未熟
蝉が、啼く。
最近は深夜でも猛暑で、脳みそが溶けそう。
仕事帰り、コンビニで買ったばかりのアイスキャンディーも溶けてきた。べたべたして気持ち悪い。急いで食べたら頭がキーンとした。溶けかけの脳みそ状態で固まったらどうしようか。
都心から少し離れたビルに立ち寄った。汗のにじむ首元に、冷たい風が吹く。最上階まで行くと、あれほど存在を誇張していた啼き声は断たれた。
ここは、小さな映画館。客はあたしの他に、1人、2人しかいない。
眠そうな店員からチケットを受け取り、無駄に広いロビーの隅っこに腰かけた。
まだ時間はある。
有線のイヤホンをつけ、お気に入り登録してある動画を再生した。終盤まで早送りする。これまで何十回、何百回と観てきたシーンにたどり着くと、あの、鈴の音のような声がした。
『あ、あの、わたし……っ』
沈みかけた夕日を一心に受け、少女は身を震わせる。
アヤだ。
ひっつめ髪や分厚いメガネをやめ、素顔を見せている。モデルのためじゃなく、自分で自分をかわいくさせた姿。ヘアメイクが凝っていなくても、本来の美貌が光っている。
そんな彼女の前にたたずむのは、あたしと同様仕事終わりのユウダイだ。
ブランドの看板を背負っているようなカジュアルな衣装は、今見ても違和感なく洒落ている。そういえばこの服、販売してすぐ売り切れたんじゃなかったっけ。
『大丈夫』
『っ!』
うつむきかけたアヤの頬に、ユウダイは手を当て、顔を上げさせた。
シーン1のころと比べ、彼の表情はとてもやわらかくなったと、監督もほめていた。
『自信を持て。おまえは俺が好きになった女なんだから』
好きだと伝えるだけの告白をした第4話を経て、今、第5話のラスト、告白の返事をしようとする彼女へ二度目の「好き」。どこまでも真っ直ぐで、その言葉までも自信に満ちている。
アヤの緊張が解けていく。頬を包みこむユウダイの手に、ゆっくりと自分の手を添えた。
『わたし、あなたのおかげで、自分を好きになれる気がした』
彼女がいとおしげに目尻を垂らすにつれ、手と手が深くつながる。サイズのちがう手のひらが合わさった。細い指が先に交わっていく。
『「好き」をありがとう』
『アヤ……』
『これからも隣にいたい』
ユウダイはくすぐったそうに、でも喜びを隠しきれず、ぐっと指を絡めた。その勢いのまま腕を引き、小柄な彼女を抱き寄せる。
夕日の光がだんだん強くなっていく。逆光でシルエットだけが残ると、ふたりを軸に景色が広がっていく。
重なる影。幸せそうな笑い声。まばゆい日。
フェードアウトしていくと、エンドロールが流れた。
五十嵐巽、春日野妃希、七音の文字列がひどくなつかしい。短い撮影期間だったけれど、得たものは人生の中で1,2を争う。あたしに革命が起きた、まさに記念日だ。
高評価を押そうとして、そうだ、もう押してたんだったと指を止めた。
ウェブドラマ『スクランブル!』が公開されてから早3年。
はじめこそ伸びなかったものの、芸能関係者の間では、公開当初から妃希さんの演技が話題となっていた。彼女は瞬く間に売れていき、異例の速さで月9俳優の仲間入りを果たした。
彼女の人気に火をつけた作品として夕方の情報番組で取り上げられ、シリーズ総再生数は2000万回超えを記録。なかでも最終話の5話は、桁違い。500万回再生を突破した。
告白シーンに胸キュンが止まらないだとかで、一時期、妃希さんと巽さんのカップリングを推す人が相次いだ。
このためだけに作られたチャンネルは、ウェブドラマコンテンツとして中高生に愛され、次々と他シリーズを発表している。いわゆる若手俳優の登竜門となった。
今や『スクランブル!』は、日本のウェブドラマ市場を変えたとまで謳われているほどだ。
こんなに大きくなるだなんて、誰が想像しただろう。
当時の監督は昨年賞を総なめにしたし、巽さんは本当にカリスマモデルになり、パリコレにも出演したらしい。
――あたしだって。
『スクランブル!』の撮影最終日。
全シーン撮り終えたばかりの妃希さんに、一足先にオールアップしたあたしはスタッフの代わりに花束を渡した。
そのとき、宣言したのだ。
「妃希さん。追いかけるから待っててください」
「え? わたし年下ですよ?」
「関係ありません」
根負けした彼女は、おもむろに虹彩の色を深めた。
「わたしも、また共演できることを願ってます」
あれから。
『A.L.mooo...de』の1周年を機に、あたしはグループ、そして七音という名からも卒業した。
夏凪音の名で、動画サイトに作詞作曲した歌を投稿したり、深夜ドラマのちょい役をもらったり、アニメの主題歌のコンペに出してみたり。
『スクランブル!』がバズってからは、あたしもそれなりに知れていった。
シンガーソングライターとして歌番組に出演し、ドラマの準主役に選ばれ、気づけば実力派の肩書きがついていた。
そうして、かれこれ3年が過ぎた。
妃希さん主演の映画に抜擢されたときは夢かと思った。あの約束をようやく果たせるのか、と。
運ばかりのこの世界で、がんばって彼女を追いかけて、追いかけて――やっと追いついたと思ったのに。
「……、時間だ」
イヤホンを外した。
静寂に包まれる。エアコンがガンガン効いていても汗をかいた。
1番スクリーンへ移動すると、案の定、人っ子一人いない。ちょうど真ん中の席を陣取り、貸し切り状態の劇場内を見渡す。
広くも狭くもない、けれどここでは一番いい劇場なんだろう。
ポップコーンの匂いが染みついていた。
劇場の明かりが落とされていく。たいして座り心地のよくない椅子に、深く座り直した。ギシ、と音が立つ。
蝉もアイスもバターも、もう感じない。暑いけれど、肌寒い気もする。
たしかに、春が、そこに在る。
『えー。アオイらしくないじゃん』
閑静とした場内いっぱいにガヤガヤとにぎわう音がひしめき、あたかも満席のように欺くなか、開口一番のブーイングに切り裂かされた。
ピンぼけしていく桜の枝が、正面のスクリーンに映る。窓ガラスを越え、使い古した教室が広がる。お弁当箱を片付ける生徒をちらほら見つけた。
からの、見慣れすぎた顔のドアップがきた。
あれはそう、あたしの顔だ。
願掛けに伸ばしていた髪を20センチ切った、茶髪のボブ。若見えするメイクをしてなんとか偽造した、人工的な童顔。
中学生です。中学1年生です。と、言われて信じられる人はいるかと思ってたけど、あらためて観ると……いや、やっぱ無理があるな。
『なんでだめなのぉ? サヤくんと仲いいなら取り持ってくれてもよくない?』
『だから、そういう話する仲じゃないんだって。ただのサッカー友だち』
『えーーー?』
あ、妃希さんだ。
ううん、今は、アオイだ。
サラストの長い黒髪。やや太くした眉。色の薄い唇。
ぶかぶかな紺色のセーラー服も相まって、彼女のことはごくごく自然に中学生だと認識できる。
あたしが演じる友人役のヒマリのせいで、明らかに機嫌を損ねたアオイは、ヒマリから体を逸らし、大きく足を開いた。
『あー、また足開いて! ちょっとは女らしくしなよ』
『今度は女らしさ』
『なに?』
『さっきはアオイらしくって言ってたのに』
『なあに? 聞こえない』
『……なんでもない!』
仕方なく足を閉じ、八つ当たりするみたいに声を荒げた。ヒマリの顔が見れず、机に突っ伏してしまう。ヒマリにいくら揺すられようがぜったいに起きなかった。
窓辺にいる女子はスカート丈を気にして、ヒマリは別の子と恋バナをし始め、そんな彼女らを尻目に男子は盛り上がる。黒板には「このあとの体育は男女別、男子は陸上、女子は器械体操」と殴り書きされてある。
アオイはため息をついた。腕からちらりと目を覗かせる。青々とした空。その下方では、クラスの男子たちがグラウンドでサッカーをしてる。
『ゴール!! いぇーい!!』
シュートを決めた友だちのミチが、仲間とハイタッチをして肩を組んでる。日差しを直に浴び、汗だくになりながら、それでも楽しそうに笑ってる。
雲が泳ぐ。薄暗い影がアオイの体を覆った。
うらやましい。口に出さずとも、彼女の眼差しは強くそれを求めていた。
ちょん、とばっちいものに触れるようにスカートの裾をつまみ上げる。彼女の黒い目が死んでいく。投げやりに手を離した。
春風が、吹いた。
あおがれたようにスクリーンの画が移り変わる。教室の窓からグラウンドへ急下降し、ミチを捉えた。アオイのいるほうをじっと見上げている。
数秒し、アングルは上へ上へ向かっていく。一面青空に染まると、桜の花弁とともにタイトルが浮かび上がった。
『未だ蒼きハルの子へ』
春、中学に上がった少年少女は、思春期を迎える。急に男女を意識し始めるが、アオイだけは腑に落ちず、男女関係なく振る舞い続ける。しかし「女らしくない」「男に媚売ってる」となじられ、窮屈になっていく。そんなとき、友だちのミチに告白されてしまう。
そんなふうなあらすじだったと思う。予告には「共感100パーセント」の謳い文句が堂々とついていた。
公開から約3か月。興行収入は100億に達した。早くも異例のロングラン上映が決まっていると聞く。
どれもこれも、『スクランブル!』がまた流行り出したのだって全部、きっかけは妃希さんだ。
あなたが引退してしまったから。だから。
『おれ、アオイのことが、好きだ』
『……なんで』
『なんでって』
『わたしのこと、知らないくせに。なんで好きになれるの』
『知ってるよ!』
『っ知らないんだよ!!』
スクリーンに、妃希さん――アオイの顔が歪んでいく様が、ありありと映し出される。
戸惑いや苛立ちの色が徐々にぐしゃりとつぶれていき、四角く不格好に成り下がった顔面には苦痛しか残っていない。
きれいだ。それでも相変わらず、きらきらしている。
なのに、あなたはどこにもいない。
劇的なドラマを見せたあの舞台挨拶以降、彼女と会った人はいない。連絡しても使われていないし、事務所も知らないの一点張り。
芸能界からだけじゃなく、この世界すべてから消えてしまったかのよう。
ねぇ。
妃希さん。
どこにいるの。
もう、春、終わっちゃったよ。
映画の中でも気温が上がった。
体育祭終わり、教室でヒマリはサヤに告白される。色めき立つムードに耐えられず、アオイは教室を飛び出すが、ミチに腕をつかまれてしまう。
『アオイ!』
『離して』
『やっぱり、おれ……好きなんだ』
妃希さんが務めていたフルーツジュースのイメージモデルに、今日オファーがきた。『スクランブル!』のオールアップでもらった花を押し花にして持っていたのに、昨晩どこかに失くした。引退の話題がニュースに上がらなくなった。蝉が啼き出した。
だから、会いに来た。
『わたしは、きらい』
『え……』
『みんな、きらい。だいきらい!』
アオイの青白い頬に涙が伝う。手を振りほどいて逃げていった。背中が小さくなっていき、いずれ、消える。
あたしの目も濡れていた。はじめて観たわけじゃないのに、どうしようもなく胸に突き刺さって、彼女以上に泣いてしまう。
きらいでもなんでもよかった。
あたしが、ただ、ずっと。
「……あなたのことが好きだった」
ひとりぼっちの空間は異様に静かで、温もりも何もない。
葛藤していたミチが、意を決してアオイを追いかけていく。
蒼色のフィルターのかかるその光景を、涙でじわじわ霞ませる。ひじ掛けに立てた爪が、パキリと割れた。




