夢幻階段を上れ!
欺瞞の女神を騙したこと、一生後悔させてあげる。
そう宣言したアパテーの輪郭がゆらりと揺らいだ。
夏の日の陽炎のようにゆらゆらとぶれた輪郭は、ほどけて黒い触手のように広がっていく。
欺瞞の女神が変身を解いて、本来の姿に戻ろうとしているのだ。
「全員、目を閉じなさい!」
エリスの鋭い指示が飛ぶ。
「わかった」
ヘスペリエーは何の疑問も持たずに瞼を閉じた。
「は? なんでだよ」
「見ちゃダメ。アクタイオンやセメレーがどうなったか知らないの?」
「知らん。誰だそれ?」
きょとんとしているアキレウスの目をアイリカーが手で覆う。
アイリカー自身も硬く目を閉じている。
目を開いてアパテーを見ているのは妹のエリスだけだ。
エリスが厳しい表情で見守る中、アパテーはその輪郭を融かし、本来の女神としての姿を現しつつある。
「知らないなら教えてあげるわ。アクタイオンは女神アルテミスの裸身を見て、獣に変わって死んだ。セメレーはゼウスの本性を見ただけで光に焼かれて死んでしまった。神々の本当の姿を直視して無事でいられる保証はないのよ」
「怖っ! なんだそれ、見ただけで焼け死ぬとか、どんな危険物だよ!」
「お黙り! お前の母親も同類よ!」
アキレウスとエリスがそんなやりとりをしているうちに、アパテーの姿は完全に人ならぬものに変わっていた。
なまめかしい肢体を黒いドレスと闇のオーラが包み込んでいる。
闇に融ける輪郭、たなびく黒髪、耳元で揺れる金の鎖。
指輪をはめた細長い指に鋭く伸びた赤い爪、青白い顔に炯々と光を放つ双眸。
そして真っ赤な唇から少しはみ出た白い牙。
背中から生えたコウモリのような翼。
そこにいるのは妖しくも美しい異形の女神。
「いつ見ても吸血鬼っぽいわね。いや、吸血鬼の方がこいつに似てるのか?」
吸血鬼に貴族的な美形のイメージが加わったのは、ブラム・ストーカー原作の「吸血鬼ドラキュラ」からなので、せいぜい百二十年くらい前のこと。
女吸血鬼「カーミラ」でも百五十年ほどしか経っていない。
アパテーを含むニュクスの娘たちが生まれたのは遥か昔に遡る。
すなわち、恐ろしくも美しい夜の支配者といえば、こっちが元祖!
なんとなく胸を張るエリスであった。
「悪い子はどこかしらぁ~?」
アパテーは指さし確認をするかのように人差し指を振っている。
「嘘つきさんはどこかしらぁ~?」
トン、トン、とリズムよく指さしていく。
アパテーが指さす先に黒い靄のようなものが生まれては弾けて消える。
「どんなに上手に隠しても、私の目からは逃げられないわよ~。暴いてあげるわ、後ろ暗い秘密を、一つ残らず。ほら、そこにも、ここにも、隠し事がいーっぱい。あら、これは……」
欺瞞の女神の赤い唇が弧を描き、二つの牙が露になる。
「……みーつけた♪」
※
「なんでトラップをピンポイントで発見できるんだよ!」
監視モニターの前で誰かが吠えている。
「なんなんだ、あの女! 透視能力でも持ってんのか、バケモンが!」
ギリギリと悔しそうに歯ぎしりしたその男は、深呼吸して怒りをコントロールした。
「落ち着け。ここで仕留めるんだ。上には絶対行かせねえ」
キーボードを叩き、何かを起動させる。
モニターの光に照らされた男の口元に笑いが浮かんでいる。
「大人しくループしてりゃよかったのにな。ダイダロスが作り上げた迷宮の怖さ、思い知らせてやるぜ」
※
「もう目を開けてもいいわよ~♪」
陽気な声にそう言われて、護衛達が目を開けると、そこにはピンクのウィッグに厚化粧のいつものアパテーがニコニコ笑いながら立っていた。
怪しい闇のオーラはもうどこにもない。
「ループを発生させていた罠をぶっ壊したから、もう同じ場所をぐるぐるしなくて済むわよ~♪」
「よくやったわね、褒めてあげるわ」
エリスがアパテーの頭をなでると、アパテーがきゃーっと歓声を上げる。
「エリちゃんに褒められちゃった~。やっぱり褒めて伸ばすのがベストよね~」
「人間の子どもか、あんたは。どうでもいいから、先へ進むわよ」
その時、足元がぐらりと揺れた。
「地震!?」
とっさにしゃがんで身を低くするエリス一行。
揺れが収まって見ると……。
「なにこれ……」
「変な階段が空中に浮いてるね」
呆然としたアイリカーの呟きに、ヘスペリエーが淡々と答える。
彼女の言葉の通りだった。
上も下も雲と青空、360度見渡す限り空の上。
ついさっきまで普通の階段だった場所が、雲の上、高度二千メートルはあろうかという、ぽっかり開けた空の景色に変貌していた。
一行の足元には踊り場だった足場が残るのみ。
上へ続く階段も、下へ降りる階段も、遠く離れた雲の向こうに点在している。
それらの階段へ続く道は見当たらない。
前後左右、足場なし。
どこまでものんびりゆったりと、白い雲が流れていく。
「ねえパティ、これって幻覚かしら?」
「うーん、違うみたい」
エリスに問われて、アパテーは雲と階段をじっと見つめて答えた。
「空間制御のテクノロジーと映像とが同時に展開されてるわ。ループするようにメビウスの輪みたいにくっつけられてた空間が、今度は逆に広げて引き伸ばされてるのね。足場は飛び飛びに散らばってて、そこに空の景色をかぶせて見えなくしてあるみたい」
「つまり、うっかり足場のないところを踏んだら……」
「落下ね~。塔の六階からなのか、高度二千メートルの上空からなのかはわからないけど」
唖然とするエリス。
「テクノロジーの無駄遣いだわー!!」
アパテーの姿形は本作のみの創作です。




