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あなたが世界を愛さずとも  作者: 甘
ひさ子について
41/43

クチナシ⑶




「はい、カットー!!」




カチンコの合図が聞こえても、しばらく涙腺の蛇口は故障していた。役の感覚からリセットできない。やばい、鼻水まで出てきた。


生地の厚いジャケットの背面を、とん、と一度だけ揺すられる。




「雨ヶ谷さん、苦しいです」


「あ! ごめん!」




ぎちぎちに身を縛ったまま停止していた俺に、ひさ子はたまらず再起動を呼びかける。ただちに解放した。


彼女の唇は、青紫に変色していた。紅い色がいやに映えている。べったりとついた血のりを、手の甲で拭い取る。その野性味のある仕草は、コヨリとはまるでかけ離れていて、うるわしい息吹を感じさせる。


目が合っただけで、晴れ上がる。




「たくさん泣きましたね」




血をかすめた手の甲で、流れそこねた俺の涙まですくい取ってくれる。


お手上げだと言わんばかりに、俺は両手を地面について胸を広げた。彼女のほうに頭を寄せ、目を細める。




「そりゃ泣くよ。大好きだから」




そうですよね、トワですもんね、と納得された。うーーん、と肯定か相槌かで考えあぐねていると、俺たちの間を湯気が割って入ってくる。


ホットココアだ。紙コップに入ったそれを、助監督がみんなに配っていた。そこに大荷物を携えた京志郎まで加わる。




「春日野、俺たちも」


「あ、そうでしたね」




両手に抱える大袋から出てきたのは、大量のチョコレート。スタッフ一同、歓喜する。一番沸いているのは、きっと俺だ。




「わたし、すっかりバレンタインのことを忘れていて。マネージャーが用意してくださったんです。なので実質、マネージャーからの差し入れになります」


「提案したのは俺だが、選んだのは春日野だろう?」




経緯はなんだっていい。彼女からチョコをもらえたという事実に、変わりはない。


丁寧にラッピングまでされた、チョコチップ入りのクッキー。既製品であろうに、食べてしまうのがもったいなく感じる。冷凍保存してとっておきたい。けど、それもそれでそわそわする。じっくり味わって、体内に融けこませてしまうか。どちらにせよ、酔いしれることまちがいなしだろう。


カシャカシャと、また機械音が鳴る。記念の写真大会、好評につき早くも第2回目だ。画面の中で、ココアとクッキーが仲良さそうに並んでいる。その甘美さに、スタッフは心を躍らせる。




「スクープ以上に話題になりますよ、きっと!」




その日のSNSは大いに盛り上がった。


俺の個人のアカウントにまで反響が及んだ。ファンの子も、そうじゃない人も、応援してくれている。モチベーションは十分だった。



1日置き、とうとう撮影最終日が訪れた。来てほしいようで、来てほしくなかった終わりが、すぐそこまで来ている。逃げ場はない。


早朝に現場入りした。長らくロケが続いていたが、最後はスタジオで行われる。演者は俺とひさ子のふたりだけ。控室のハンガーラックには、刺繍の施された民族衣装がかけられている。すべて、なつかしい。初日に帰ってきたようだ。


スタジオのセットは豪華に様変わりしていた。庭園の入口に添える程度だった草花が、グリーンバックの床面を埋め尽くしている。圧巻の景色だ。その一部にこれから俺もなるのだ。武者震いする。



彦星のソロカットを撮り終えると、ひさ子の準備が整った。初日ぶりに対面した織姫姿は、相も変わらず、この世のものとは思えない美しさだ。ガラス細工のように幻想的で、線が細く、それでいて、高潔とした芯がある。


裾を引きずる彼女に、そっと手を貸す。いつもの挨拶を交わし、エスコートを委ねてくれる。一歩、一秒、刻みながら、花畑の中へ踏み入れた。




「おはようございます。おふたりが揃ったところで、最後の撮影に入ります」




監督が台本をめくった。最後のページだ。


事故に遭ったあとの場面だ。原作では、これまでの書き方をあえてかなぐり捨てるという斬新なこだわりで作りこまれたとうわさの結末。ドラマでも忠実に、けれど、映像作品ならではのやり方で魅せていく。セットの力の入れ具合からも、監督の覚悟を見受けられる。


リハーサルはかつてない回数に及んだ。シーンの秒数でいえば、それほど長くはない。それでも作品を締める重要なラストシーンだ。懸ける思いは、到底言語化できるものではない。



低空に霧がうずまく。花の香りが濃厚になっていく。その渦中にいると、ここが日本であることを忘れそうになる。


それでいいのだ。ここは、今だけは、まったくの異世界。ここでは、俺とひさ子は、運命で結ばれている。何も気にせず、好きでいていい。「好き」を、贈らなければいけない。




「じゃあ、本番、始めよう!」


「カメラ用意!」


「テイク1!」




俺の膝の上で、ひさ子は眠りにつく。寝心地はあまりよくないだろうに、一輪の花を抱えた寝方は、まるで棺に閉じこもっているようだ。じわりと目の奥が痛くなる。


最後。これで、最期だ。


カン、と。これまでになく空虚な合図が、高い天井を跳ね返ってくる。終わりを、引き連れて。




「コヨリ……――さま、織姫様」




事故後、途絶えたコヨリの意識は、空の上へ舞い戻る。


時間をかけて瞼を上げていく。と同時に、開かれていく手元からぽろりと、花がすべった。不透明な煙のこもる地に、埋もれていってしまう。


雪のような陶器肌に、淡く赤らんだ照明が揺らめく。それを白い照明がおもむろに追いかけ、次第に消えていく。雪の溶けた頬に、桜が萌む。



大丈夫、春は幾度もよみがえる。




「ひこぼし、さま……?」




うん、そうだよ。ゆっくりと力強く、瞬きをする。


マーブル模様のベールをかけ直しながら、彼女の肩を抱いた。まだ夢見心地な彼女に、額をすり寄せる。




「また、逢えたね」




やさしい風が吹き抜ける。白い花々がふわりとそよぐ。ひとひらの花びらが俺たちを越していく。


涙はこらえようとしたけれど、だめだった。潤む視界に愛の形を焼きつける。頬をかすめそうな彼女の長い下まつ毛も、濡れていた。


瞼を伏せ、指を近づけた。奥まで折り合わせ、ぎゅっとする。笑みがこぼれた。


露のような粒のついた鼻先をくっつける。ふふっと彼女はほころぶ。甘やかな香りに包まれる。つられて吸わせた唇に、不意に、やわらかい温もり。冷めやらぬうちにもう一度。


好きだ。大好きだ。本気でそう思った。



いつの間にかカメラは引いていた。大輪の花を余すことなく捕まえ、幸せそうな恋人たちを日常の背景と化す。一枚の絵画としても申し分のない、その小さな世界では、花言葉がしかと実っていた。




「……っ、……カ、ット」




嗚咽まじりに監督は告げると、目頭を押さえた。静けさに哀愁が漂う。


カチンコが現実と創造とを分断する。


こうして、ふたりの時は、永遠となった。




「ふたりとも、すごく、きれいだったよ」




モニターに釘付けになりながら、監督は何度もそう熱弁した。一度観てオッケーを出したあとも、何周も映像を再生し続けた。簡易的な編集で天の川が足され、いよいよ監督は胸を詰まらせた。


こう客観視してみると、自分がどれだけトワに、彦星になっていたのか、思い知る。彼女がそうさせてくれた。キスをした実感がないのもそのせいだ。


ずっと夢中だった。今も、ずっと、夢見ている。


いったいどうしたら愛さずにいられるだろう。




「トワ役の雨ヶ谷丈さん、コヨリ役の春日野妃希さん、クランクアップです! これにてオールアップになります!」




もらい泣きしたスタッフから、俺とひさ子にそれぞれ花束を贈られる。衣装と同じ、俺は瑠璃色、彼女は鴇色の飾りがついていた。


ありがとう、と何回言ったかわからない。実家のような安心感、代えがたい一期一会があった。明日からホシヨルの撮影がないのだと、考えるだけで憂鬱になる。


そうとうしゅんとしていたのだろう、ワックスでがっちり固められた髪を、監督に思いっきりかき乱された。




「珍しく午前で終わったことだし、ウチでぱあっと慰労会しようか!」




えっ! と声が出た。俺が犬なら、耳と尻尾をぶんぶん振っていた。


俺のとは正反対の「えっ」が、助監督の口から絞り出される。




「か、監督いいんですか!? まだ編集やら組み立てやらいろいろ……!」


「いいのいいの! 今日を逃したら、大スターのおふたりとはなかなか会えなくかもしれないでしょ?」




助監督は押し黙る。撮影自体は予定よりだいぶ巻きで完了した。余裕は持てる。


ちょっとだけですよ、とお許しが出た。別れが先延ばしになり、監督は小躍りする。募る参加者に、真っ先に手を挙げた。




「ひさ子も来るだろ?」


「……はい。ぜひ参加させてください」


「親御さんに連絡しなくて平気?」




監督の気遣いに、彼女は苦笑する。




「あまり気にしない人なので」




意外ではない。立派な娘を持つと、いちいち干渉しなくなるんだろう。まあ、深夜の飲み会じゃあるまいし、心配する要素は元よりゼロだが。


各マネージャーの許可も下りた。俺の今日の仕事は、これ一本だったから、心置きなく酒が飲める。片付けを早々に済ませた。



会場となる監督の住まいは、スタジオから徒歩圏内にある。都会のど真ん中にあるタワーマンションの、上層階にある一室。絶景を堪能できるリビングに、買いこんだ飲料水とジャンキーフードがところせましに置かれていく。




「はーい、みんな飲み物持った?」


「持ちました!」


「んじゃ、まず一旦、今日までお疲れ様! かんぱーい!」




監督の乾杯の音頭で、グラスを高々と掲げる。参加率98%の慰労会、スタートだ。


酒を注ぎ、飲み、語り、肉を食べ、笑い、そして泣く。そこらの居酒屋以上に騒がしい。腹よりも、胸が空いていた。物を摂るよりも、思いを吐きたがった。


部屋の一画を占めるほどの大画面で、録画されていたドラマを1話から観賞した。このシーンはああだった、こうだった、と裏話が絶え間なく飛び交う。メディアに売ったら金になりそうな話ばかりだ。酒がよく進む。


酔った監督が、ホールのケーキを5つデリバリーで注文した。奢りだ何だと大胆に叫び、拍手喝采が起こっている。


その横では、ビジネストークが繰り広げられている。フライドポテトが高級おつまみに見えてくる。左右で空気感がちがいすぎる、どうなってるんだ。


仕事センサーの反応した京志郎も、腰を低くしながら参戦しに行った。一緒に開けようとしていたワインの瓶を、俺に押しつけて。こんなところでも売り込みか。


しゃーない。ひとり寂しく、コルクを引っ張り出した。グラスの底を浸していく。渋く熟した赤い色に、口を染める。




『わたしにはずっと……すごく、すごく、大切に想う人がいたんだって』




ごくりとやけに喉仏を突いた。巨大なテレビいっぱいに、第2話の例のシーンが映し出されていた。ヒューウ、と誰かが口笛を吹く。




『……うらやましいよ』


『え?』


『あんたにそんなに愛されてるなんてさ』




あのとき、俺の世界は壊された。


プラネタリウムで楽しく遊んでいた俺が、はじめて、本物の夜空を見た瞬間だった。



ガラス張りの窓辺で、ひさ子は遠くを見つめていた。にぎやかな雰囲気に群れようともせず、高みの見物するように隅っこのソファーに座している。


静かに隣に立ち入った。弾力のある座り心地に、ひさ子の腰が若干浮く。


流れていく自分たちの音声に、脈拍が速まっていく。「あのさ」と、かける声はどうしようもなく震えていた。




「あれが、演技じゃないって言ったら、どうする?」


「え?」




セリフじゃなかった。うらやましかった。愛されたかった。


全部。本当だよ。俺の、心からの言葉だ。




「好きだよ、ひさ子」




俺が、俺として、言いたかった気持ちだ。




「……わたしも、好きですよ。役者として、人として、とても尊敬しています」


「そういうことじゃなくて」




わかるだろう?


呆れ笑いを浮かべながら距離を詰めようとすれば、断るように彼女は体をやや前に持っていく。テーブルの中央に放置されたレモン水を、わざわざ俺の前に寄越した。




「酔っているのでは? 一度お水を飲んでください」


「……受け取ってすら、もらえないんだな」




笑顔を取り繕おうとしたら、眉だけがへにゃりと歪んだ。酔いの回った思考では、気の利いたことのひとつも思いつかない。水を飲む気にもなれない。


うつむき、彼女の顔を覗きこむ。冬と春の両面を宿したような表情をしていて、胸がきゅっとなった。




「全部、まやかしですから」


「ま、やかし……?」


「本当のわたしを知ったら、全部、嘘になります」


「ないな。俺はどんなひさ子も……」




彼女はかぶりを振る。


織姫の名残のある口元を、ほろほろとゆるめる。けれど、雲影に覆われた視界に、俺はいない。




「わたしは、あなたに釣り合いません」


「なんで……」


「どう足掻いても、あなたの隣には立てないんです」




それってさ、逆じゃねえの?


俺が、彼女に釣り合っていない。一生かかっても、彼女の隣に立たせてもらえる気がしない。


だからって、もう、あきらめられねえよ。そうバカ正直に言えば、どうせ離れていってしまうんだろう。なら言わない。言ってやんねえ。



ワインで言葉を流し入れた。ちゃんと味わい、飲みこんだ。苦味が強い。胃の上あたりがつんとする。最悪きらいになりそうだった。


やさしさは、消えてしまった。




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