アイデンティティ⑶
自分のために使える時間は、日に日に短くなっていった。名もなき物体は、自習室に置き去りにしたまま。残すは仕上げのみなのだけれど、かまってあげられる余裕はない。目まぐるしく日々が過ぎていく。
短縮授業から、午前に授業、午後に準備という特別編成に変わると、徐々に舞台の全貌が整えられていった。学校に泊まりこみ、作業に没頭した日もある。すべてのノルマを達成したときは、クラスメイト全員で万歳をし、ジュースで乾杯をした。
文化祭、前日。
1時間目にあたる時間帯から、全グループが順々にリハーサルを執り行う。トップバッターは、わたしたち1AGだ。
貸し切り状態の講堂に、グループメンバーが総動員する。寝る間も惜しんで励んできた証が、ステージに並べられていく。たちまち豪勢になっていく。今までの苦労が報われた気がした。
キャスト陣の着替えが済んだと、知らせが来た。舞台袖に移動する。
わたしにはまだ仕事がある。全衣装の点検だ。演者の意見を参考に、のちほど丈詰めや縫い直しをする。最後の最後まで油断は許されない。シンデレラ、王子、継母、魔法使いの4名の衣装は出番が多いため、念入りに確かめる必要がある。
舞台の右袖では、クラスメイト、特に女子がざわついていた。注目の渦中にいるのは、目下の男子。ステージとの接点に立ち、微調整をしている照明にひと際焼かれている。
彼こそ、この舞台の主役。
「凰河」
ひさしぶりに名前を呼んだ。
彼が驚愕した様子で振り返る。何か言われる前に、衣装を確認し始めた。
シンデレラ役のために用意したドレスは、2着ある。現在着用しているのは、魔法がかかったあとの仕様のものだ。
「平和を願う中立者」「無限の可能性」という意味をこめて、メインカラーは白。アクセントに水色と桃色を加えた。その3色の黄金比を見出すのに3日かかったっけ。
他のよりダントツで装飾が多く、チェック項目が多い。
きらびやかな変身の余韻を視覚化しようと、全身にふりかけたラメは落ちていないし、暗いとより活きる、マル。
首元に巻いたリボンは、先端の巻きが取れていない、マル。
右肩のみを覆ったアシンメトリーのトップスは、ツアー中に筋肉が増量したせいでパツパツしている、サンカク。肩口から袖口にかけて幅を広げよう。
スカートにも見えるパンツは、ボックスプリーツの加工がほどこされている、マル。いや、裾が床についている。転ぶかもしれない。右の丈を短くして、左にスリットを入れたほうがいいかも、サンカク。
腰に付け足したチュール生地が、プリーツと喧嘩してる、バツ。あとで取り外そう。
柄は、一切ない。その代わりと言ってはなんだが、総レースのワンピースを重ね着している。魚の尾ひれのようにうしろ側を長くし、男らしいヒップラインをカバーした。全体に透け感が生まれ、ドレッシーな雰囲気が表面化する。
うん、かわいくできてる。
物語の大分部では、もう1着のほう、ボロ雑巾のような切りっぱなしのオールインワンのパンツドレスを着ることになっている。魔法がかかったあとの仕様と比べるとあまりに質素すぎるため、デザインを足しに足したら重量がとんでもないことになった。もちろんバツ、真っ先に修繕する。
ざっと項目に印をつけ終えた。通し稽古が終わったら、点検の後半戦に挑む予定だ。
「……もう、いいのか?」
グロスの塗りたくられた唇が、おそるおそる開かれた。
「あ、うん。衣装の確認は」
「それじゃなくて」
「うん?」
彼のほうが背が高いのに、上目遣いされてるようだった。
芸能科の学級委員でもなく、アイドルのオーガでもない。弟の、凰河の目だ。
束感をつくった上まつ毛が、弱く、とても弱く、震えていた。
わたしは何を恐れていたんだろう。
そっと目元を撫でてあげ、そして、うんと深く首肯した。
「もう、いいんだな?」
「ん。ごめんね」
「いいよ、もう。なんでもいい」
ちょっと拗ねた口調ながら、わたしの手に頬をすり寄せてくる。やさしくつねれば、いじらしく睨まれた。
「バーカ」
「はいはい」
彼の口はにんまりと弧を描いている。
なんてかわいらしい弟。
わたしたちは昔からこうだった。ずっとおんなじように生きてきた。今も、何も変わらない。
ごめん。ありがとう。お姉ちゃん、遠回りしすぎちゃったみたい。
・
リハーサルは滞りなくやり遂げた。制限時間をわずかに過ぎてしまったが、大目に見てもらえた。
それから怒涛の仕上げに入った。まずは学級委員同士で集まり、改善点をまとめる。今までは顔すら合わせられなかった凰河と、対等に話し合えていた。なんともふしぎな気分だった。
クラスに戻ってからは、衣装の見直しに費やした。バツとサンカクのついた項目を重点的に調整する。よくわからないところから脂汗のようなものが出てくる。
せまく感じる教室で、午後3時になるまで、傷だらけの手をぶっとおしで動かし続けた。
明日に備え、今日は早めに帰宅するよう、先生に言いつけられている。1AGの控室に衣装や道具を移し、クラスメイトを解散させた。
生徒玄関へ歩いていく彼らを見送り、わたしはひとり、講堂へ向かった。舞台袖の広さを調べ、当日の衣装の動きを確認しておきたかった。
舞台を成功させたい。わたしにできることは、やらなければ。そう思う気持ちに、学級委員の重責が少なからず含まれている。最初のころと比べるといくぶんかマシになったものの、どうしても楽観的にはなれない性分のようだ。
講堂はがらんとしていた。
独特な、質のよい匂いが充満している。清潔にしつらえられ、全グループのリハーサルの痕跡はどこにもない。
巨大なアーチに囲われたステージは、ヴィンヤード型という傾斜した客席とほどよく距離がある。
校長が自ら彫ったという校章が、アーチの頂上に掲げられてある。その周りには金粉がふんだんに使われ、豪華に輝いている。通路の階段を下っていくと、どんどんアーチの内へ吸い込まれていくようだった。
客席最前列に、人影があった。
ヒト。人……で、合っているだろうか。人形にしては肌質がリアルだが、ぴくりともせずステージを眺めている。もろそうな背中。生きているかどうか怪しく、それが逆に神聖なように感じられた。
「カスガノ、さん……?」
まさかと思った。
痩せた首が機械仕掛けみたく回る。肩甲骨をかする髪の先が透きとおる。目尻が静かに垂れていく。
5段ほど高い位置から見る彼女は、いつになく温もりがなく、会っている実感が湧かない。これが夢だと言われたら、うっかり信じてしまう。
「冬至さん。何しにここに?」
話しかけられたと脳が理解するまで、10秒かかった。理解してからさらに10秒。あー、あの、えっと、と思わずどもってしまう。
夢じゃない。現実だ。はっきり自覚し、1段ずつ下りていった。遠くに見えた彼女に、すぐにでも近づきたかった。
「か、確認しに。本番のために、その、いろいろと」
「そっか」
「カスガノさんは?」
「マネージャーの迎え待ち」
夏休みが明けてからというもの、彼女は常に文化祭並の過密スケジュールだと、校内ではもっぱらのうわさだ。連続ドラマの主演が決まったのだとか。めでたいことだろうが、舞台の準備と重なってしまったのは、そうとうな痛手だろう。
ふつうならこれから帰宅すれば休めるが、彼女はちがう。学校と仕事の境目が、ほとんどない。
いつか壊れてしまいかねない彼女は、その実、隙がなく、こともなげにそこに在る。
いついかなるときも、きれいだ。きれいに咲きほこっている。高嶺の花と崇めたくなるのもわかる気がした。彼女ほどその尊称が似合う人はいない。
「明日は、来れるの?」
そう訊くと、「もちろん」と返ってくる。うれしい。けど、休んでほしいとも思う。
「だ、大丈夫なの?」
「うん、代役だから仕事はそんなに多くはないし。一度、裏方の仕事をしてみたかったんだ」
キョウカさん演じる魔法使いの代役が、彼女の役割だ。万が一に備え、二人三脚で役柄と向き合ってきたと聞く。
今日のリハーサルで、彼女はずっとキョウカさんのサポートをしていた。当然ながら、最後まで彼女にスポットライトが当たることはない。強烈な違和感を覚えた。そんなわたしをよそに、彼女はまんざらでもない様子で舞台を見守っていた。
多忙な彼女にはこのくらいの距離感がちょうどいいのかもしれない。出演してほしいとは、もう、強く望めなかった。
「将来は、どこかの小さな劇団で、のんびり気ままに働くのも楽しそうじゃない?」
とん、と細い体が飛んだ。軽い身のこなしで檀上に腰かけた。機嫌よさそうに瞼を伏せ、ゆらゆら足を揺らす。
そんな冗談を言うなんて意外だった。やはり、見せないだけで、かなり疲れているのだろう。
ささやかで、密やかな夢だ。十中八九、夢のままで終わる、ただの夢物語だ。
彼女の将来は、決まっているも同然だ。小さな劇団でおさまるたまじゃない。広く、遠く、羽ばたいていく。世が世なら、こんなふうにふたりきりで話すこともなかっただろう。
そう考えると、少し、物寂しい。
「あなたは?」
「わ、わたし?」
おもむろに手を差し伸べられる。
「わたしは……」
引き寄せられていく。寸前でためらい、引っこめる。それでも耐えきれず、彼女の手を取った。
そっち側へ行ってもいいのだろうか……?
ぐっと引き上げられた。身体が浮遊感に包まれる。檀上に足がついた。
「お母さんを、超えたい!」
客席全体に声が響き渡る。
見たこともない景色が広がっていた。
息が上がる。ぶわっと開いた毛穴から、蒸気を発するように力が抜け、膝が笑う。
これが、わたしの夢。はじめて言葉にした。ずっと気づかぬふりをしていた。口に出してみると、案外、怖くない。痛くもかゆくもない。ちょっとむずかしくて、勇気がいるだけ。できるできないは、また別の話。
心に閉じ込めておくよりずっと気持ちいい。羽が生えたような心地になる。
「いい夢だね」
背中をぽんと撫でられた。自然と口がゆるむ。
「お互い、現実になったらいいね」
どこまで本気で言っているのか。その言葉の実体をつかみきれず、黙りこくってしまう。あいまいな笑みを保ったままのわたしを尻目に、彼女はくすくすと吐息をもらす。
通知音が鳴った。彼女は携帯を操作し、「時間だ」と舞台上から飛び降りた。乱れた髪を耳にかける。
今の今まで彼女が座っていた場所は、すでに冷たくなっていた。
「じゃ、冬至さん、また明日」
高く高く階段をのぼっていく。影しか落とされない。そう易々と形跡を残してはくれないのだ。
ギィ……バタン。重みのある音で、夢から醒めた。




