第二話 裏 渡り人 後
少女の小さな背中を追い、山道を進む。
山深くはあるがところどころ階段が整備されており、頻繁に人が通った形跡がある。
空は青く澄み、流れる雲は見慣れたそれと変わらない。
周囲の風景はどこにでもある竹林そのものだが、見上げると薄桃色の葉が生い茂る景色に脳が混乱する。
進むほどに硫黄の匂いが強くなり、『ゴンド温泉郷』という地名が、文字通りの意味なのだと知らせてくる。
「つまりこの世界はネビュラという名で、俺がいた世界……オービスから迷い込んだ人間を”ワタリビト”と呼んでる、と」
コハクから受けた説明を掻い摘んで確認する。
「そう」
素っ気なく答えると、振り返らず慣れた足取りで進んでいく。
――やはりここは異世界だった。
別次元なのか、他の惑星なのか、電脳世界なのかは分からないが、それだけは間違いない。
なぜ急に言葉が分かるようになったのかとか、星雲救世会とネビュラの関係とは? ――疑問は次々と湧いたがひとまずは置いておく。
確証は無い。けれど、確信があった。
春華がこの世界にいる、という確信が。
客観的に見ればそれはただの希望的観測、あるいはただの願望だったかもしれない。
それでも、その希望が景真の足を前へと運んでいく。
小高い山の稜線を越えた先に目的地が姿を現す。
ゴンド温泉郷。
そこかしこから湯煙が立ち昇るのが見える。
遠目に見たその街並みは江戸時代の温泉町に異国情緒を吹き込んだ、という風情で妙な郷愁に胸をくすぐられる。
「あれがゴンド。もう一息だけど、少し休む?」
呆けた顔でその景色を眺めていた景真を気遣うようにコハクが声をかける。
「いや、大丈夫だ。行こう」
そう答えてから、カメラを構える。
どこか懐かしいのに初めて見る景色と、それを背に立つ少女の姿を切り取る。
それはなぜか、いつか出会うことを約束されていた景色のように思えた。
町の中に踏み込むと、外から見るのとはまた印象が異なった。
建物は近くで見るとますます日本の伝統的家屋……に似てはいるのだが色彩や曲線の使い方に違いがあり、それがかえって異世界に迷い込んだ実感を強める。
大通りには多くの人が往来している。
コハクのように獣の耳を持つ者や、耳の長い者、2メートルを超える長身の者もいれば、元いた世界の人間と見分けがつかない者もいた。
「コハクはなんで俺がワタリビトだと?」
コハクはきょとんとしている。
「そんな服、ネビュラにはないから」
言われてみればごもっともだ。
道ゆく人々の服装は多種多様ではあったが、どれも地球で言えば中世から近代くらいの縫製技術、デザインで作られているように見える。
そして、その中に浴衣によく似た服を纏う人がちらほら混じっていた。
「ここはワタリビトが多いのか?」
「この辺りは空穴ができやすいから、彼らの名残りがたくさんある。でも今は多分、あなただけ」
コハクの語尾に寂しさのようなものが滲む。
それは、過去の別れを懐かしむような、愛おしむような響きだった。
過去、自分と同様にここに飛ばされた人々が故郷の文化を異世界に残し、彼らが蒔いた種が結実しこの風景を形作っている。
異世界に墜ちてなお、彼らが強く生きた証は景真を勇気づける。
しかし、それは一つの不安をも孕んでいる。
それは詰まるところここで生きる他なかった、とも受け取れる。
――『帰る手段が存在しない』という可能性を示しているのだ。
大通りを外れ、細い階段を登る。
既に日は傾きつつあり、辺りは夕陽に染まりつつある。
登り切った先にあったのは、朱塗りの屋根を被った日本風の家屋だった。
小山の頂上に林に囲まれて建つそれは、忘れ去られた神の社を思わせる。
コハクは正面にある扉に取り付けられた南京錠に鍵を差し込んでガチャガチャやっている。
それが取り外され、引き戸が開く。
「ここが私の家。入って」
そう促されるまま中に入る。
屋内は整理整頓されているがしばらく誰も立ち入ってなかったのか薄っすらと埃が積もっており、風に舞ったそれが夕陽に輝く。
「掃除、しないとだね。しばらく空けてたから」
コハクが人差し指で机を撫でてから呟く。
「ここに一人で住んでるのか?」
一人で暮らすにはこの家は広く、彼女は幼く見えた。
「今は一人。……お父さんが亡くなってから」
触れるべきではなかっただろうか。後悔が、胸の奥に滲む。
だがコハクは特に気にする素振りも見せず、廊下の右手にある扉を開ける。
「この部屋を使って」
通されたのは、書斎と寝室が一つになったような部屋だった。
文机が窓際に置かれ、大きな書棚には本がぎっしり詰められており、その向かい側にベッドが据え付けられている。
「この部屋を……って、ここに住むのか? 君と!?」
つい先ほど出会ったばかりの少女の家に住み着くなどいくらなんでも問題しかない。
何か他に手段はないか――
「行くあてもないでしょ? お金も」
返す言葉もなかった。
彼女と出会っていなければあの森でのたれ死んでいた可能性すらあるのだ。
コハクの言葉は飾り気のないものだったが、そこにむしろ彼女の気遣いを感じた。
「……お世話になります」
そう言ってこうべを垂れる景真を見てコハクが柔らかく笑む。
「疲れてるだろうから横になった方がいいよ。ちょっと埃っぽいけど。――明日一緒に掃除しようか」
そう言ったコハクが部屋を出て行くのを見届けると、投げ出すようにバックパックを下ろしベッドに倒れ込む。
薄い埃の匂いに包まれながらも、疲れ切った身体と脳は瞬く間に眠りへと落ちていく。




