アリアドネVSアパテー
・罠にかかった。
・薬物耐性のない護衛三人(ヘスペリエー、アキレウス、アイリカー)がお香の煙に仕込まれたドラッグで行動不能。
・アリアドネが飲んでいるワインは解毒剤入り。
その三点を理解したエリスはとっさにワインのボトルを奪い取ろうとした。
解毒剤さえ確保すれば再度逆転できる可能性がある。
だが。
パカッ。
ヒューーー。
「あーーーーーー……」
ボトルの方へ突進し、二歩進んだ所で足元の床がぱっくりと割れた。
底が見えない深い穴へ吸い込まれるように落ちていく不和の女神エリス。
小さくなっていく悲鳴がまだ遠くに聞こえているうちに、床の割れ目がスッと閉じた。
後には何の変哲もない床が残るのみ。
床には継ぎ目さえ見えない。
「エリちゃーん?」
駆け寄ったアパテーは床に向かって妹の名前を呼んでみた。
答えは返ってこなかった。
「フフフ……」
楽しくてたまらないとでもいうように、アリアドネが忍び笑いをもらす。
ワイングラスに残った赤い液体が揺れる。
やがて低い忍び笑いは哄笑に変わった。
「アッハッハ! 落ちた! 落ちたわ、不和の女神が! あれだけ格好つけてたのに、まるでコントね!」
お腹を抱えて笑い転げるアリアドネ。
床を調べていたアパテーは面を上げた。
「……落とし穴。これも空間制御の罠の一種ね。落としておいて、別の場所に飛ばしたのね。これじゃ床を壊しても追いかけられない」
「ククク……あー、笑いすぎてお腹が痛いわ。こんなに笑ったのって何年ぶりかしら」
「笑いすぎよ。私の妹をどこに飛ばしたの?」
「そんな怖い顔しないで。変な所に飛ばしたりしてないわ。地下の深い所……って言ってもエレボスやタルタロスに比べたら遥かに浅いわ」
「具体的には?」
「ラビュリントスの最下層。入り口はあっても出口はない牢獄。落とされた者は大抵そこで死ぬけど、エリスは不死だから平気よね。ただ出てこられないだけ」
「ふーん……」
アパテーは考えを巡らせる。
護衛三人は床に倒れ伏している。
ドラッグの影響がどのくらい深刻かはわからないが、できれば早めに処置した方がいいだろう。
エリスは女神の本性を出せば空を飛べるし、墜落のダメージは軽微なはず。
地下の牢獄から助け出すには少々手間がかかりそうだが、時間をかければなんとかなるだろう。
となると、アパテーが今するべきことは……。
欺瞞の女神の赤い唇が弧を描いた。
チェシャ猫のような笑み。
「見える、見えるわ~、アリアドネ。あなたの欺瞞がぜ~んぶ♪」
彼女がするべきことは、邪魔が入らない今、今こそ、アリアドネをからかって遊ぶこと。
澄まして気取った人形めいた顔。
悲劇のヒロインの仮面、剥ぎ取ってやりたいと前々から思っていた。
ミノタウロスにがっちりガードされているから手を出せなかったが、ここラビュリントスで聖女のように崇められているアリアドネの存在がアパテーは気に入らなかった。
私怨ではない。
もてはやされてる女が気に食わないとか、そういうことではないのだ。
欺瞞の女神としての本能がアパテーを駆り立てる。
嘘と虚飾が入り乱れる異界ラビュリントスの、虚飾の中心人物、アリアドネ。
そのお綺麗な皮をめくったら、中からどんな顔が出てくるのかしら?
「テセウスってあなたの妹と結婚してたんですってね~?」
ピキッ、とアリアドネの笑顔が凍りつく。
「なんていう名前だったかしらね、あなたの妹。パイドラだったかしら~?」
「……懐かしい名前ね」
「実の妹に恋人を寝取られちゃったのね、かーわいそー♪」
「事実誤認だわ。あの子が結婚したのは私が彼と別れた後のことよ」
「彼と別れた! ものは言いようね~。これ以上ないってくらい明白に捨てられたのに」
「……」
「ナクソス島に置き去りにされたんだったわよね~。そこがデュオニュソスの聖域だったから! 当時のデュオニュソスの聖域はとんでもない危険地帯だったのよね~。うかつに迷い込んだら、狂乱したマイナデスたちに八つ裂きにされちゃうの。怖いわよね~、マイナデス。自分の子どもでも見境なく殺しちゃうんだもの。お酒って時に人を狂わせるのよね」
「……」
「そんな危険地帯に置き去り! これはアレね、生贄にされたとしか考えられないわ~。恋人を生贄に差し出して、自分は命からがら逃げ延びたのよ。ひっどい男よね~?」
「……」
「ねえ、あなたテセウスのこと愛してる?」
「……」
「生まれ変わったテセウスをさらって結婚したのよね? ねえ、本当に彼のこと愛してる? あんなにひどいことされたのに? あなたを生贄にして、のうのうと生き延びて、他の女と結婚した男なのに?」
すっかり笑顔が消えたアリアドネ。
ワイングラスを持つ手が細かく震えている。
アパテーはにんまりと笑みを浮かべ、重ねて問いかけた。
「正直に、本当の気持ちを答えてみて。アリアドネ、あなたテセウスのこと憎んでるんじゃない?」
「……そうよ」
無感動な声でアリアドネは答えた。
「私は彼を憎んでいるわ」




