第232話
合図と同時に、俺はリズムを刻みながら構えを取る。ボクシングのオーソドックスなスタイルだ。
この構えを選んだのには、勿論意味が有る。相手の意識誘導を兼ねた、今からお前と拳で殴り合うぞという俺からの意思表示だ。例え故郷の拳闘という競技に知見が無い異界人であろうとも、俺が何をしたいのか。此の構えを見れば一目瞭然だ。
対するメスゴリラは半身になった俺と違い、前後に大きくスタンスを拡げると、まるで飛び掛かる寸前の獣の如く背を丸め、俺と真正面で向き合いながら両拳を面前まで持ち上げる。
事前の予想とは異なり、メスゴリラは猛然と俺に突っ掛かって来ることは無く。互いの立ち位置の中心を軸に双方円を描くように動きながら、俺は慎重に間合いを測る。
さて、どうすっかな。勿論今から目の前のメスゴリラをシバくのだが、シバくとは言ってもマジで血塗れのフルボッコにする気は無い。何方が勝っても遺恨は無しと口約束こそ交わしたものの、実際にそんな事態に陥ったら鎧軍団に何されるか分かったモンじゃねえし。なので出来るだけ怪我はさせずに、伸び切った鼻っ柱を綺麗にへし折る程度で済ませてやるつもりだ。まあ出来るだけ、だが。
俺は緩やかに立ち位置を移しつつメスゴリラからの仕掛けを待つも、ゴリラはヤる気満々な目と表情に反して尚も動く気配が無い。ふむ。
来る気が無いなら、此方から行くぜ。
俺は脳内で思考をブン回しながらも、円の軌道を徐々に狭めて間合いを潰し始める。リーチは圧倒的にゴリラに分がある。流石に手の届く間合いでお見合いするタマでは無いと思うが、果たしてどれ程のモノか。と、考えたその時。
「グォオッ!」
ゴリラの右拳。中々に、鋭いっ。俺は軽くスウェーしながら打撃に右掌を当てて威力を殺し、斜め後方へステップして再び距離を取る。
あの距離感で届かせるか。思いの外ゴリラの間合いが遠い。それに繰り出された一撃は想定より鋭く、身体に馴染んだ淀みの無い動きだ。
俺はメスゴリラの評価を、一段階引き上げた。騎士団を自称するだけあって、どうやら組打ちの鍛錬も抜かり無く積んでるみたいだな。
「ウォオオッ」
一旦距離を取る俺に対して、ゴリラは豪快な踏み込みで間合いを詰めると、矢継ぎ早に拳を繰り出す。対する俺は足を止め、打撃に掌底を当てて丁寧に捌き、また頭と上体を振って躱す。脆い裸拳を当てに行くにも拘わらず、随分と思い切りが良いな。
見に回った俺は、尚も打撃を捌く、捌く、捌く。捌きながら威力、距離感、溜め、フェイント、足捌き、アングル、癖。着実に咀嚼し、ゴリラの攻め手を丸裸にする。まぁ言うは易し。完全に打撃を見切るには、あと幾らかは手数が欲しい。
「貴様ぁ!何時までコソコソ逃げ回るつもりかあ!」
激しく攻め立てるも一向に有効打を決められない事に焦れたのか、メスゴリラが拳を振りながら憤怒の表情で吠えた。
いや、だって殴ろうにも届かないんだもの。リーチの差って侮れない処か、打撃戦じゃ途轍もないハンデなんだぜ。真っ当な人間ならな。
に、してもだ。俺はパリングと上半身のムーブに加えてフットワークを織り交ぜて打撃を捌きながら、脳内で電気信号を奔らせる。
此奴は確かに高慢ちきで口が悪く、非常にムカ付くメスゴリラではある。しかし俺の体感で汲み取った正味の力量は、以前何処ぞの街でぶちのめしたあの二人組の女戦士よりも、少なくとも二枚は上手だ。例え恵まれた体格を加味したとて、恐らくは人外ならぬ唯の女の身で此処まで練り上げるとは。並大抵の気概と研鑽では到底成し得ない筈だ。いや確かにムカ付く。ムカ付くのは変わらんけど、其処だけはチョットだけ敬意を払わざる得ないぜ。
傍から見れば、ゴリラの猛攻に手も足も出ない様に見えるだろうか。しかし俺は既に、ゴリラの打撃を凡そ把握した。軽快なリズムを刻みながら、ヘッドムーブやボディワーク、そして距離感と体重移動を意識した細かいフットワークを駆使して余裕を以って連撃を躱し、逐次無駄な動きを削ぎ落す。拳から汗を滴らせ、身体から湯気を立ち昇らせるゴリラの打撃は、次第に俺の身体に触れる事すら覚束なくなる。
其れに伴い、メスゴリラの表情が徐々に変化を帯びる。怒りから焦り、そして遂に見え隠れし始めたのは、恐怖の色だ。漸く気付いたか。彼我の実力差に。ならば全て絞り尽くして、死に物狂いで来い。全宇宙の童貞諸兄の怒りと悲しみと、ほんのチョットだけ抱いた敬意を込めてキッチリと沈めてやるぜ。
俺はゴリラの右ストレートを肩で弾くと、ステップインで体が開いたゴリラの懐の内に飛び込んだ。此処からは俺の距離だっ。てオイ貴様、一体何だ其のツラは。
見上げた先に在ったのは、歪んだ負け犬のツラ。コイツもう完全に勝負を投げて、諦めてやがる・・減点だっ!
俺はあっさりと腑抜けたメスゴリラの肝臓レバーに、強烈な左フックを捻じ込んだ。
「げはぁっ」
右上腹に重い一撃を受けたメスゴリラの顔から、大量の汗粒が飛び散る。口から吐瀉物を吹き出したゴリラの身体がくの字に折れ曲がり、互いの顔が僅か10cmの至近に迫る。
「おい、腰抜け。此のまま死ぬか?さもなくば、最後まで喰らい付いて見せろ」
俺は屈辱と恐怖に濡れるゴリラの瞳を目力を込めて睨み付けながら、小声で囁いた。さて、どう出る。
「うぉおぉぉっ!」
次の瞬間。バリバリと歯を食い縛ったメスゴリラは、崩れ落ちそうな身体をド根性の踏ん張りで支え切った。そして火を吹くような咆哮と共に、打ち下ろしの右を振り抜いた。其れは決して及び腰でも捨て鉢でも無い、今迄で最高の一撃だ。
良し。俺は頭を振って強打を躱しざま、タイミングを合わせてガードの隙間に右の縦拳を滑り込ませる。完璧なカウンターが決まり、ゴリラの顎がハネ上がる。そしてほぼ同時に、トドメのロングフックがゴリラの顎先を正確に捉えた。
激しく脳をシェイクされたメスゴリラは、瞬時に意識を喪失した。そして俺は糸の切れた操り人形の如く、力無く昏倒するゴリラの身体を両腕で咄嗟に支えた。
モーションはスマッシュだが軌道はほぼアッパーな変則ブローのカウンターも、トドメを刺したロングフックも、タイミングを合わせて当てただけである。其れでも尚、充分に意識を飛ばす事が出来た。まあ本気で振り抜いてたら、ゴリラの頭蓋骨が大変な事になってたろうが。
周囲が静まり返る中、ゴリラの腹心と思しき鎧男が此方に近付いて来た。先程俺に忠告して、ゴリラに派手にぶん殴られた男だ。
「・・・見事な手並みだ」
口にした言葉とは裏腹に、男の声色は硬い。
俺は脱力したメスゴリラの身体を足元に丁寧に横たえると、ぬるりと間合いを詰めて鎧男の懐に入り込んだ。そして我ながら絶妙なタイミングで、虚を突かれた男の手を両手で包み込む。
「彼女を手酷く打ち負かしてしまって、済まなかったな。大した怪我は無いとは思うが、コイツはせめてもの詫びだ。良ければ美味い酒でも一杯やってくれ」
数瞬の束縛から解放した鎧男の手中には、事前に備えてあった纏まった銀貨を握らせておいた。
「・・・・」
「俺達は早々に遺跡の外に戻るつもりだ。賊から救助した彼女を、一刻も早く愛する家族の下に送り届けてやりたいからな」
続けて俺は、親指でナヨ雄に背負われたガキを指しながら宣告した。謝罪、袖の下、良い人アピールの三段構えだ。軍人なら一応公権のお仲間だろうし、よもや切れて襲い掛かって来る事などあるまい。無いよな?
「なあ。貴公は一体、何者なのだ?」
すると鎧男は手の中の銀貨を見詰めながら、俺の素性を訊ねて来た。
「余計な詮索は無用。約束した筈だ」
「しかし・・・」
「其のゴ、女に此れ以上恥をかかせる気か」
「ウッ・・そうだな。済まぬ。今の言葉は忘れてくれ」
「それより賊の生き残りが、未だ此の辺りに潜んでるやもしれぬ。後の事は頼む」
さり気なくゴロツキ共の死体の後始末を押し付けた俺は、どちゃくそ格好良くポーズをキメながら、鎧男に背を向けた。
しかし結果的に中々に有意義な喧嘩だったな。童貞宇宙兄弟の事はさておき、常人相手に手心の実践が出来たのは非常に有益だ。何なら今後もああいう手合いが相手なら、売られた喧嘩を積極的に買うのもアリかもな。




