1章 国境にて
絶望が張りつめていた。
前線では、石の国の軍と麦の国の兵が、丘の起伏を挟んで睨みあっている。
稜線に沿って遠く並ぶ兵列は、ひょろりと頼りなく、夕日に立ち昇る陽炎のように揺れて見える。
かつて目にしたこの地は、実る穂が遥か先までたなびき、シャルの胸まで揺れた。
二度の戦で踏み荒らされ、いまは面影すら見つけられない。
肩を押さえつけられ、片膝をつくシャルは、舞う土埃に金の目をすがめた。
三度目だ。
向こうにまともな兵士は残っていない。最前列には鍬を杖にする老人や、兜代わりに鉄鍋をかぶった少年すら混ざる。
彼らの王は講和を願い出た。
が、石の国の現王は差し出された貴い首ごと、和平の道を蹴り飛ばしたのだ。
「行け」
命令形しか知らない為政者の声が高く響く。
一頭のラバが丘の上を目指しだした。思わず前のめりになった途端に、湿った黒髪が貼りつく首筋へ冷たい刃が当てられる。
ラバの上の娘を、シャルは王馬の足元から見送るしかなかった。
白いヴェールの「聖女」と茶色いラバは、ぽくぽくと、どこかのどかに敵陣へと進んでいく。
信じる神などいない。だからラバに祈った。
おまえの脚は強い。おまえの頭は賢い。どうか、ぼくのヴィを大事に運んでおくれ。
亜麻色の髪を撫でたい。榛色に潤んだ眦へ口づけたい。戦慄く薄い身体を囲いたい。
吐息に混ぜて囁いて。
ぼくも君を呼ぶから。
だから──ぼくのもとへ戻って。
弓矢の届く手前で、ラバはぴたりと足を止めた。少年兵は小刻みに震えているが、さびた鍋の奥、丸っこい眼は憎しみをむき出しにしている。
シャルは喉を鳴らした。力んだ首にチリリと痛みが走った。憎悪の波紋がしんと広がった。
刹那、粗いたてがみに顔を埋めた聖女を要に、禍々しい衝撃が扇状に放たれる。
叫び声すら追いつかない速さで、雪崩の如く大地を揺るがし、津波の如く寄せては返す。
パンッ、パンッ、という乾いた破裂音とともに、連なる兵は爆ぜ、影も残さず吹き飛んだ。鍬も、鍋も、断末魔もなく弾け散っていく。
聖女は、向けられた敵意に平等に応じた。夕焼けに照らされた国境が真っ赤に染まった。若き王の淡いブロンドも、凍てつく薄青の瞳も、赤を吸って爛々とギラついている。
――残虐な王は戦場でのみ嗤う。
頬を染め、白い歯を覗かせる青年を、シャルは目を熱くして見上げるしかなかった。
と、突風に横っ面を張られた。
汗ばむ肌が粟立つと同時に、冷風は胸の芯まで走り、視線も戻さずシャルは絶叫した。
「ヴィ……ッ!!」
丘に一筋の風が渦巻いていた。中央には聖女がいる。竜巻に舞い上げられた長い髪が、毛先から色を失っていく。薄茶が銀へと色変わり、紅蓮の世界でひときわ眩しくきらめく。
しじまが震えた。
ラバの上でゆらりと踊る。柔い背はしなやかに反り、尖った顎が高く持ち上がる。風に誘われるまま天へと伸びた指の先に、紫の光が収斂していく。まるで死んだばかりの魂が集うかのように。
「戻れ」
短い命が飛んだ。ぴたりと風はやみ、光も散り、聖女の腕も落ちた。
考えるより先に二本の指の輪を唇へ運び、力いっぱい指笛を吹いていた。脈動の真上にずしりと剣の重みを感じたが、構う余地などない。
鋭い風切り音に、ラバの長い耳がぴんと跳ねたところまでは見えた。
「続け」
王馬が地を蹴った。引き連れる男たちの背と巻き上がる土煙、割れんばかりの鬨の声。小山のような大軍が動き、目と耳を奪われた。
刃の重みを振りはらう、
怒号の流れが一点割れる、
金眼が逆走する強い脚を捉える、
白いヴェールへ駆け抜けた。
藁のように軽い恋人を、そっと抱き上げた。雪より冷たい頬を引きよせ、震えるまつ毛に、唇をやんわりと押しつける。
半ばまで銀糸となった亜麻色を梳いたときには、眼も喉も灼熱になった。
『莫迦ね』
澄んだ声が、遠い記憶のはざまで鳴った。
『一番さきに死ぬのが幸せなのよ?』




