天地
午前7時54分。
寸分の狂いなく到着した電車から、押し出されるようにホームに降りた。濁りを帯びた人の波は、改札口を出るまで続く。
いつもならうざったく感じるが、今日は都合がいい。歩く意思がなくたって勝手に流れていくし、生気のない顔をしているのはぼくだけじゃない。
狭い柵を通り抜けてしまえば、駅の広い構内に波が分散していく。とはいっても利用者数随一の駅の中は、変わらず混みあっているのだが。わずかながら隙間が生まれ、圧をかけられなくなると、たちまち速度が遅くなる。
歩けているだけえらいと思う。
憂鬱な月曜日。最悪な時間割。手につかない宿題。健全な高校生ならこれだけで行く気を失くす。加えて、今のぼくには、元気がない。気分とか意欲とかの生半可な域ではなく、ガチで、真面目に、体調不良なのだ。
本当は休みたかった。おとといの晩から布団にくるまり引きこもっていた生活を、今日も続けていたかった。
世界のすべてを遮断しなきゃ耐えられない。
なのにちゃんと朝起きて、指定のブレザーを着用し、春休みまで残りわずかの登校日に、こうして人ごみにもまれながら通学している。えらい。えらすぎる。
……動機は不純だけれど。
「あ、春日野妃希じゃん」
ぼくを追い越したサラリーマンが、ぼそっと呟いた。乗り換えまでの道の途中、細長い壁の一面に興味が向けられる。
過ぎたホワイトデーの広告だ。ふんわりと巻かれた黒い髪の少女が、白と茶色の溶けあうハートを抱え、ほほえんでいる。
昔から根強い人気のあるキャンペーン広告であるがゆえに、ファンの要望に応じて、対象期間が過ぎたあとも延長して掲示されることが多く、今回もまた、少なくとも1週間はこのままの予定だった。
足を止める人が多いなか、彼はその程度なのだろう、すぐに前を向き直した。ぼくはそういうわけにはいかない。通学なんか二の次だ。
このためにがんばって来たのだ。
どうせ外に出るなら、せめて、会いたかった。
あぁ、ぼくの推し――おひいちゃん!
「おひいちゃん、どうして……っ」
「うう……無理……」
ざっと30以上の同志がいた。天使の現身のごとく彼女を、涙ながらに写真フォルダに閉じこめている。
男女比は半々。妃希ちゃん、セイラ、ホシヨルの子。統一性のない呼び方をする、にわかやミーハーなファンも多かった。
それでも、心はひとつだった。
『春日野妃希 電撃引退』
その見出しがトップニュースとして出回ったのは、ついおとといのこと。
その発表のあった映画の試写会に、ぼくは、いた。
かのイベントは、中高生を対象に50人限定という、狭き門だった。ほぼ無理ゲーと言われたプレミアムチケットを正規のルートでもぎ取ってみせたのは、ほかならぬ推しへの愛と執念の結果だ。推しを生で拝められるし、主演映画も堪能できる。天にも昇る気持ちだった。
どん底に墜落したのは、本当に突然だった。舞台挨拶の終わりに、堂々と、彼女の口から、引退の表明がなされたのだ。
騒然とした劇場はブラックアウトし、なあなあの雰囲気のまま映画が始まってしまった。頭に内容が入ってこなかった。けれど、あるワンシーンだけ、妙に焼きついて離れなかった。
『わたしのこと、知らないくせに。なんで好きになれるの』
『知ってるよ!』
『っ知らないんだよ!!』
遠のく彼女に寄り添うように、挿入歌である夏凪音の新曲『染色』が奏でられた。変わりゆく少女の心を繊細に歌い上げ、偶然とは思えないセリフを引き立てていて、ぼくは思わず泣き崩れてしまった。
思い出しただけでも泣けてくる。昨日おとといと号泣し続け、とうに目は赤く腫れているのに、簡単に水分を奪われる。
彼女のこと、自分なりに知っているつもりだった。
なんでも調べ、観て、愛し尽くした。
けれど、何も知り得なかった。
なぜ、どうして、引退したのか。
あのとき、何を感じ、考えていたのか。
想像もつかない。
しょせん、ファンのひとり。知りたくても、知れないことなどありふれている。わかりきっていたことだ。それを今さら悔いても、どうしようもない。
ぼくの推しは、生きがいは、もうここでしか会えない。その最後の砦さえ、なくなってしまうけれど。
今日、彼女の広告が撤去されるのだ。
元よりこの広告を最後に契約は満了の予定だったと、ネットニュースで知った。他のCMや広告も同様で、突然の引退でありながら賠償金は発生せず、事務所にも企業にもリスクがない。彼女がどれだけ前から引退のために動いていたのか、いやでも思い知らされた。
だけど、ぼくたちファンは黙っちゃいない。大人の事情も、芸能界のいやらしい話も、どうだってよかった。
ホワイトデーの翌日に例の発表があったため、悲しむより先に企業に依頼した。
広告の撤去を先延ばしにしてくれ、と。
彼女の広告が出ると決まったときから、1週間以上の掲示を望んでいたが、契約満了となると話は変わってくる。あらためて依頼する必要があった。数時間で1000を超える署名を集め、提出した。別れを惜しみたいという建前で、駄々をこねたのだ。
その要望が通ったのは、おそらく、彼女がとても愛されていた証だろう。
しかし、事務所側がそれを許さない。たった2日の猶予を持って、本日撤去が決定してしまった。
批判はあったものの、彼女の痕跡を残すまいとする大人たちもまた、彼女を想っていることはなんとなくだけれど理解している。
たしかに多くは知らない。でも、ファンだからこそ、感じられたこともあったんだ。
さよならなんて言いたくない。
信じたくない。……何日過ぎても、信じられっこない。
「えっ! ねえ! ちょっと!」
「な、何、これ……」
携帯のカメラ機能を惜しみなく駆使していた女子高生2人が、突然、高々と上げていた携帯をぎょっと目に近づけた。
「うそ、まじ……?」
「おひいちゃんが、虐待?」
ギャクタイ……?
ざわっとこの場を冷気が突き抜けた。シャッター音や涙声が一瞬にして消え失せる。春の陽気など忘れられた沈黙は、あの、記憶に新しい劇場での出来事を彷彿とさせる。
電車が発車したのか、振動が伝う。
めまいがする。吐き気もする。立っているのがやっとなのに、ぼくの手は震えながらも携帯を操作していた。正気じゃなかった。
『春日野妃希 父親から虐待』
ひしめくSNSの至極わかりやすいところに、わかりやすく載っていた。引退の2文字で埋まっていたスペースが、さらに不穏な単語に上書きされている。
ついに足の筋肉が限界に達した。膝から崩れ落ち、清潔とは言いがたい地面にへたれこむ。電子的に打ちこまれた、いとしい彼女の名前の上に、ポタリ、涙がこぼれた。
「こんなの、まるで、悲劇のヒロインじゃん……」
誰かの声がいやに響く。
悲劇のヒロインという表現は、皮肉でもフィクションでもなく、正真正銘の事実であり、同情であり、それでいて無力な愛だった。
なぜ、どうして、と必死に問いかけた答えは、これだったのかと、自分を納得させようとしたけれど、やっぱり無理だ。秘められていた事実はあまりに重く、苦しく、病んだ身体では受け止めきれない。
おぼろげな視界を埋める、世界で唯一の推し。
手を伸ばすと、つなぎ姿の大柄な男に突き放された。撤去作業を依頼された業者の人だ。
いやだ。
いやだ……!
虚像でもなんでもいい。彼女のそばにいたい!
そう抵抗するも、無情にも引き剥がされた。
広告が取り外されていく。幸せそうに写る笑顔に、暗い影が落とされる。
そうして、今度こそ本当に、彼女はこの世界からいなくなった。




