糸を見る子
記憶はなかった。
両親の顔も、声も。
自分の名前を呼ばれたことがあったのかさえ、思い出せない。
雪の降る日だったらしい。
その日、俺は初めて――いや、はっきりとそれを認識した。
点と点を結ぶ、淡く細い『糸』。
世界のあらゆるものが、その糸で繋がっていた。
木と大地。
雪と空気。
そして、俺を置いて遠ざかっていく、あの人の背中までも。
あの頃の俺には、それが何なのか分からなかった。
ただ――
美しいと思った。
***
孤児院の子どもたちは、俺のことを変わった奴だと思っていた。
正確には、俺が時々理解できないことを口にするからだ。
「なあ、本当に見えないのか?」
「何が?」
「糸だよ、糸!」
「……また始まったよ、フェレン。」
子どもたちはうんざりしたように首を振る。
納得できなかった俺は、庭の隅で膝を抱えながらアリを眺めていたシュバンのもとへ駆け寄った。
「なあ……! シュバン! お前だけでも俺の話を聞いてくれ!」
「まってぇ……」
「聞いてってば!」
「また糸の話でしょぉ。待ってよぉ!」
皆が俺に距離を置くようになった理由は明白だった。
暇さえあれば宙を指差し、誰にも見えないものについて話していたのだから。
けれど、本当に見えていた。
空中を漂う、無数の線が。
「なんでみんなには見えないんだ……?」
「知らなーい。フェレン兄ちゃんがおかしいんだよ!」
「シュバン、お前は見えてるんだろ!?」
「ううん。ぼくも見えないよ?」
人と人を貫き、
木と大地を結び、
遥か空の彼方へと果てしなく伸びていく無数の糸。
それだけじゃない。
糸とともに宙を漂う、シャボン玉のような『青い球』も同じだった。
糸と球。
それらは、生まれた時から俺にとって当たり前の景色だった。
問題は――
俺以外の誰にも見えていないということだけだった。
シュバンだけは何とか味方に引き込めたものの、人数では圧倒的に不利だった。
それに、皆が少しずつ俺と遊ぶのを避けるようになっていった。
だから俺は、その日を境に糸の話を口にしなくなった。
「おぉっ! にーちゃん、にーちゃん! ぼくも糸が見えたよ!」
そう言ってシュバンが、白いものがべったり付いた手を得意げに差し出してきた。
「……シュバン。それ、クモの巣だから。」
***
俺が育った孤児院は、帝国北部の辺境にある小さな町――ヴィレの外れに建つ、二階建ての石造りの建物だった。
決して大きくはない。
だからといって狭いわけでもない。
一階には礼拝堂や食堂があり、二階には子どもたちの部屋が肩を寄せ合うように並んでいる。
どこにでもある、ごく普通の修道院兼孤児院だった。
そこではいつも、赤ん坊のミルクの匂いと湿った洗濯物の匂いが入り混じっていた。
朝になれば、院長先生の声が二階の廊下まで響き渡る。
院長先生は五十代前半の女性で、一日たりとも修道服を乱した姿を見せたことがない。
無愛想な印象こそあるものの、心から子どもたちを大切にしてくれる人だった。
子どもたちの誕生日は一人残らず覚えていて、誕生日の分からない子には孤児院へ来た日を誕生日として決め、必ず祝ってくれる。
もし病気で寝込む子がいれば、一晩中付き添って看病することも珍しくなかった。
ただし、子ども同士が大喧嘩をすると話は別だ。
必ず双方を呼び出し、正体のよく分からない道具を背負うと、静かな場所へ連れて行く。
女神様へ懺悔の祈りを捧げる儀式らしいが……。
「……まあ。」
とにかく、この孤児院に悪い人はいなかった。
院長先生も。
シスターたちも。
定期的に訪れる先生たちも。
そして、一緒に暮らす子どもたちも。
小さな喧嘩こそあれ、誰かを悪意をもって仲間外れにしたり、いじめたりするようなことは一度もなかった。
仮にそんな兆しでも見えれば、その子はすぐ院長先生に連れられ、静かな場所で女神様への祈りを捧げることになるのだから。
おかげで皆、それなりに仲良く暮らしていた。
……ただ、一つだけ。
俺だけが皆と違っていたものがある。
それが、『糸』だった。
最初は、自分の目が病気なのだと思った。
けれど、時折町を訪れる医者や、都市からやって来る教団の聖職者たちは、口を揃えて俺の目はまったく正常だと告げた。
どこから始まり、どこで終わるのかも分からない無数の糸が、世界そのものを隙間なく編み上げている。
その太さは様々だった。
太い糸もあれば、今にも切れてしまいそうなほど細い糸もある。
それが何を意味するのかは、誰にも分からない。
青い球も同じだった。
糸と同じように俺にしか見えないその球体も、正体はまったく不明だった。
大小さまざまな青い球が、水滴のように宙を静かに漂っている。
ただ、一つだけ気づいたことがある。
青い球にも糸は繋がっているが、その糸だけは例外なく、すべて同じ太さだった。
ごく稀にだが、青い球と糸が一瞬だけ視界から消えることがあった。
完全に見えなくなるわけではない。
そこに「ある」と、何となく分かるのだ。
だから、ただの見間違いだったのかもしれない。
どうせ糸が見えると言っても誰も信じてくれない。
青い球のことまで話したところで、頭がおかしいと思われるだけだ。
だから俺は、このことを誰にも話さなかった。
糸を見ることを初めて不快だと思ったのは、八歳の頃だった。
孤児院の近くをうろつく、一匹の年老いた野良犬がいた。
名前はなかった。
だから俺は、その犬を『ペン』と呼ぶことにした。
深い意味なんてない。
当時覚えたばかりだった、「紙に文字を書く道具」の名前をそのまま付けただけだ。
俺がそう呼び始めると、他の子どもたちも自然と『ペン』と呼ぶようになった。
ペンは時々孤児院の庭へひょっこり現れては、残り物のご飯をもらって帰っていく大人しい老犬だった。
子どもたちにも人気があり、院長先生も特に追い払うことはしなかった。
そんなある日。
ペンの体から伸びる一本の糸が、妙に目についた。
細かった。
あまりにも細く、少し風が吹いただけでも切れてしまいそうなくらいに。
今まで見てきた他の生き物の糸とは、明らかに違っていた。
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
理由は分からない。
それでも、その細い糸だけが頭から離れなかった。
そして――三日後。
ペンは死んだ。
朝早く、庭の片隅で丸くなったまま息を引き取っているペンを、子どもたちが見つけた。
「うわぁぁぁん! ペンが死んじゃったぁ!!」
「フェレンにぃちゃぁぁん!! ペンがぁぁぁ!!」
庭はあっという間に泣き声で埋め尽くされた。
院長先生は「ペンはきっと女神様のもとへ行ったのですよ」と子どもたちを優しく抱きしめ、慰めていた。
「……。」
不思議と、俺の目から涙は出なかった。
あの細い糸を見た時から、どこかで覚悟してしまっていたのかもしれない。
俺は静かに冷たくなったペンを見つめ、あの糸を探した。
「……ない。」
ペンに繋がっていた糸は、一本残らず消えていた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
跡形もなく。
その時、俺は初めて理解した。
糸の太さには、きっと意味がある。
そして――
あの糸は、生き物の『命』と繋がっているのだと。




