと不思議な子だった。
淡い紫色の髪。
透き通るような高い声。
見た目だけなら、どう見ても可憐な少女だ。
それなのに、れっきとした男の子だった。
院長先生やシスターたちも「弟」と呼んでいる。
……もっとも、俺は実際に確かめたわけじゃないので、百パーセント信じているわけではないが。
そんなことはさておき。
シュバンは小さい頃から異常なほど虫が好きだった。
他の子どもたちとはあまり遊ばず、気味が悪いくらい俺にだけ懐いている。
最初の頃は気味が悪くて何度も突き放した。
それでも、俺の『糸』の話を文句ひとつ言わず聞いてくれるのはシュバンだけだった。
だから完全に突き放すこともできず、何とも言えない腐れ縁になっていた。
「……!」
シュバンが俺を見るなり、満面の笑みを浮かべる。
そして、声を出さずに口だけを動かした。
唇の動きだけで何を言っているのか、はっきり分かった。
『兄ちゃん、見て! ぼくは二匹もいるよ!』
そう言うと、得意げに両腕を掲げる。
その細い腕には――
手のひらほどもある巨大な甲虫が二匹、ぴたりと張り付いていた。
「…………。」
あまりにも凄惨な光景だった。
思わず、あいつの顔面を全力で殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
だが、どうにか理性で押しとどめた。
代わりに手に持っていた桐箱を地面へ叩きつけ――
ようとして、寸前で踏みとどまる。
院長先生の気持ちまで踏みにじることだけは、どうしてもできなかった。
俺は静かに箱を食卓の上へ置くと、そのまま一言も発さず孤児院の玄関を飛び出した。
ダッ――!
「フェレン!?」
背後から院長先生の驚いた声が聞こえた気がした。
だが振り返らない。
そのまま無我夢中で走り続けた。
夕日が地平線へ沈みかける頃。
ヴィレの外れに広がる路地裏は、迷路のように細く入り組んでいた。
人通りもまばらで、時折誰かとすれ違う程度。
コツ……コツ……。
一度も入ったことのない路地を曲がり、さらに奥へ。
また一本曲がり、さらに奥へ。
周囲は次第に闇へ包まれていく。
そろそろ院長先生が子どもたちを総出で探し回っている頃だろう。
「……もっと必死に探せばいい。」
帰った方がいいとは思う。
けれど、子どもらしい意地が邪魔をした。
俺はさらに奥の袋小路へと足を向ける。
誰もいない。
地面も乾いている。
ここなら少し休めそうだ。
そう思い、壁にもたれかかろうとした――その時だった。
俺はぴたりと動きを止めた。
そこにいるはずのない『先客』がいた。
袋小路の奥。
建物が落とす濃い影の下に、一人の女性がいた。
黒いローブを深く被り、顔はほとんど見えない。
辛うじて、口元と瞳だけが闇の中に浮かんでいた。
壁にもたれ、腕を組んだまま静かに目を閉じている。
眠っているのか。
それとも、ただ休んでいるだけなのか。
俺には判断がつかなかった。
彼女の傍らには、年季の入った革鞄が一つ置かれているだけ。
その姿だけを見れば旅人にも見えるが、身につけているローブは驚くほど手入れが行き届いていた。
少なくとも、浮浪者には見えない。
俺が立ち尽くしていると、
その女性はゆっくりと瞼を開いた。
月明かりを受けて、灰色の瞳が静かに輝く。
そして。
わずかに首を傾け、俺を見下ろした。
「……なんだ、お前。」
気怠そうな声だった。
「こんな時間に、こんな場所をうろついてるガキとはね。」
「…………。」
初対面のはずなのに。
なぜだろう。
彼女を見た瞬間から、不思議と目を逸らせなかった。
その佇まいには、今まで出会った誰とも違う空気があった。
静かなのに、圧倒される。
何もしていないはずなのに、そこに立っているだけで周囲の空気が張り詰めているようだった。
……この人は、普通じゃない。
そう直感した。
これが、『師匠』との最初の出会いだった。




