芽吹き⑷
おはようございます。
朝昼晩、いつだろうと、芸能界はこの挨拶から始まる。
あくる日の午後1時過ぎ。
ラジオの収録を片付け、マネージャーの運転でドラマの撮影現場にやって来た。俺がまずやるべきことは、芸能界特有のしきたりをこなすことだ。サングラスとマスクを外し、すれちがうスタッフに「おはようございます、おはようございます」と簡単な会釈をする。
時間感覚が狂いがちな職種ではあるが、今日は一目瞭然、自然光によく照らされている。電灯にお役御免を言い渡す主を、ガラス製のお膝元から拝みに行く。
からっと晴れた空、黄葉の高木、開放的な運動場、閉ざされた門。
ここは、都内の私立高校。撮影2日目はスタジオを飛び出し、生徒のいない日曜日を狙ってロケを実行した。
昨日のとはまた別の制服に着替えると、猛烈なノスタルジーが駆けめぐる。おはようと言って教室に入り、昼休みはグラウンドでサッカーをし、じゃあなと言って門を出るのだ。この時期は文化祭に浮かれていたころか。
スタッフに案内され、現在の撮影場所へ移動する。2階の角に構えられた、手狭な図書室。こう見えて学生時代一番のお気に入りだった場所だ。授業が始まる前に、たまに来ていたのだ。朝日を浴びながら、遠くで飛び交う挨拶をBGMに、適当に選んだ本を一冊読みふけっていた。どこぞの坊ちゃんになったかのような、とても優雅な時間だった。
パタン。
とある本が閉ざされた。こげ茶色の小さなおだんごが、ひょこっと起き上がる。いまどき珍しい古時計を一瞥し、あわてて本を抱えて図書室を出た。
カチン。
拍子木が打ち鳴らされた。手動で追いかけていたカメラが止まる。レンズを介し、ヒロインのコヨリと七夕伝説にまつわる古書がはっきりと捉えられていた。
あれは、第1話の冒頭のシーン。七夕伝説を影絵でわかりやすく表現したのち、今のカットが挿しこまれることになっている。
「あ、おはようございます雨ヶ谷さん」
オッケーを出した監督より先に、彼女が俺に気づいた。当然のことながら、顔つきはコヨリと差がある。早熟した様に、懐古の情が吹っ飛んだ。
よっ、と手を軽く上げる京志郎に応えると、監督も気づき「おはよう!」と手招きされる。今日イチの挨拶を返し、“俳優 雨ヶ谷丈”のスイッチをオンにした。
「お、イイ表情だね」
「監督も」
「あ、わかる? ノってるんだよね今。この調子で、早速、次のシーンの説明をするね」
今撮った続きにあたる、シーン3。トワの初登場の場面だ。
とはいえ、セリフはない。コヨリが図書室を出たあと、転校の手続きをしに来たトワとすれちがうだけだ。
だけ、と切り捨てられるのは撮影自体に限った話であり、物語の全貌を知る者にはやや歯がゆく感じるかもしれない。
なぜなら、はじめに一度接近したふたりは、トワが転校してくるまでお互いを認識することはないのだ。つまり、1話のほとんどをすれちがい続ける。1分前までコヨリがいた場所にトワが来たり、トワが通った公園をコヨリが横切ったりと、まさに運命のいたずらのような展開を約40分強もの間、畳みかけられる。
どんどん退屈に思われてしまいそうな絵面は、監督の腕によって遊び心満載に練られている。
精神的なすれちがいは2話以降から、これまた長々と紡がれるのだが、それはさておき、シーン3は物理的なほうの火蓋を切って落とす大事な役目がある。このじれったい序章を経て、次の週から現世の恋が動き出すのだ。セリフがなかろうが手は抜けない。
「シーン3、テイク1」
「よーい、はい!」
リハーサルどおり、カチンコの合図で、主役たちは歩き出す。それぞれをカメラが追尾する。
廊下にふたつの足音が鳴り響く。右足を俺が地につければ、彼女は浮かせる。けっして重なり合わない。重量感、速度、歩幅、どれもちがう。けれど、少しずつ、磁石のごとく近づいていく。
借りた本を片手に図書室側から走ってくる彼女を、俺は見ているようで、見ていない。興味がない。やや下に傾けた視界に、前髪をかぶせ、さらに見えなくさせる。
音が、交わる。肩にすっと風が触れた。磁石は磁石でも同極だったらしい、ばちりと静電気が走った。視界から誰もいなくなる。
彼女ははっと息を呑む。腕から本がすり抜けたのだ。ぎりぎりキャッチし、ふぅと息をつく。離れていく気配に引き寄せられるように、彼女は振り返った。
俺は止まらず、振り返ることもなく、歩き続ける。やがて、また音がふたつに分かたれる。最後まで調和することはなかった。
「はい、カット!」
二度目のカチンコが、ゴールを祝す。
顔をぶるりと震わせた。前髪が目に入りそうだ。ヘアメイクさんに直され、目元がまたくすぐったくなる。午前はずっと前髪をあげてキャップをかぶっていたから、よけいに気になってしまう。
意識するからいけないんだ。
モニターを覗きに行けば、思惑どおり、無意識のうちに映像に夢中になっていた。
秒数は短く、セリフはないものの、画はキャラクターのことを雄弁に語っていた。
ポスタービジュアルのよりダークな色味のブレザーだからか、規則的にひだまりに満ちた廊下でさえ、俺に――トワに陰りが帯びる。
対して、ライトベージュのカーディガンを着こむコヨリは、廊下の影を一切踏んでいない。光の精が喜んで彼女のほうに集まっているようだ。
俺に付き従っていたカメラと、彼女のが、ぶつかる。触れそうで触れない肩。柱の影に覆われ、ひと際濃くなった人影は、すぐにまた日に焼ける。
落ちかけた本を、彼女は両腕でぎゅっと抱きしめていた。織姫と彦星の影絵が描かれた表紙を、仰向けにして。彼女の、そして前世の姿の向く先には、俺の背中だけがあった。
次の瞬間。形のよい唇が、はっと吸う。酸素を補給しているのではない。言葉だ。何かを、言っている。
「どうしました?」
突然、彼女が、デジタルの中から抜け出して来た。正確には、モニターの奥から顔を出しただけなのだが、心臓が骨も肉も突き破ってしまうかと思った。いつからいたのか、俺のほうがあとだったのかすらわからない。
聞こえなかったのかと勘違いされ、二度訊かれた。監督も注目している映像の一部分に、人差し指を寄せる。
「ここ、なんて言ってるのか読めなくて」
「あぁ、そこですか」
「何か、言ってるよな?」
「はい。ただ一言」
――彦星様、と。
音は、歩くときののみ。声は、乗っていない。まばたきをする、呼吸をする、そんなふうな生理現象みたいに、その名はなぞられた。
それは、コヨリ自身の意識の範疇外。だからこそ、何もなかったかのように再び走っていったのだ。
台本にも、先ほどの説明にも、そんな指示はなかった。ぶっつけ本番、彼女が独断でかましてきた。この細かい、細かすぎる仕掛けは、後先に支障はなく、ガチ勢にしか気づかれないほどだろう。
俺と同じベンチャータイプなのか、役が憑依したのか。つくづく彼女はわからない。
「雨ヶ谷さん? まだ何か?」
「妃希さんをじっと見つめてどうしたの?」
しまった、観察しすぎた。監督にまで怪しまれる。
「……ちょっと、気になりまして」
「やだ、なに? スキャンダル?」
「監督のセンスも、気になってますよ」
「本当かあ?」
「本当ですよ。俺、嘘ついたことあります?」
「褒め上手だこと」
リスペクトしている。この場にいる全員、今はいない人も、ドラマ制作に携わるすべての人に。みんな、俺にないものを持っている。一人ひとりに等しく、敬意と好意を注ぎやまない。
もちろん、同じ主演という立場として、彼女のことも。しかし、他と同等かと言われたら、悩ましい。
彼女だけ、ちがって見える。俺からしてみりゃ、彼女が俺の特異な存在。ふつうのオンナノコじゃない。
ならば、何か。
どうして彼女には「好き」を示せないんだろう。イコール苦手、と定義すればいいのか。だったら、どうして、彼女から目を離せないんだろう。
俺は何がしたいのか。何を、思いたいのか。
どうしようか、好きに生きるのもままならない。
「シーン38の撮影、本番いきます!」
階段をひとつ上がり、図書室の真上に位置する教室へ移動した。教室の扉から階段の踊り場までを、数々の機材が囲う。
本日から第2話の撮影も同時並行で行われる。第1話のラスト、トワが転校生として紹介されたシーンの続きが、第2話の冒頭にあたるシーン38で描かれる。
第2話からコヨリとトワのふたりきりのシーンが各段に増える。物理的なすれちがいから見事脱却したことは喜ばしいだろうけれど、中の人としては気持ちが迷子だ。いやではない。それは絶対にない。ないから、わかんねえんだよ。
ブレザーを昨日の、ポスタービジュアルのときのものと取り替えた。教室に入る。後方の扉を閉ざし、俺とカメラの間に壁ができる。俺のうしろには、彼女が並ぶ。背筋が伸びる。
「シーン38、テイク1」
まあ、なるようになるさ。
「よーい、はい!」
――カチン。
朝のホームルーム、1時間目の数学を立て続けに終え、チャイムが鳴る。と、想定し、俺は扉を開けた。
転校生というのは騒ぎ立てられる宿命にある。トワはきっとそういうのがきらいだ。独りになれる場所を探し、あてもなく階段のほうへ歩いていく。10分後には2時間目の歴史が始まる。サボることになってもよかった。
階段を下りようとして、呼び止められた。耳にきんと障る、オンナの声だ。目だけ向けてやれば、あとを追ってきたコヨリがいた。わかりやすくオンナの顔をしている。そんな顔もできるのかと感心しながら、目を細め、吊り上げた。
「……なに」
「あ、あの……」
「用があんなら早くしてくんね」
ごめん、と謝られる。振り絞った勇気がしおれていく。左と右で指をもじもじといじり合わせながら、怖々と口の端を引きつらせた。
「わ、わたしのこと、どう思う……?」
「なにそれ、告白?」
「え、ちが……!」
「なんも知らねえくせに言ってくんの、まじで無理」
冷然としていればしているほどよい、と、あらかじめ監督に注文されていたところだ。それって、要は、いつも俺がやっていることとは真逆のことをすればいいってこと。余裕さ。
好きを裏返すと、きらいになる。
俺自身にはなくとも、周りではありがち。元カノとか、歴代全員そう。毎日好き好きアピールしてくれたのに、ある日急にきらわれる。「好きだからつらい」とも言っていたっけ。そのたびに「俺は好きだよ」と返した。本心なのに「嘘だ」「きらいだ」と信用してもらえず、別れのルートへ一直線。
そうして、かなしいかな、俺の世界から消えていく。
「……何も、知らない……」
コヨリの表情が歪んでいく。見覚えがあった。そういえば、元カノも、そんな表情をしていた気がする。
つい募らせた期待を、あっさり打ち砕かれた表情。そこまで苦しそうに見えないのは、おそらく、心の内ではなんとなく察していたからだろう。事前に予防線を張っておき、それでも都合のいい未来を思い描かずにはいられなかった。
何と言えばよかったのか。それこそ、まごうことなき嘘に成り果てるというのに。
そっけなく目を逸らした。ズボンのポッケに手をつっこみ、一段ずつ下りていく。長い前髪に極薄の皮膚をチクチク刺された。
――カチン。
カットがかかった直後、痛みが襲う。瞼? ううん、そこじゃない。もっと下、ずっと下。心臓の奥の、奥のほう。
何の痛みか知らないが、今はこれを罪悪感と銘打っておくとする。次の撮影シーンに都合がいい。
チェックが済み次第、休む間もなくカメラは動かされる。今度は教室の扉付近と室内に構えられた。何度かテストを重ねていくうちに、痛覚はイカれていった。
「本番!」
「シーン51、テイク1。よーい……」
シーン38での微妙な勘違いを解消する場面。
俺はわずかに開いた後方の扉の外側にスタンバイし、中にいる彼女を見つめる。日差しがオレンジがかってきた。教室に放課後の匂いがし始める。
カチン、と鳴ったやいなや、ガタン、と扉が揺れる。俺が故意に足を当て、事故に見せかけたのだ。
「!?」
彼女はびくりと肩を上げた。俺はバツが悪そうに扉をスライドさせる。細身の人影だけが床に伸びていた。
実は、ほんの数秒前まで、教室にはもうひとりいた。名もなき男子生徒だ。いわゆるモブは、彼女に告白し、フラれてしまった。ずっと好きな人がいるの、と。モブは納得して、前方の扉から去っていった。そのシーンは俺がいなかった間に先行して撮影されたと聞いた。
偶然、告白現場に遭遇してしまったトワは、罪悪感でいっぱいだった。
「……悪い」
「も、もしかして、今の聞いて……?」
へたくそにうなずく。たっぷりと間を置き、もう一度「ごめん」と告げた。
「い、いいよ! わざと盗み聞きしてたんじゃあるまいし!」
「……それだけじゃねえ」
「え?」
「この前、あんたにひどいこと言っちまったから」
この前。シーン38のことだ。
告白だと思いこんでいたあれは、告白なんかじゃなかった。自意識過剰だった。
「ずっと、好きな人がいるんだな」
ずっと。そんなたいそうな3文字は、転校してきて間もないトワにはふさわしくない。
勝手に誤解して、拒絶して、無駄に傷つけて。最低なことをした。自衛のための被害妄想も、ここまでくるととんだ迷惑だ。きらわれてもおかしくない。けれど彼女は、こんな俺にも邪気なく破顔してくれる。
「うん……。最近、気づけたんだ。わたしにはずっと、すごくすごく、大切に想う人がいたんだって」
胸元に両手を重ね、リボンのタイごとぎゅうっと握りしめる。喉元にまで圧のかかった苦しさは、恋心のそれと似通って見えた。
増していく苦しさごと、いとしく想っているように、彼女の頬に熱が浮いてくる。やさしく伏せられたまつ毛が、レフ板越しに白んだ光に染まっていく。えくぼの下から架かる逆さの虹は、落っこちることなく、きれいにたたえられ続ける。
全身から「好き」が、あふれている。
彦星にも、そうだった。好いている人には、そうなのか。そんなふうに想ってくれるのか。その好きな人が、今は、俺なんだ。
あぁ、それは、なんて――。
「カット!」
突如、撮影が中断された。このあと俺のセリフがまだあるのに。
「雨ヶ谷くん~、だめじゃん」
「へ……?」
「にやけちゃってるよ?」
監督に注意された。カメラマンにも、口角を指差して茶化される。
まさか、と思い、口に手を当てる。そのまさかだった。口角が思いっきり上がっちゃってる。思わず声を上げて笑ってしまった。
「ここではまだ素はしまっておいて」
「はい、すみません。もう一度お願いします!」
「よーし、テイク2いくよー!」
またわざと扉を蹴った。自分の手で壁を取っ払い、彼女と向かい合う。
彼女がたおやかに想いを語るたび、ずくん、と心臓のあたりが重たく沈んでいく。勢いよく弾み、また沈む。その繰り返し。ちょっとだけ痛い。でも、まだ続いてほしい。
「最近、気づけたんだ。わたしにはずっと……すごく、すごく、大切に想う人がいたんだって」
彼女も、ずっと、そうであってほしい。遠くにいかず、そこで笑っていてほしい。
「……うらやましいよ」
「え?」
「あんたにそんなに愛されてるなんてさ」
どうか、俺のことを、好いてほしい。
この気持ちこそ、トワの求めていた愛だった。
――それは、なんて幸せな気持ちなんだろう。
「はーい、カットー! うん、いいねいいね!」
「ふたりとも、表情が心の機微と合ってる」
「妃希ちゃんの“好き”の表現、期待以上です!」
「それはよかったです。ありがとうございます」
あれだけ慈しみ口ずさんでいたヒロインの恋心は、カメラが止まると同時に、跡形もなく散ってしまった。今はもう、好きもきらいもない。ほのかに寂しさがある。
それでも変わらずまばゆい彼女に、足がすくんだ。
たぶん、俺は本当に、彼女のことが苦手だったんだと思う。
今になって思い知る。俺の世界が、どれだけ普遍的で、閉塞的だったのか。ある種盲目の状態で、どの星も同じに映っていた。きれいだった。ただそれだけだった。たまに流れて消えていった。それで満足していた。
だって、知らなかった。この世に一等星があること。あの星、ベガが、特別な輝きを放っていること。
散々言葉にしてきた愛とやらを、俺はなんにもわかっちゃいなかった。そう認めてしまえば、俺の人生は否定されるも同然だ。
そうさ、俺はあの強い光に、臆していたのだ。
自分がこんなにださい人間だったとは思わなかった。ちっとも器用じゃない。自分のことなのに自分らしくいられない。
それでも、俺は、知ってしまった。
愛したいと、思ってしまった。
「お疲れ、これから休憩だってさ」
だからもう引かない。
巧みに図られていたであろう彼女のパーソナルスペースに、押し迫った。「お疲れ様です」と言いながら半歩ほど下がられ、その分、背中を丸めて顔を寄せる。漆黒の瞳がわずかに丸くなったのを、見逃さない。
近づきたいから、近づく。したいようにする。いつもどおりのことでも、心臓がバクバク震え上がってしまう。
ホンモノって、こんなに難しかったのか。




