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第三話 表 かみさまの旅立ち 後


 三人は月明かりが照らす道を行く。


 山を降りると虫の声に蛙の大合唱が合流し、それがかえって村の静寂を際立たせる。

 ふと見上げた夜空には、都会ではその輝きに覆い隠されてしまう小さな星たちが、自らの存在を証明するよう懸命に光を放っていた。

 

 ヒスイは尻尾が隠せるようゆったりとしたシルエットのワンピースに身を包み、頭には大きな麦わら帽子を被っている。

 遼はヒスイの荷物が入った大きな鞄を持つことを申し出たが、燈はその役目を頑として譲らなかった。


 村の夜道に人通りはなく、車も通らない。

 田畑の合間に点在する民家から、日々の営みの灯りがもれているばかりだ。

 道路脇にまばらに立つ街灯は時折チカチカと瞬き、その足元に、飛び交う虫たちの影を映し出す。


 三人は一言も発することなく歩みを進め、何事もなく車を停めている広場に辿り着いた。


(あかり)

 ほっ、と息をついたところで、背後から声が掛かった。

 年季を感じる男の声で、その声色は極めて感情を排したものだった。

「――ウカ様をどこへお連れするつもりだ」

 恐る恐る振り返ると、声の主が立っている。

 白衣に紫色の袴姿。

 歳は七十代くらいだろうか。背が高く、真っ直ぐ伸びた背筋(せすじ)は年齢を感じさせない。

 その後ろには十人ほどの村の男たちが控えている。その中には昼間、祠の前で話をした老人の姿もあった。

「おじいちゃん……」

 燈がおずおずと前に出る。

 おじいちゃん、という事はこの老人が神来社(からいと)家の当主なのだろうか。

「ウカ様をこの村の外に出す、その意味が分かるはずだ。ウカノミタマの巫女であるお前には」

「……」

 燈は俯いて拳を握りしめている。

「お客人、あんたの事は見張らせてもらっていた。悪く思わないでくれ。こういう事情があるんだ」

 この村に入ってから視線を感じる事はあったが、遼でもそれを掴み切ることができないでいた。

 恐らく何百年も続けてきた、余所者を監視する情報網がこの村にはあるのだろう。

清光(きよみつ)、これはわたしが望んだ事なのです。二人に咎はありません」

 ヒスイは帽子を脱ぐと、庇うように燈の前に立つ。

 (みどり)の瞳が輝きを増し、清光と呼ばれた老人を見据える。

 しかし、清光はその緑光に怯むことなく言う。

「では、お戻り下さい。夏とはいえ、山の夜は冷えますゆえ」

 

「待って!!!!」

 

 ――燈の絶叫が夜の帷を引き裂く。

「お願いだからもう、ウカ様を……ヒスイ様を解放してあげて!! 村のしきたりなんか関係ない!! ヒスイ様は、神様なんかじゃない!! 帰るべき場所がある、私たちと同じ”ひと”なの!!」

 一息に言い切ると、真っ直ぐに祖父を見据える。

 その目には涙が浮かぶが、同時に強い輝きを放っていた。

 

「……それがお前の、巫女としての()()()なんだな」

 しばしの沈黙の後、ゆっくりと紡がれた祖父の言葉に、燈は静かに頷く。

 清光はそれを見届けると、ヒスイの方に向き直る。

「ウカ様……いえ、ヒスイ様、というのがあなた様の本来の、そしてこれからの名ですな。――四百年もの間、この苔守村をお守り下さりありがとうございました」

 そう言うと、深々と礼をする。

「そして……永きに渡り、この村にお留めしてしまいました事、先祖代々に代わりお詫び申し上げます」

 ヒスイが清光の前に立つ。

「清光、頭を上げて下さい。この世界に迷い込み、行くあても頼るものもない私を救ってくれたのは、他ならぬこの村の人々なのです。感謝こそすれ、恨みなどするはずがありません」

 清光の目にもまた、涙が滲む。

 

 この人もきっと、この日を待っていたのだ。

 神を敬愛しながらも、その”人生”を村に繋ぎ止めているという二律背反に苦しみながら。

 そしていつか来る、祝うべき別れの日を。

 ――神話に囚われた神が、人に還る日を。

 

 清光は後ろにいた村人たちを帰らせると、遼に声を掛けてきた。

「どうかウカ様……いえ、ヒスイ様を宜しくお願いします」

 そう言って頭を下げる。

神来社(からいと)さん、頭を上げて下さい。……最善は尽くすつもりですが、正直に言って彼女の願いを叶えられるかどうか私には分からない。特別な力などありませんから」

 顔を上げると、遼の目を見る。

「あの方があなたこそが鍵だと仰ったのであれば、きっとそのようになるでしょう。あなたは、あなたの思うままに動けば良い。そうすればきっと、あなた自身の願いも叶いましょう」

 その声には確信が満ちていた。


「もう泣かないで燈、きっとまた会えるから」

 緊張が解けたせいか、胸に抱きついて泣きじゃくる燈をヒスイが必死になだめている。

「――こんなに大きくなったのに、あの頃のままね」

 燈の艶やかな黒髪を優しく撫でながら呟く。

 幼い頃の燈も日が沈みかけてもヒスイの傍を離れたがらず、こうやって泣いていた。

 燈と出会ってからの十年ほどの時間は、ヒスイの悠久とも言える人生からすればほんの一瞬に過ぎなかったが、同時に決して忘れ得ぬ暖かな陽だまりのような日々でもあった。


 泣き疲れてようやく落ち着いた燈の背中を撫でながら言う。

「では遼様、参りましょうか」

 燈の身体を清光に預ける。

 

 あんなに近くにあった温もりがそっと、遠のく。

 その一歩は、世界を遠く(わか)つ一歩だ。

 

 遼が開けた扉から車に乗り込み、

 

 ――そして、扉が閉じる。

 

「ヒスイ様ッ!!」

 車のガラス越しに、燈の呼ぶ声がくぐもって聞こえる。

 だけど、ヒスイは振り返る事はしなかった。

 タイヤが砂利を踏み締め走り出すと一瞬だけ、身体が後ろに引かれる。

「本当にたくさん――たくさんのひとを見送ってきたけれど、こうして見送られるのは、初めてですね」


 その小さな呟きは、エンジンの音にかき消された。


 ――頬を伝う温もりと、胸の中に灯る(ともしび)を抱いて、かみさまは今、旅に出る。

 もう戻らぬ、ふたつめの故郷(ふるさと)を離れて。

 

 

 

 

 

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