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5章 戦場にて

挿絵(By みてみん) 


 ――宵闇。秘めごとの気配が半球の閨に満ちていく。ふたりの天幕は、王兵の槍に取り囲まれている。


 心臓が暴れる。呼吸が焼ける。身を任せてくるヴィからも、激しすぎる鼓動が伝わってくる。


 シャルが命を差し出しても、ほんのひととき、ヴィを引き留めることしかできない。なにも残らない。


 それでも君に誓いたい。恋しい君を抱きしめたい。


 ほつれ髪を指梳くと、謎めいた笑みが現れる。こちらを覗く左側の目は紫に染まり切っている。零れるアメジスト色の涙を、シャルはうっとりと吸い取った。


 ぬくもりと痛みを分かちあい、快楽と献身を混ぜあわせる。ふたりで、共に生きていく未来を、ほんのひととき夢見る。


 ……女神は、この世のすべてを生んだという。その種はどこから来たのだろう?


 長く放つなか、ふと思った。重怠い余韻のなか、掠れ声をひそめた。


「君だけに教えよう。『イシャラナム』……私の真名だよ」


 亜麻色の残る髪をそうっと撫で、滴るような榛色の右の目を、意地悪く覗きこむ。


「名を呼んで。そして命じて」


 シャルは、熱っぽい吐息に混ぜて囁く。


「……イシャラナム、来世でも、わたくしのところに来て」


 ヴィも、嗚咽に混ぜながら囁きを返した。懸命に口角を持ち上げている。


「仰せのままに」


 その泣き笑いが眩しすぎて、瞳を閉じた。魂まで差し出せたことが、とても嬉しかった。


 瞼の裏に、可愛らしい鼻の上のしわが、青から桃へと頬を染める星の花が、白亜の横顔に惹かれる指先が、果てのない夏空の半球が――シャルの愛情と欲望と葛藤のはじまりが、浮かんで揺れて沈んでいった。


 君がくれた、ほんのひととき。ぼくは、とても幸せだった……。


 柔い唇の上で、茶色い恋人に、


「ヴィ、君だけを愛している」


 と、別れを告げてから、シャルは、静かに瞼を持ち上げた。


 金を光らせ、紫を射抜き、朗々と声を響かせて、古の名を呼ぶ。


『ヴィシュアプリーヤ』


 シャルは女神の魂を握った。胸が張り裂け、喉奥から灼熱がこみあげる。目も熱く濡らしながら、高く命じた。


「おめざめなさい」


 シャルは聖女を女神へ還した。

 ヴィは人の苦しみから解き放たれた。


 シャルだけが真実を知っていた。

 シャルは、ヴィを殺した。



 *



 なぜかはわからない。けれど、シャルの血脈だけが、連綿と女神の真名を継いできた。流浪の一族がひた隠した、もうひとつの秘密(タブー)である。


 なにが起こったのか、一瞬わからなかった。荒々しい疾風が通りすぎ、天幕が木端微塵に吹き飛んだ。黒々とした稜線上には、満ちた月がぽっかりと浮かんでいた。


 戦場のしじまが震えた。


 風に誘われるまま、豊満な肉体が宙に浮く。白銀(しろがね)色の髪が舞いあがり、水の流れの如く波打ち、月光に溶けながら遥か先までたなびく。


 澄み切った真円を背負う女神に、目を奪われた。溢れかえる月明かりに、頭が陶酔に染まった。


 ……ねぇ、ヴィ。君のせいだよ。


 大きな涙の粒で頬を濡らしながら、シャルは心のなか、許しを乞うた。


 ぼくは、こんなにも欲深くなってしまった。


 人である君に恋した。守りたかった、片時も離したくなかった。救いたかった、ぼくの命が尽きるまえに。


 でもね、ヴィ。ほんとは、それだけじゃない。


 神である君を見たかった、一目だけでいい。冴え冴えとした美貌が、漆黒に咲く銀と紫の輝きが。


 欲しかった、

 どうしようもなく。

 すべてが終わるとしても、

 あいつなんかに譲れない。

 ごめんね、

 ぼくが、殺したかった……


 シャルの指が、ひとりでに伸びた。まるで灯につられる虫のように。


 人影に気づいた女神は、たおやかに顎を上げた。豊かなまつ毛が持ちあがる。紫水晶のきらめきが現れる。


 冴えた眼差しが、黒髪を捉えた。女神は、ぽってりと色づく唇を歪めた。童女の如く愛らしい指先を、呆けた金眼へ差した。


 シャルは、赤い道で目覚めた。暗く、狭く、温かい。ぐねぐねと続く。知らないはずなのに、通い慣れた道に思える。

 遠くに一筋の光が差している。柔らかい囁きが聞こえる。急ごう、ぼくを待つ人がいる。明るく笑って、暗闇を歩みだした。




 *



 女神は腹を立てていた。とてもよい夢を見ていた。なのに目覚めさせられた。おまけに身体の奥底には、ぬらぬらとした不快がある。不機嫌に任せて、その目に映ったモノを撫で切った。


 荒ぶる女神は、大陸を更地にした。玄武岩の黒城も、白亜の浮き彫りも、小さな厩も、すべての営みが消し飛んだ。


 衝動が鎮まると、女神は創った。北に凍てる地を、南に炎暑の地を。西に肥沃な地を敷いた。砂地には、水と緑を転々と置いた。窪地に雨と塩を満たすと、天空を映す水鏡になった。


 東には翡翠色の森を。泉は透き通っている。ふちは新緑で、中心へ向かうほどに深みを帯びた茶に変わっていく。きまぐれに、丸太を組んで小屋を建て、肥えた畑と深い井戸を添えた。


 箱庭づくりに夢中になるうちに、十月十日(とつきとおか)が経った。猛烈な痛みが下腹を襲った。三日三晩苦しんで、美しい男を生んだ。黒髪に見覚えがある。

 男は、驚いた風情で目を見開き、瞬きをした。地に伏す女神の姿を見やる金の瞳に、苛立ちが浮かんだ。おまえではない、というような。


 緩い巻き毛をかきあげながら、その名を呼び捨てた。


「ヴィシュアプリーヤ」


 そして命じた。


「おねむりなさい」


 女神は微睡(まどろ)みに戻った。シャルは、茶色い恋人に甘やかな笑顔を咲かせた。


「ヴィ、迎えに来たよ。さぁ、帰ろう」



 *



 晴れた日は、シャルは森で、ヴィは畑で働いた。雨の日は、可愛らしいおしゃべりを聞きながら、木目の床をすべすべに磨いた。


 色とりどりの子どもたちが生まれた。にぎやかに暮らした。大きくなると皆、森から巣立っていった。やがて冷たい草原で、塩湖のほとりで、豊かな麦畑で恋を見つけて、人の営みを始めた。


 ひとり、金眼黒髪の子が生まれた。シャルは、その息子だけに、女神の真の名を教えた。砂漠へと旅立った青年は、長く生き、黒と金を伝える血筋の祖となった。


 そしてまた、ふたりきり。恋人たちは、幾千の季節を共に生きていく。

 毎朝、シャルは冷たくて甘い水を汲んで、香り高い花茶をヴィのために淹れた。






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