聖域のアリアドネ
「さあ、いよいよ大詰め、悪女アリアドネを捕まえてしばき倒すわよ!」
「やる気満々だね」
「エアコン27度設定の僻みだよ」
「女の妬みって怖いよな」
猫に変えられたパリスがどこかへいなくなり、スッキリとした気分でエリスはアリアドネの聖域に乗り込んだ。
護衛が何かボソボソと私語を交わしているが、気にしない。
ずかずかと上がり込んだ広いリビングルームにアリアドネはいた。
ゴージャスな室内は古代地中海文明の意匠を取り入れているようだ。
ミノア文明なんかとっくに滅びたくせに、まだ王女のつもりでいるのか、とエリスは内心で嘲笑する。
過去の栄光にすがりつき、過去の男にしがみつき、兄だった男の生まれ変わりに寄りかかる……過去に生きる女、アリアドネ。
今を生きるエリスとは馬が合わないことこの上ない。
アリアドネは悠然とソファに腰かけ、ワイングラスを傾けている。
傍らには高級そうなワインのボトル。
室内にはお香が焚かれ、甘い匂いが漂っている。
「私の聖域へようこそ、エリス。招いてないけど」
「盛大に歓迎していただいて感謝感激だわ、アリアドネ」
「どういたしまして。ほんのささやかなおもてなしよ。お気に召したかしら?」
「あんたのおもてなしってセンス悪いわね。特にパリスとか最悪だったわ」
「ああ、あれは私も好きじゃなかったの。お兄様が連れてきたから仕方なく使ってあげてたのよ。お行儀の悪い野良犬を始末してくれたのかしら」
アリアドネは眉をひそめた。
敵味方を問わず、パリスは女性に嫌われるらしい。
悠長な嫌味の応酬はこの辺りで切り上げて、エリスはさっそく本題に入ることにした。
「犬じゃなくて猫だけどね。それはどうでもいいわ。あんたに聞きたいことが二つあるの。素直に答えないと痛い目に遭わせるから、心して聞くことね。まず一つ目、テセウスはどこ?」
「安全な所にいるわ」
「ラビュリントスに安全な所なんてある? まあ、このフロアのどこかにいるんでしょうね。家探しさせてもらうわよ。家族から捜索依頼が出てるんだから」
「そうね、ご家族にはお気の毒だと思うわ。大切な人が突然いなくなって、それっきり会えないなんて辛いでしょうね」
さも同情しているかのように口では言うアリアドネだが、家族の元に返してあげたいとは言わない。
返す気などみじんもないらしい。
「二つ目。ミノタウロスが何を企んでるのか言いなさい。パリスが吐いたわよ。アトランティスに出かけてるんですってね? そこで何をやってるの? 狙いは何?」
「お兄様は忙しい人なの。最近は特に忙しそう。きっとお仕事が大変なのね。アトランティスには設備の点検修理で呼ばれたんじゃないかしら。出張修理もやってるのよ、エアコンの」
「真面目に答える気がないってわけね。だったらあんたの体に訊くまでよ。拷問は好きじゃないけど。ほんと、拷問とかちっとも好きじゃないんだけど」
「顔が笑ってるわよ。それ脅してるの? 私のこと甘く見すぎじゃない? 私、これでも半分女神になりかけなんだけど」
「女神特権を主張したいなら、きちんと資格を取ってからにするのね。まだなりきってないんでしょ。私はあんたと違って本物だけどね」
エリスは偉そうに胸を張っている。
アリアドネはワイングラスをくいっと呷って空にした。
ボトルに手を伸ばし、赤い液体をグラスに注ぐ。
「神とか女神とかって、そんなにいいものかしら? 神の力は使えるけれど、不死ではないって辺りで止めておく方が幸せなんじゃないかしら。死ぬこともできずに何千年、何万年って生き続けるの、退屈じゃない?」
「生きるのに退屈したことなんてないわね。時代の変化に適応して、刺激的な人生送ってるから」
「そう。いいわね、刺激的な人生って。退屈な人生ってろくなことないもの。人って退屈すると悪い遊びを始めるものなのよ」
「確かにラビュリントスには悪い遊びがいっぱいあるわね」
「神々だってそうよ。最初の頃は純粋で、暴虐な王を追放して虐げられた仲間を救い出すんだって理想に燃えていたのに、平和が長く続いたらだんだん不真面目になって、見境なく女に手を出すようになって。堕落だわ」
「ゼウスのことね。確かにあのジジイは堕落してるわ」
「腐りきってるのよ、オリンポスも地上も。一度大掃除したらいいんだわ」
「それがミノタウロスのやりたいこと? オリンポスと地上をぶっ壊して新たな秩序を作り上げるとでも?」
悪い冗談だと笑うエリス。
まともに耳を傾けるに値しない。
創世のやり直しなど狂人の幻想だ。
「ミノタウロスがどうあがいたって世界の仕組みまで変えることはできないわ。神々は不死。どれだけ堕落して腐敗してたって、ゼウスを殺すのは不可能だし、オリンポスを壊すのも不可能よ」
「お兄様一人ではね」
「一人じゃないってわけ? 協力者がいるの? それは誰?」
「それよりエリス、あなたのお友達、大丈夫かしら? 具合が悪いんじゃないかしら」
「何の話……」
ハッとしてエリスが左右を見ると、護衛三人が顔面蒼白で額に汗を浮かべている。
アキレウスとヘスペリエー、それにアイリカーまで。
アパテーだけは異常なさそうで、けろっとしている。
「みんな、どうしたの!?」
「わかんない、気分悪い」
「なんかふらつく」
「急に死にたくなってきた……」
言ってるそばから次々と苦しそうに膝を突き、うずくまる。
主戦力である二人と、もしもの時の盾であるアイリカーに一体何が起きたのか。
エリスは素早く思考を巡らせた。
この部屋に入るまでは何の異常も感じられなかった。
アリアドネが何か仕掛けてきたとするなら、それは……?
周囲を見回す。
広くて優雅なリビング。
地中海風の洗練された意匠。
室内に立ち込める甘い香り。
エリスの脳内に答えが閃く。
「……薬物ね!?」
「ふふっ、やっと気づいたのね」
アリアドネが可笑しそうに笑いを漏らす。
「招かれざる客が来るのに、何の準備もしないわけないじゃない。ここで流通させてる中でも特別に上質なドラッグよ。吸い込むだけでよく効くの。あなたには効きが悪いみたいだけど。その子たち、物理には強くても、薬物耐性は低かったんじゃない?」
「あんたも同じ空気吸ってるじゃないの!!」
「このワインには解毒剤が入ってるのよ」
クスクスと笑いながら二杯目のワインを口に運ぶアリアドネ。
「護衛が役立たずになっちゃったわね。形勢逆転かしら、エリス?」




