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あなたが世界を愛さずとも  作者: 甘
おひいちゃんについて
21/43

桜前線⑴




2年前。


その日はとにかく散々な一日だった。





一度運に見放されると、とことん恵まれないものだ。



通り雨に降られ、靴を踏まれ、髪はうねり、教科書は濡れ、ズボンの裾は汚れ、さらには、何か月もともに過ごすクラスメイトに名前を間違えられた。イッキって何だ。ぼくの名前はカズノリ。秋柴 一紀(アキシバ カズノリ)だ。


あげくの果てに……。


ポケットから新しく買ったばかりの財布を取り出す。艶めいた皮には引っ掻いたような傷がいくつも刻まれ、小さめの長方形だった形はぐにゃりと変形している。うすっぺらくなった財布を開けば、100円玉ひとつ、50円玉ひとつ、1円玉みっつ。中学生という身分にしたって、悲惨な中身だ。


本当はここに3000円入っていた。それで参考書と小説を買おうと思っていた。


学校のいわゆるガキ大将に絡まれたら最後、カバンを投げられ、財布を奪われ、金を盗まれる始末。ガハハと耳障りな愚弄が、今でも耳に残っている。


ムカついたし、それなりに抵抗もした。無駄な足掻きだった。学年で一番図体も態度もでかいアイツには敵わない。


ぼくは学年で一番背が低い。この冬を越えたら高校生になるというのに、160にも満たない。そのくせ力も弱く、気が小さい。オンナ以下だなとアイツにからかわれた。



知ってるよ。


だけどさ、それとこれとは別じゃんか。人にされていやなことをしてはいけませんって、小学校で習っただろ。忘れたのか、鳥頭め。


ぼくの金は、父さんと母さんがあくせく働いて稼いだ、大事な金なんだよ。返せよ。嗤うなよ。なんでこんなことするんだよ。



ぼくが弱いからいけないのか。弱者には何をしてもいいってか。


それが悪だと思うのはぼくだけなのか。



みんな、そう思っているのか……?




『――強く、なくてもいい』




天からのお告げかと思った。


どこかあきらめたような、けれどそっと背中を押すような、ふしぎな声。文字どおり頭上から降ってきた。



引き寄せられるように顔を上げる。


街頭ビジョン。ひとりの女の子が映っていた。


色白な顔が画面を占める。あんなに近くても毛穴ひとつなく、パーツはどれも左右対称で、非常にリアルな彫刻のように見えた。


黒く輝く右目から一筋の涙が流れた。と同時に、画面の表面に水滴がつく。ぱらぱらと落ちる雨の演出により、あの美しい顔も必然的に濡れてしまう。


涙がきれいじゃなくなる。雨を装った雫と混ざり合い、不透明に霞んでいく。




『きみは、きみだから』




風が吹いた。水分を吸収しすぎたせいか、顔横にぺたりとはりついていた髪が、一瞬にしてさらさらに乾き、爽やかさの香るようになびく。


目元の水気も拭い取ると、フォーカスが変動する。画面全体に奥行きが出る。女の子の全身が映された。青色のセーラー服をまとっている。


女の子は力強く地面を蹴った。昼と夕方の間のような淡く澄んだ空に向かって走っていく。


ふと立ち止まる。ペットボトルのキャップを開け、ぐっと飲んだ。


ぼくのほうを見向きもしない。清々しさのある面持ちで、向かい風に黒い髪を委ねながら、空の色彩に横顔のラインを透かしていた。




『きみのそばに、ピズフル。学生支援キャンペーン開催中』




バックに流れた女の子の声らしきアナウンスに、通りすがりの女子高生が声を上げた。




「あっ! ピズフルのCMだ!」


「妃希ちゃんだー! かわいいー!」


「あの子、ホシヨルに出てる子だよね!」


「昨日のドラマ観た? やばくない!?」


「わっかる! めっちゃどきどきした!」




……ヒサキちゃん? ホシヨル?



そういう世界には疎く、さっぱりわからない。かろうじてわかるのはCMの宣伝する商品くらいだ。


ピズフルとは「peace and fruity」の略称で、おだやかな日常に豊かな味を、というコンセプトをもとに作られたフルーツジュースのオリジナルブランドである。豊富な種類と後味のすっきりさが人気で、長年愛されている飲料のひとつだ。


新調されたCMは、はじめて観た。イメージモデルが変わったのだろう。ほどよい香りと独自の製法で作られた爽快感を、10代ならではの青春と重ね合わせつつ、キャンペーンの特色もよく表せていた。



それにしても、あの女の子は誰だったんだろう。



気づいたらコンビニに寄り、気づいたら飲料コーナーの前にいた。この店舗では全6種並んでいたと思しきピズフルの列は、ラスト1本を残し、すっからかんだった。


人気ではあるけど、これほどだったっけ? あ、もしかしてさっきのCMの効果かも。ぼくみたいな奴が何人もいたんだきっと。


その最後のペットボトルを手に取った。いちごヨーグルト風味のものだ。ラベルはキャンペーン用のものなのか、飲料名の反対側に、誰かの直筆メッセージが載っていた。




『強く、なくてもいい』




さっきの、天啓だ。


じゃあ、それなら、これはあの女の子が書いたのだろうか。トメハネハライを意識した「強」と、柔らかさを孕むひらがなの形。きれいな人の書く字面だ。あの子が書いたにちがいない。きっとそうだ。


所持金、153円。よし、買える。



ぼくはすっかり盲目だった。




帰宅してすぐ取りかかったのは、ラベルの保管。使う機会のなかった写真立てに、慎重に挟み、机の真ん中に飾る。丸裸になったペットボトルは、これからの作業のお供として味わうつもりだ。


宿題はあと、学ランもあとで脱ぐ。濡れた教科書を乾かすのも、全部全部あと回し。自分でもこの突飛な行動にドン引きしていたが、そうしてもいいのだと、ぼくの中のナニカが豪語していた。


パソコンを開いた。いちごの香りに酔いしれながら、検索フォームに『ピズフル CM ヒサキ』と打ちこむ。秒で答えが出た。




「かすがの、ひさき、ちゃん……」




春日野妃希。漢字の並びもなんてきれいなんだろう。




「ええっと、なになに? 年は、16? ぼくのいっこ上じゃん! モデル出身の女優で、現在、月曜夜9時に放送の『星のない夜』にヒロイン役として出演中……?」




星のない夜……。ホシヨルと言っていたアレのことかな。


月9のヒロインって、そうとうすごい人なんじゃないか? 今まで無知だったことが急に恥ずかしくなる。



どうしてぼくは、この人を放っておけたのだろう。



サイトを下ると、他の出演作品も出てきた。


『SIESTA SPECIAL』


よくある探偵もののミステリードラマのようだ。


昨年の年明けに放送されたものを、テレビ局がオフィシャルで無料公開していた。監督が『星のない夜』と同じなため、再タッグを記念し、最終回放送日までの期間限定で動画アプリにアップされているようだった。



一も二もなく視聴した。


題に「スペシャル」とついていたとおり、連続ドラマの続編であり、もちろん未視聴で臨んだぼくだったが、最初にざっと振り返りやらあらすじを紹介してくれたおかげで存外楽しめた。


15分ほどして春日野妃希が登場した。これまでの事件の匂いや事務所のほのぼのコメディ感からガラリと一変させる、優雅で、神聖な、海風を受けた独り歩き。それからゆるやかに、けれども鮮烈に、違和感を目覚めさせていく。



すごかった。すごい人だと思っていたけれど、もっともっと、すごくすごい人だった。


教会で黒幕が明らかになったときにはもう、フルーツジュースは一滴たりとも残っていなかった。




『逃げることを選んだこと、それを導くことも、許されないことなのでしょうか。裁かれるべき人間は、ごまんといるというのに』




胸が昂った。


世の中、そう捨てたもんじゃない。運命は、本当にあった。こんなところにあった。やっと、見つけた。


今日、そして今まで、ツイていなかったのは、このときのためだったのだ。そう思うことにする。


ぼくは今、まちがいなく、世界で一番幸せだから。









「よお、秋柴クン」




翌朝。生徒玄関で上履きに履き替えていると、ガキ大将とその取り巻きと鉢合わせてしまった。



くそ……。いいところだったのに。


脳裏では昨夜3周ほどしたドラマを再生させ、クライマックスでの、子どもを救出すべく炎の中に飛びこんでいったセイラの生存ルートを、妄想というすばらしい財産で補完していたところだった。


あとちょっとでハッピーエンドってときに、ぼく自身がバッドエンドになるなんて、とことんツイてな――いや、いいや! ぼくはもう昨日までとはちがうんだ。




「昨日は金くれてありがとな。ゲーム代にちょうどよかったぜ」


「……なんだよ、そのブス面。まさか返せとか言わねえよな?」


「言わねえっていうより、言えねえだろこいつは! 今日もくれんじゃね? アハハ!」




3000円。あの大金を奪われなければ、フルーツジュースをあと何本買えただろう。そもそも1本しか売っていなかったけれども。何店舗かめぐれば、何十倍もあの子に、妃希ちゃんに、貢ぐことができた。


ぼくは、怒っている。


財布はいまだに歪んでいるし、お金は戻ってこない。それになにより、物理的にも、精神的にも、ひどく見下した態度がきらいだ。自分でつけた傷の責任もとれない大馬鹿野郎どもが、だいっきらいだ。



だから、ぼくは――。




「おら、財布出せよ」


「昨日より多く持ってきたんだろうな?」




一歩近づかれ、反射的に一歩退いた。




「なに? また抵抗する気か?」


「……っ」


「やめとけって。チビは黙って従ってればいいんだよ!」




伸びてくる、ガキ大将の手。下品で汚い嘲笑。


ぼくは思いきってカバンを振り回し、その手を叩き落とした。


笑い声がぴたりと止む。




「は?」




怖くないし。従うなら、大好きな人の言葉がいい。




「てめえ……今、何しやがった!」


「う、うわあああ!!!」




逃げる一択!



全速力で走った。無意識に叫び声を上げていた。喉が痛い。カバンが重い。朝っぱらから何をやってるんだろう、ぼくは。


追手が迫り来る。鬼の形相で「待ちやがれ!」と殺気を飛ばされる。うるさい、うるさい!


ぺらぺらな上履きでひんやりとした廊下を殴りつける。本来は静かで心地よいはずの朝の空気に、ほこりが舞い、荒んでいく。


職員室の前を通り過ぎた。スライド式の戸がかすかに揺れた。




「秋柴ァ! いい加減に……」


「いい加減にするのはおまえたちだ!」


「あ……! センセ……」




角を曲がった瞬間、静けさが戻った。階段の手前から覗きこめば、職員室を過ぎる手前あたりでガキ大将どもが先生に捕まっていた。風紀に厳しい教頭だ。苦しまぎれにぼくの名前を挙げたようだが、取り合ってもらえない。


つきが回ってきた。


とたんに足腰が脱力する。もう限界だった。隅っこで丸くなり、カバンを抱きしめる。表面に硬い感触がある。昨日ラベルを入れた写真立てだ。なんとなく持ってきていた。


四角い形を撫でるように手を添える。


あぁ、彼女の言うとおりだった。強くなくてもいいんだ。逃げてもよかったんだ。すごい。ほんと、すごいや。




「……っし!」




ぐっと拳を握り締めた。歯を噛みしめ、口角を最大限に押し上げる。つぶれた目元に熱が集まる。整いきっていない息を押し殺しても、白い霧が立ちこめた。



また、ぼくは、ぼくに胸を張れる。




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