4章 白亜の離宮にて
小さな厩が白壁に寄り添うように建つ。やって来たラバは賢くて頑固で茶色かった。シャルは、茶色いヴィをラバに乗せ、ぽくぽくと散歩した。
ふたりは地図を広げる。大陸の東、翡翠で彩色された「女神の庭」をヴィの指が撫でる。「丸太小屋で暮らそうよ」と誘われて、ヘーゼルの目を輝かせた。ふたりで森を夢見た。
あんなに鍛えたのに。背も伸びたのに。シャルの肺は、去年の冬よりも軋んだ。
王は大陸制覇を目論む。シャルの身を奪ったのちも、南に留まり戦を続けていた。成人の儀を目前に、春の嵐のように帰還した。儀式にて聖女に「力」が発現する。
ふたりは恭しく腰を折る。淑女が伏せたまつ毛の先へ、王が三本の指をかざす。
その刹那、背後の侍女が爆ぜた。聖女のヴェールに鮮やかな赤が散った。後に、麦の国が差し向けた影だと知れた。
王の本性は血に飢えた獣である。聖なる力は敵意に呼応して牙をむく。
今代の真実は、瞬く間に大陸を巡った。離宮から人影が消えた。「殺戮の聖女」の従軍は、すでに決まっていた。
「お願い来ないで」
ヴィは頑なだった。
シャルはひとり、宮の天辺から、遠くなる茶色たちに目を凝らした。
*
離宮の外壁は、建国伝説を模した浮き彫りですっぽりと覆われている。母から子へと語り継がれてきた昔話だ。歴史として、あるいは警告として。
シャルは、物語の終盤で足を止めた。女神が三本の指で若者の額に触れ、「恩寵の証」を与えている。
冴え冴えとした横顔に吸いよせられるように、ひとりでに指が伸びる。漆黒に咲く銀と紫の色合いが、脳裏に浮かびあがって……
と、心の隙にいとけない囁きが差した。
『恋人の色だから、ヴィのところに来たの?』
ハッと短い息を吐き、冷えた指を引く。
『シャルは、優しいもの。ヴィよりずっと綺麗だもの!』
あの日、気もそぞろなシャルに、ヴィは癇癪を起こした。それから、急に大人びた。咲き急ぐ桃色の花のように。
……ねぇ、ヴィ。
シャルはひとり、果てのない紺碧の空を見やった。
ぼくは優しくなんかない。ぼくが恋人の色だったから、あの街は燃やされた。美しい人は殺された。
悲しいよ。
でも、君に出会うためなら、何度だって燃やして殺すだろう。
ぼくは君みたいに綺麗じゃない。でもね、ヴィ。
君だけは守りたいんだ。
*
ヴィはみるみるうちに、瑞々しい好奇心と温かな思いやりで満ちていった。誇らしかった。眩しくて目を細めた。
けれど、とシャルは悔やむ。
空っぽのままだったら、君はこんなに苦しまなかった。
戦の合い間に、ヴィは戻された。そのときばかりは、シャルは城門に立つことを許された。
「ヴィ、迎えに来たよ。さぁ、帰ろう」
口角にきゅっと力を入れて言った。聖女を抱き上げ、ラバを労った。
ヴィは、シャルの膝から降りない。薄くなっていく背をさすり、涙の絶えない眦にそうっと口づけた。
ヴィの涙は、林檎水みたいに甘かった。舌先でシュワシュワと弾ける。なぜだか、赤い小瓶を思い出した。
抱きしめて眠っても、毎夜うなされる。眠れぬ夜には、森の話を聞かせた。
……晴れた日はぼくは森で、君は畑で働こう。雨の日は、木目の床をすべすべに磨くんだ。君の足の裏が喜ぶように。
子どもは沢山ほしい。にぎやかに暮らそう。
子どもたちが巣立ったら、またふたりきりだね。君が起きるまえに、ぼくは水汲みに行く。森には泉がある。君の瞳みたいに深くて透き通った……怖いの? 小川も? それなら井戸を掘ればいい。冷たくて甘い水で、毎朝お茶を淹れてあげる……
幸せな想像を目いっぱい膨らませた。甘ったるい噓をいくらでも吐いた。
「人として」のシャルには、それしかできなかったから。
何度も見送った。
ラバに跨る聖女は、いつでも懸命に背筋を伸ばしていた。
咳が止まらない。口もとを抑えた袖に、赤い飛沫が散っていた。
*
まつ毛の色が抜けていることに気づいた。次は、薄茶の後ろ髪に一筋の銀を見つけた。
北の夏は短い。足早にやって来た夕闇が、茜さすヴィの頬へおりていく。瞳のなかの大地と森には、紫の霞が薄っすらとかかっている。
「シャルが好きよ」
憂いを帯びた囁きに、涙がせりあがってきた。
とうとう。シャルは静かに瞼を閉ざした。
細腕がシャルの首に絡みつく。火照った吐息がシャルの耳を潤す。壊れそうな身体を抱き返す手に、そっと力をこめた。
迷わなかった。
愛おしい背骨を撫でおろしていった。シャルはヴィを女にした。
よく晴れた夜だった。安らかに眠る恋人を起こさぬよう、シャルは激しい呼吸と慟哭を堪えた。
*
しとしとと降る長雨が、草原を秋枯れへ変えていく。季節が終焉へと進んでいく。
麦の国との三度目の戦が決まった。シャルも従軍を命じられた。
女神に還る瀬戸際まで、聖なる力で遊びたい。だから戦場で聖女を抱け。王が考えそうなことだ。
気づいていた。
聖女は「恋人の色」の命を喰らって、人となり、人に留まるのだと。ふたりの仲が深まるにつれ、シャルの身体は蝕まれていったから。
親愛では足りなかった。初恋でも淡すぎた。濃密な情愛が必要になった。
ヴィの奥底に達したとき、魂が削れるのをはっきりと感じた。
「シャルが殺して」
ヴィは綺麗に微笑んだ。
「聖女さまの仰せのままに」
シャルも笑って応えた。汗ばんだ恋人を抱きよせ、その額に口づけて誓った。
――ねぇ、ヴィ。
喜んで、君の生贄になろう。ほかのだれにも譲らない。
その名を呼びながら、その瞳に映りながら、終われるなら、ほかになにも望まない。
君だけが欲しい。




