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あなたが世界を愛さずとも  作者: 甘
おひいちゃんについて
22/43

桜前線⑵




今年の桜は例年より早く開花した。


入学式のときにはほとんど散ってしまっていて、ずいぶんわびしい景色だった。ブレザーに変わった制服の胸部分に飾られた造花だけが、色を添えてくれる。



都内にある、公立高校。偏差値60と、まあ頭のいいところで、正直受かるとは思っていなかった。馬鹿どもともう二度とつるみたくない一心で、最後の追いこみにすべてを懸けたのが功を成した。


自分がここまでやれる人間だったとは、16年生きてきてはじめて知った。


学力は伸びたが、身長はぎりぎり160に達した程度。今後の期待をこめて制服はワンサイズ大きめに注文しておいた。それでもそれを揶揄してくるようなやつは、ここにはいない。



この世は思いのほか生きやすいようだ。





「――お、おはよう!」


「えっ?」




隣の席の子に声をかけられた。


わかっている。「おはよう」には「おはよう」と返すのがベストだ。聞き返すなんてナンセンス。そうわかっていても、すでに遅い。


新生活が始まって1週間あまり。クラスになじむにはまだ少し時間がかかる。異性とはもっとだ。


席がたまたま隣になっただけの女子とすら、これまで挨拶もろくにしてこなかった。目が合ったら軽く会釈するか、何事もなかったように視線を戻す。気まずくてたまらなかった。


それがいきなり「おはよう」だなんて、びっくりするのも無理はないのではないか。とはいえ、挨拶は大事だ、うん。




「……お、おは」


「あ、あの、ずっと気になってたんだけど」




挨拶をぶった切られたことは、この際置いておこう。


そんなことよりも……気になってた? なにを?


なにか気に障ってた? 制服がぶかぶかなこと? このブサイクな顔? あ、匂い? 思い当たる節がありすぎる。怖い!




「もしかして、おひいちゃんのこと、好きなの?」




お……おひい、ちゃん……?


身構えていた方向とは真逆を攻められ、ぽかんと拍子抜けしてしまう。


すると彼女の顔が、かあっと赤らんだ。




「あ……ち、ちがった? いつもそれ飲んでるから、もしかしてって思ったんだけど」




それ、と指すのは、ぼくの手元。ピズフルのペットボトルだ。あの日以来、毎朝これを買うのがルーティーンになりつつあった。味は気分で選んでいる。ちなみに今日は、はちみつレモン風味だ。


ラベルは通常版のも売っているが、ぼくはいつもこの特別仕様の、春日野妃希とのコラボのものを手に取っている。


理由は、単純明快。




「おひいちゃん――春日野妃希ちゃんのこと、好きじゃなかった……?」


「す、好きだよ!」




もはや反射に近かった。紡がれたその名前に飛びつくように立ち上がり、腹の底から声を出していた。


好きだ。「好き」自体がぼくの原動力となっていた。



周りから好奇の目を向けられ、ここが教室の真ん前だったことを思い出した。しゅるしゅると身を縮こませる。


あああ、告白みたいになってしまった……! 穴があったら入りたい! ていうかいっそ掘りたい! 掘らせてください!


ふふふ、と笑いが聞こえる。赤みのだいぶうすれたほっぺを肥えさせ、彼女は嬉々として喉を震わせていた。上品で、かわいらしくて、ちっともいや気はしなかった。




「やっぱり。だと思った」




彼女がカバンから取り出したのは、手のひらサイズのピズフル、なつみかん風味。




「わたしもなんだ」




天啓の示されたラベルが、ぼくを見てきらめいていた。




隣の席の彼女は、南雲 稜花(ナグモ リョウカ)という。


華やかな名前にしては、さっぱりとした顔立ちをしている。それはけっして悪い意味ではなく。薔薇より白百合、醤油より塩、赤よりピンクが似合いそうな人だった。


ぽってりした一重の瞳は笑うとなだらかに垂れ下がり、茶髪のボブはふんわりと跳ねると甘やかな花の香りがする。


やさしい人なんだろうな、と思う。


あらためて自己紹介しようとすれば、「カズノリくん、だよね?」とぼくの名前を間違えず覚えてくれていた。




「一紀くんはどうしておひいちゃんのこと好きになったの?」




昼休み。ランチを誘ってくれたのも、彼女、稜花さんだった。


机をくっつけ、弁当を広げて「いただきます」と食べ始める。オタク仲間とはいえ、まだ緊張があった。


おひいちゃんというのは、春日野妃希の愛称らしい。所作がきれいで、気配りもでき、齢16にして人間としてできあがっている彼女に、ファンが最大限の敬意を払い、名前のはじめに接頭語の「お」をつけた。あとは響きの良さで、今の形になったのだという。




「ぼくは、ピズフルのCM」


「ああ、あれか! いいよね。あのアオハル感」


「うん……。一目惚れだった」




今でもたびたび思い返す。あのときの衝撃は一生忘れられない。


どれだけ濡れても、汚れても、彼女自身はずっときれいだった。強かろうが、弱かろうが、きっと変わらない。


そばにいるのに触れられないような。そんな、恋しさのようなものが、ぼくの弱いところをぎゅっとつかんで離さなかった。




「知ってる? 今、雑誌とコラボしてるんだよ」




先生には内緒ね、と机の中から1冊の雑誌を引き出した。学校に関係ない娯楽の品は、もれなく校則違反だ。入学早々ルールを破る強者だとは、意外すぎる。


本日発売で待ちきれなかったのだという言い訳に、100%の共感を覚えた。それならば仕方ない。


chay(チャイ)』という名の雑誌の表紙には、ピズフルのペットボトルを頬にくっつける春日野妃希――おひいちゃんがいた。笑っているようにも、泣いているようにも見える。表紙の面に加工されている水滴風のラメが、一瞬、本物の涙かと思った。




「か、かわい……」


「ねっ! かわいいよね!」




はしゃぐ稜花さんに、ぼくはいちだんと笑みを深めた。




「わたしはね、雑誌がきっかけだったの。この姉妹雑誌の『milky』っていうファッション雑誌に読者モデルとして出ててね、すんごくかわいくてびっくりしちゃったの」


「古参ってやつだ」


「ふふ、うん、そうかも」




モデルの仕事はよくわからないけれど、読者モデルというとそうとう昔、駆け出しのころから見守ってきたのだろう。心底うらやましい。


のちに専属モデルとなり、高校進学と同時に『milky』を卒業。女優業に専念するようになると、大企業の看板商品の広告塔や月9ドラマのヒロインなど数々の大役を任されるようになり、彼女は一躍ときの人になった。


こうして雑誌の表紙を飾ることも別段めずらしくはない。が、『chay』とピズフルのコラボを実現できたのは、モデルのころの縁だけでなく、彼女の人望と実績があったからこそにちがいない。




「こんなに有名になって、ちょっと寂しいくらい」




稜花さんの眼差しは、まるで母のようだった。ずっと見守ってきたひよこが、大きな空へと羽ばたき、巣立ってゆくのはうれしい反面、切なくもある。


自分だけが知っていたかった特別感と独占欲は、ひとたび生まれてしまえばどうにもできない。けれど、やっぱり、認められることはうれしいのだろう。でなきゃ、ぼくと一緒にはしゃげないはずだ。




「本当に好きなんだね」


「うんっ」




稜花さんはあどけない子どものように笑ってうなずいた。




「はじめて見たときから、ずっと、おひいちゃんが理想の女の子なの。遠い存在になるのは寂しいけど……大丈夫! 理想なのは変わらないし、それに……有名になるべくしてなった気がするから」


「なるべくして……」




なんとなくだけどね、とふにゃふにゃした口ぶりで付け足し、眉を下げた。


まだまだにわかなぼくには、その感覚はぴんとこない。ただ、すごい人だってことは、ド素人でもわかる。それ以上に言語化できないのが、ひどくもどかしい。


ミニトマトを頬張った彼女は、恍惚として続ける。




「『SIESTA SPECIAL』を観て、才能ってこういうことなのかなって思ったんだよね」


「あっ、それ、ぼくも観た!」


「観た!? あれほんとすごいよね!」


「無印未修だったけど余裕で魅入ってた」


「わかる! わたしもそうだった!」




お互い、自然と早口になっていく。比例して、熱量も、心拍数も上がっていく。




「だんだんギア上げていく展開とか」


「わかる!」


「怒涛の伏線とか」


「わっかる!」


「不自然さ一切ない演技とか」


「わかる~~~!!」


「よかったよね」


「うん、わかる……! よき!」




彼女の小さな頭がぶんぶん上下に振られる。乱れた髪の毛から覗く耳は、興奮のあまり紅潮していた。




「一紀くん、あれには気づいた? あの……」


「セイラの正体?」


「そう、それ!」


「全っ然わかんなかった」


「だよね、わたしも。途中あれ? って引っかかったとこはあったけど、まさか、そんなわけないって思ってた」




おひいちゃんの演じたセイラという少女は、実に奥が深い役柄だった。あるときは画をあでやかにし、またあるときは物語をかき乱す。ドラマのキーパーソン的ポジションであり、作中でも現実でも多くの心を惑わした。


主役の次くらいにむずかしい役なんだろうと、演技経験がないぼくでも想像がつく。そんなセイラを見事に演じ切った彼女が、その年、名誉ある最優秀助演女優賞に選ばれたのは、おそらく必然であり、誰もが望んでいたことだった。




「予想外の連続だったよね」


「ほんと、みんな天才。すごすぎる」


「あ、予想外といえば。ねえ、海辺のシーン憶えてる?」


「あの、最初の、3人のところ?」


「そうっ! そこの最後のほう、アドリブらしいよ」


「えっ!? まじ!?」




言ったあと、あっ、と口に手をやった。最初の緊張感はどこにいったんだ。ぼくのほうが興奮しちゃってる。肩をすくませれば、「まーじ」と彼女はニヤリと含み笑いした。




「SNSに対談動画が載ってたんだけど、そこで監督が話してたの」


「へ、へえ……アドリブか……」


「ふつう気づかないよね。わたし、あとで見返したけど、それでもアドリブだとは思えなかったもん」


「すごいな……」


「動画ではね、特におひいちゃんが絶賛されてて。最後にした手の動きが、手話で『おやすみ』って意味だったんだって」


「手話!? アドリブで!?」


「そう。やばいよね」


「やばいねそれは」


「監督も脱帽したらしいよ。台本にない伏線をさらっと入れるなんて、並大抵にできることじゃない、って」




ただでさえ伏線の多い作品だった。1文字単位までこだわり抜き、放送に使われなかったシーンを含めすべて手のこんだものだっただろうに、どういう思考をしていたら完成形を超越する発想が出てくるのだろう。それを実際に表現できてしまえるのもすごい。あ、また、すごいって言っちゃった。


偏差値60までなんとかのぼり詰めても、到底手の届かない場所にいる気がして、鳥肌が止まらない。たぶん脳の構造からしてちがうんだと思う。



喉が渇いた。フルーツジュースを風呂上がりのように豪快に飲んだ。レモンの酸味が鼻を抜ける。




「あのドラマを観たら、否が応でもおひいちゃんの才能を見つける……ううん、見せつけられた。すごく、感動したんだ」




彼女のアルファ波に落ち着きが戻る。慎重に言葉が乗っていく。




「前からウェブドラマとかミュージックビデオとかには出てたけど、モデルしてるおひいちゃんばっかり見てきたから、なんていうか……そっちの世界の人なんだなあ、って。……伝わる?」


「うん、わかる。伝わってるよ」




近いようで、遠い。きっと、はるか先に行ってしまう人。


彼女のことは知り得ない。街中で見かける機会が多くなろうが、ドラマを何周しようが、本当に、何にも知らない。


知りたい。知って、もっと愛したい。どんな些細なことも、すべて。


そう願うことすら、ときに悪になり果ててしまう世界に、彼女は、いる。




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