断章3 春に降る雪
その少女が児童養護施設『あさがお園』にやってきたのは、彼女の髪と同じ、白銀に輝く季節外れの雪が降る朝のことだった。
車から園庭に降り立った彼女は、小雪の中咲く桜を不思議なものを見るように、あるいは記憶の中を手探るようにいつまでも眺めていた。
富士山麓の森の中を一人彷徨っていたというその少女は、日本語が通じず、自らの名前すら覚えていない状態だった。
何かを伝えようと言葉を話し、ペンを渡せば文字を書くのだが、大学の言語学者に問い合わせてもそれがどこの言葉なのかすら判然としなかった。
まるで、この世界の外から迷い込んできたかのようだったが、血液検査やレントゲン写真などは彼女がごく普通の人間である事を示していた。
あさがお園の新人職員、中村小夜子はそんな少女の教育係を仰せつかった。――というより、お局様に面倒ごとを押し付けられた、と言うのが正しい。
少女の年齢は、はっきりとは分からないが十歳前後だろうか。
五、六歳辺りとされる言語習得の臨界期を過ぎ、一切言葉の通じない子供に言語を教えるという事は、明らかに一職員のキャパシティを超えた業務と言えた。
「あなたの名前は、”かなた”。私は小夜子」
指さしながらゆっくりとした調子で名前を呼ぶ。
かなた、というのは小夜子が付けた名前だ。
戸籍すら持たない彼女の名前をどうするべきか、と施設長に確認したところ「君が付けてあげなさい」とこれまた丸投げされ一晩悩み抜いて決めたのだ。
それは、ここではないどこか遠い場所を思わせる彼女の名に、これ以上ないほどぴったりだと自画自賛した。
「カナタ……サヨコ」
かなたは自分と小夜子を交互に指差しながら名前を復唱している。
「そうそう! 偉いぞかなた!」
頭を撫でるとくすぐったそうに笑う姿に胸が締め付けられる。
彼女は何者で、どこから来たのだろうか。
絹糸のような銀髪にサファイアの瞳。
にも関わらず、その顔立ちには日本人の風合いも感じさせる、どこか現実離れした可憐さだった。
何か犯罪にでも巻き込まれたのか、両親とは引き離されてしまったのか。
いずれにせよ、その背景に悲劇がある事は想像に難くなかった。
かなたは小夜子の、周りの大人たちの想像を遥かに超えて聡明だった。
僅か三ヶ月ほどでカタコトながら言葉を紡ぐようになり、一年も経たず流暢に喋り、平仮名、片仮名まで操れるまでになった。
かなたは小夜子に懐き、意思の疎通ができるにつれよく笑うようになった。元来、天真爛漫という言葉が誰よりも似合う少女だったのだろう。
言葉が通じるようになって、彼女が記憶喪失であるという事実がはっきりした。
本名も分からなければ、年齢もどこから来たのかも分からない。
なんとか思い出そうと苦しむかなたの姿に、小夜子はいつからか過去のことを尋ねるのをやめた。
小夜子は小学生の頃の教科書を実家から取り寄せ、勉強を教え始めた。
自らの記憶を掘り返しながらの拙い授業ではあったが、かなたは貪欲に知識を吸収するとあっという間に同年齢(と思われる学年)の学習段階に追いついてしまった。
そこで、かなたを小学校に通わせる事が決まったのだ。
小夜子には不安があった。
勉強や日本語の習熟については何も問題はない。集団生活に関しても、施設内と同じように過ごせば心配はいらないだろう。
普段、積極的に年下の子の面倒を見たりする姿を見てもそれは断言できる。
しかし、その美しい銀髪や、どこか超然とした存在感は彼女を孤独にしてしまわないだろうか――
そんな小夜子の心配は杞憂に終わった。
かなたの纏う暖かな空気は、子供達の持つある種の排他性を一切刺激する事なく周囲に溶け込んだ。
小夜子は、学校での出来事を楽しそうに話すかなたの姿に心の底からの安堵と、一抹の寂しさを感じていた。
別れの日はいつか必ず訪れる。
施設を卒業していく子供達の背中を見送りながら、その隣で手を振るかなたを同じように送り出す日のことを思う。
きっとその時は寂しくもあり、誇らしくも思えるだろう。
そう思えるようにありたいと、強く願う。
かなたはそうして、少しずつ大人になっていく。
とても強く、真っ直ぐな子だからきっと、自らの力で幸せを作り周りにもふりまいていくだろう。
その時に、一緒に過ごしたこの時間と私のことを思い出してくれたら嬉しい。
私はかなたの母親ではないけれど、この子の平穏と幸福が二度と踏み躙られない事を祈る。
――初めて見たあの雪の日から七度目の桜が咲き、かなたは中学校を卒業した。
あの日とは違う、暖かな陽だまりの中二人並んで撮った写真は、今でも小夜子の部屋に飾られている。




