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あなたが世界を愛さずとも  作者: 甘
ひさ子について
37/43

芽吹き⑶




「彦星様……!」




危なっかしい足音が、板を揺らす。とっさに俺は駆け出した。


長々とした裾を引きずり、艶のある直毛をあられもなく乱し、向かい風を受けたベールをだらんと垂らし――けれど、あの瞳は変わらず、真っ直ぐに俺だけを捕まえる。黒くきらめくあの光の内へ、俺は自ら閉じこめられに行った。




「織姫様……っ」




橋の真ん中。裾に足を引っかけ、転びかけた彼女を、すかさず抱きしめた。


うすい体にきつく腕を回す。あまり強いと壊れてしまいそうで、すぐさま腕をゆるめた。上からそうっと丁寧に包みこむ。彼女が胸にすっぽりおさまった。


美の権化であった風貌は、もう、どこにもいない。肩口にこめかみをすり寄せる彼女は、今や、れっきとした恋する乙女だ。


顔が、見たい。どんな顔をしているのか、見せてほしい。


ずり落ちたベールをかけ直し、絡まった髪をさらりと梳く。そのまま不器用な手つきで、耳と輪郭に、触れる。親指から順に、ゆっくり、広げていく。真白な頬を円を描くようにさすれば、ほんのりと色付き始める。


彼女はうつむきがちに、瑠璃色の袖の先を握り締めた。分厚い手のひらに、唇の紅をほのかに染める。




「……ずっと、逢いとうございました」




涙ぐんだ声。熱っぽい息づかい。伝わり合う体温。震えるまつ毛。細くほころんでいく目元。とろけていく頬。赤らむ耳たぶ。甘く紡がれる名前。


ほぼ、ゼロ距離。


手のひらに預けられた重みは、明らかに羽のように軽いのに、なぜか林檎1個分より重く感じる。耐えきれず足場が崩れ、底なしの穴に落ちていく――錯覚だ。


ブラックアウトした脳内で、警報が鳴り、遮断機が下ろされる。はっとして身を反らした。



――カチンッ!




「カット!」


「……」


「雨ヶ谷くん、最後どうしたの?」


「……」




するりと腕がすべり落ちていった。手を開き、握り、また開く。圧も、熱も、何もかも消え失せた。俺の感覚は、ある。消えてない。大丈夫。感覚だけは、ちゃんと、残っている。




「雨ヶ谷くん?」


「っ、は、はい! ……はい、すみません」


「珍しいね。なんかあった?」


「なんか……」




心配そうにする監督に、何か言おうとするも、何の言葉も出てこない。不自然さが募る。なんかちがうと唸っていた監督の気持ちが、今なら痛いほど理解できた。



俺の中で、何かがちがう。



彼女に「ごめんね」と謝ると、首を振られる。「よかったですね」となぐさめられた。幸いにも、突拍子もない失態は場面の終わりごろだったため、撮り直しはせずに済んだのだ。


ひどく他人行儀な笑い方をされた。あんなに近くにいたのが嘘のように、遠くに感じる。織姫のごとく姿が、もう織姫だとは思えなくなる。


ちぐはぐしてる。距離感がつかみづらい。こんなこと、今までなかった。


それ以上、会話を続けることができなかった。



なんだかなあ。現場入りしたときはこんなんじゃなかったのに。変なものでも食ったか? そもそも何食べたっけ。えーっと、朝はスムージーとアサイーボウル、昼休憩んときは配給されたローストビーフ丼だった。全部うまかった。味覚に異常はない。


あとは、俺、何を食らった?




「あ、雨ヶ谷さん……!」


「ん?」




カメラ前を離れた俺に、とある女性スタッフが駆け寄ってくる。たしかタイムキーパーを担当している子だ。




「も、もしかしてお疲れなんじゃないかと思って、これ……!」


「えっ。もらっていいんですか?」


「は、はい!」




ペットボトルをひとつ、差し入れしてくれた。350ミリリットルサイズの冷たいそれは、俺が広告塔をやらせてもらっている無糖茶のものだ。


渡された手から、緊張が伝わってくる。ただ気を遣っているだけじゃないんだろう。


ずっとななめ下に向いている彼女の視界に、無理やり割り込んだ。「ひゃっ」と悲鳴を上げられてしまうが、そんなことで俺は引かないよ。




「これ、わざわざ選んでくれたんですか? 俺のために?」


「……っ、は、はいぃ……!」


「ありがとうございます。そのお気持ちだけで元気出ました」




言葉がするする出てくる、出てくる。それに嬉々としてリアクションしてくれる。俺のペースに乗せられ、たやすく打ち解けていく。


うれしいし、かわいい。かわいいって、思えている。通常運転だ。


去り際、俺は待ったをかけた。紙コップをひとつ持ってくる。そこに無糖茶を半分注ぐ。困惑気味の彼女に、それを笑顔で渡した。




「一緒にがんばりましょ」




感極まった彼女は、その場でお茶をぐいっと一気飲みした。エネルギーチャージ完了。意欲がみなぎった勢いで「がんばりますっ!!」とスタジオ全域を震撼させた。つられて俺も奮い起こされる。


助監督がスタッフを呼び集める。次の撮影が始動しようとしている。次は、織姫の単独のシーンだ。タイムキーパーの任のある彼女も、あわてて向かった。


俺の出番は、そのあと。昼休憩を抜けば、本日はじめてのちゃんとした休憩だ。




「おまえらしくねえな」




壁沿いに移動する最中、背後霊に憑かれた。あ、なんだ、京志郎か。




「俺はいつも俺なんだから俺らしいに決まってんだろ。今のとか、特に俺らしかったんじゃねえの?」


「今のはな。俺が言ってんのは、さっきの」




撮影の邪魔にならないよう、隅っこに大の男が連なる。照明の効果が一切働かない区域で、だるそうに問い詰められているせいか、裏稼業の喫煙所のようなただならぬ妖しい雰囲気が漂っていた。


さっきもらったペットボトルのラベルに載る俺の顔を避けながら持ち、ひと口飲む。ひんやりとした急流に、体内を洗われていく。ふた口目は、変なところに入ってしまい、むせてしまった。




「調子狂ったんか?」


「調子……よかったんだけどな」




今もいいはずだ。悪くなるのは、きまって()()()()




「俺の忠告は、杞憂だったのかもな」




京志郎はぼんやりとグリーンバックのほうを眺める。


カメラリハーサルをしていた。ベールを脱ぎ、化粧を褪せさせたひとりの少女が、乾燥した花々に囲まれている。


何も、考えられなくなる。




「……俺にもよくわかんねえよ」




気づけば声になってこぼれていた。




「何が」


「なんか……あの子といると、感覚が鈍るというか。こう……形容しがたい感情が生まれてくるというか。違和感? みてえなもんが、急にどかんときて――ふと『あ、だめだ』って思った」


「で、つい離れちまったってわけか」


「たぶん?」




たとえるなら、優勢に進めていたゲームが、相手の一手によって戦術も戦況も読めなくなる、あの感じ。満タンにためていた余裕が、一瞬、削がれてしまう。


その一瞬のうちに、どこかにひそんでいた、自分でも知らない自分がひょっこり現れるのだ。知らず知らずのうちに侵食し、機能を停止させる。どんどん謎めき、何ひとつ解決せず、消化不良に陥り、気づけばゲームに負けている。


恐怖はない。が、なんとなくもやもやする。




「そういうの、なんて言うか教えてやろうか」




あっけらかんと言った京志郎に、思わず目をしばたたいてしまった。温度差がすごい。「わかんの?」と聞けば、あたり前だと言わんばかりに首肯する。名探偵の風格があるわけでもない彼は、この迷宮入りしそうなほどの謎を、謎とも思っていないようだった。


間もあけずに、端的に答えを説かれた。




「苦手意識っつうんだよ」




え? 何?




「にがて?」


「そう」


「この俺に限って?」




全然ぴんとこない。ニガテって何それおいしいの?




「今までなかったのかよ」


「ない」


「即答か!」




ないもんはないんだからしょうがないだろ。そもそも考えたこともなかった。


俺の原動力は「好き」がすべて。みんな好き。だから俺も好きに生きていける。


俺にとっては、ふつうのこと。だが京志郎に言わせれば、特異なことらしい。




「誰しもあるのに、なんでねえんだよ。聖人君子かてめえ」


「だって俺だぜ? そりゃあ大小はあるけどみんないいとこあるし、みんなも基本俺のこと好きだし。苦手とかそういうもんは都市伝説的なもんかと」


「うっわ。スーパーポジティブマンかよ、きも」


「は? ひど」




月9俳優になる俺に、そんな低レベルな暴言を吐けるの、おまえくらいだぞ。別にいいけどさ。


愛があると思うと、なんでも許容できてしまう。愛って偉大。愛しかいらない。てか、この世界、愛しかなくね? ……あ、ちがう、俺にも苦手意識とやらが芽生えたらしいんだった。




「でもよかったじゃねえか。丈、これでおまえも晴れて人間の仲間入りだ」


「24年間ずっと人間してきたっての」


「おめでとう」


「おめでとうじゃねえよ」




泣き真似をして背中を叩いてくるが、そっけなく抵抗する。京志郎は気にせず、人間0歳の誕生を祝ってくる。年下のくせに。さっき俺がセンパイ面したこと、根に持ってやがるな。


楽しそうにいじられ、俺も反撃に出る。と、カチンコに制された。自然とカメラの奥のほうへ、意識を持っていかれた。



撮影、本番。


グリーンバックの前方には、庭園の入口のように何輪もの花が咲きほこっている。茂る緑の葉の中に、ぽつぽつと宿る純白。光沢のある花弁を、重ねることなく、大きく開いている。香りまでしてきそうだが、実は作りものだ。


織姫はどこかうつろな目で花々を見つめる。花に負けず劣らず、彼女も十分白い。血色感があまりなく、青白くすら見えてくる。


がくん、と彼女は膝から崩れ落ちた。下から空気を孕んだ襞がひるがえる。




「彦星様……」




痩せ細った声は、すぐに枯れていく。藁にもすがる思いで、前へ手を伸ばす。摘み取った一輪の花を、両腕に抱いた。


縦じわのついた唇が、かすかに開く。徐々に形がはっきりと見えてくる。どうして、と脆弱な音が吐かれた。




「どうして今日はあの日じゃないの。どうして今日は星がないの。どうして……」




切なく、儚く、それでもかぐわしく恋焦がれ、乞い続ける。大粒の雫が下まつ毛を沿う。ぽたり。純白の花弁に吸い込まれていく。


小さく縮こまる身体は、七夕の制約に着々と蝕まれていった。




「彦星、さま……逢いた」




い、と願いきることすら罪であるかのように、無情にも風が吹き荒ぶ。元より力のなかった彼女の手から、いとも簡単に花を奪い去った。


ぱたりと花が地面に落っこちる。たった一枚の花弁だけを残し、ばらばらに散ってしまった。




「……カァット!」




果てのしじまを、メガホンが盛大に引き裂いた。


あれが織姫の最期。第2話に組み込まれる予定の、前世の回想シーンだ。本を読んで知ってはいても、胸が痛くなる。運命は、残酷だ。新たな生を受けてもなお、ふたりはすれちがってしまうのだから。


本当に今にも死んでしまいそうだった彼女は、こともなげにぴんぴんと動いている。監督とともに表情や画角を見返したあと、こちらへ近寄ってくる。なぜか肩肘を張っている自分がいた。




「春日野、お疲れ様」


「マネージャー、ありがとうございます」




あぁ、なんだ、そっちか。そらそうか。そうだよな。


京志郎から台本とココアを受け取った彼女は、ようやっと俺の存在に気がついたように目をくれた。虚を衝かれた俺に、手指5本をすべてぴんとそろえ、監督のほうを示した。




「次、雨ヶ谷さんの出番ですよ」


「ああ……そうだな。行ってくる」




さっきの撮影シーンの感想を伝えようか迷ったが、やめておいた。苦手意識なるものを持っていると思うと、いやに言動に気を遣う。


まだもやもやしてる。彼女のことが苦手? ほんとに? 証明ができず、どうしても決定打に欠ける。感情ってもっとシンプルにできてなかったか?


彼女に、俺のふつうが通用しないことだけはわかった。未知数だ。もう少し見極めてみたい。


もしも、正解に近づくことができたら、物語のように誰かが傷つくだろうか。それが俺だったら――そのときは、そのときだ。




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