第三話 表 かみさまの旅立ち 前
揺れる車内のバックミラーの中で、神様が眠っている。
大きな鞄を抱くようにして、すうすうと寝息を立てる姿はあどけない少女のようにも見える。
だが、その正体は数百年を生きた異世界人だという。
全く、馬鹿げている。
ほんの数日前まで一ノ瀬遼は、ただ現実と対峙して日々を過ごしていた。
刑事として事件を追い、事実を追求する。
きっとこの先何十年もこの残酷で、凡庸な現実と向き合い続けるのだろうと考えていた。
それがどうだ。
姉が失踪し、見知らぬ男から連絡を受け、今は神様を乗せて車を走らせている。
フィクションの世界に迷い込んだかの如き我が身を俯瞰すると、思わず自嘲の笑みが漏れた。
神様――ヒスイの言葉に偽りはない。
刑事の勘、というのもあるが彼女の言葉はそれ自体が有無を言わせぬ説得力を持っていた。
初めこそ”狐憑き”などと呼ばれる精神疾患なのではないかと疑いもしたが、ヒスイの口ぶりは妄想に囚われている者のそれではない。
第一、精神疾患で本物の狐の耳や尾が生えてたまるものか。
それに、彼女の言葉を事実と仮定すれば色々な点に説明が付いたのだ。
突如として現れ、巨大化し、警察上層部にまでその影響力を持つに至った信仰宗教『星雲救世会』。
その起源が異世界の邪教であるというのなら、その強大さもいなくなった人々の消えた先も納得のいく推論が立てられる。
影すら踏めなかった教団の正体すら、その先に掴めるかもしれない。
そして何より、ヒスイは姉、春華に辿り着くための唯一と言っていい手掛かりだ。
富士山麓に向かった明石景真とも連絡がつかなくなった今、彼女の持つ異世界の情報と未来視の力は必要不可欠だろう。
その為にも、託されたこの神様を守り通さねばならない。
遼は次の一手を頭の中で巡らせつつ、家路を急ぐ。
「わたしをここから連れ出して下さい」
ヒスイがトマトの果汁で汚れた口元をティッシュで拭ってからそう言う。
弛緩していた社の中の空気が再びピンと張り詰める。
「……いいんですか? あなたは仮にもこの村の守り神なのでは?」
燈の方を伺うと、彼女もまたこちらを真っ直ぐに見据えている。
「どうか、ヒスイ様の願いを聞いて差し上げて下さい」
燈は遼に向き直ると、床に手をついて深々と頭を下げる。
「ヒスイ様はもう、十分過ぎるほどこの村のために尽くしてくださいました。だから、故郷に……ネビュラに帰して……差しあげたいんです」
凛とした響きだったが、語尾が微かに震える。
頭を下げたまま告げられたその言葉は、ウカノミタマの巫女のものではなく、ヒスイを親愛する一人の少女のものだった。
「燈……」
ヒスイは立ち上がり、未だ土下座のような体勢でいる燈の傍にそっと座るとその頭を膝に抱く。
「ヒスイ……様……っ」
堪えきれなかったように、燈の声に涙が混じる。
夕暮れの中現れた燈は神秘的で大人のように見えたが、今の彼女は年相応の子供の姿だった。
ヒスイが燈の頭を撫でながら言う。
「ありがとう、燈」
その言葉はどこまでも優しく、豊穣を司る女神に相応しい体温を湛えていた。
その暖かさに、ついに決壊した燈の泣き声が社に響き渡る。
幼子のように泣きじゃくる燈をヒスイはただ静かに、包み込むように撫で続けていた。
「見苦しいところをお見せしました」
泣き腫らした顔の燈が、ずびーっと鼻をかんでから言う。
「でもまだ、答えを、聞いてません」
充血した目でじっ、と遼を見つめている。
なんとか取り繕おうとしているのは伝わるが、鼻をすすりながら喋るのでどうにも締まらない。
「ヒスイ……さんをネビュラに帰す、という約束はしかねます」
二人の願いを叶えたい、という思いはあるがその手段が現状見当もつかない。
「それでも構いません。あなたの目的のためにも、わたしの力が役立つはずです」
ヒスイが割って入る。
「未来視……ですか。率直に言って未だ半信半疑なのですが。……どこまで視えてるのですか?」
「……分かりません。夢に視たり、あるいは強く念じる事で視えたり、突然イメージが浮かんだりするのですが、この世界ではアニマの絶対量が足りないので……」
「能力が安定しない、と」
それでも、遼の来訪を予知したようにその能力を発揮できれば得難い手がかりになるだろう。
規模すら計り知れない教団を相手取るのだ。この力に賭けない手はない。
「分かりました。共に行きましょう。今日、すぐでも問題ないですか?」
もう一度この村に戻ってくる時間も惜しい。ヒスイを連れ出すならこの帰路しかない。
すると、燈が立ち上がり隣室から大きな鞄を持って来る。
「支度は整えてあります」
真っ赤な鼻を得意げに鳴らす。
この準備の良さを見るに、やはりこうなることも視えていたのだろうか。
「では、すぐに発ちましょう」
頷き、立ち上がったヒスイが燈の袖を引いて鞄を指さす。
「燈、アレはちゃんと入ってますよね?」
「ヒスイさま、クレイドル……台座を入れ忘れてましたよ」
何やら小声で話し合っている。
「では遼様、参りましょう。……ところで」
ヒスイが何か言いづらそうにモジモジとしながらこちらを伺っている。
「……? なんですか?」
なかなか二の句を継ごうとしないので、業を煮やした遼が尋ねると遠慮がちに口を開いた。
「……遼様のお宅には”わいふぁい”はありますか?」
「ありますけど……それが?」
怪訝な顔で尋ね返す。
なぜかみさまがWi-Fi環境の有無を気にする必要があるのか、遼はその理由に辿り着けずにいた。
「いえ、何でもありません。さあ参りましょう。……うふふ」
そう言うヒスイの顔には抑えきれない笑みが張り付いていた。
社の引き戸を開くと、外には夜の帳が下りていた。
昼間の暴力的な熱はなりを潜め、足元の草むらでは虫たちが気持ち良さそうに鳴いている。
遼の車を目指す三人の影を、夜闇が飲み込んでいく。




