本幕 其ノ八
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
大店の商家などが並ぶ紅谷町の中央に店を構えている、呉服問屋の吉田屋。
一年の売り上げが千両を越えるその大店は、先代店主である吉田道宗が一代で築き上げたのだが、その土台となったのは法外な高利貸しや賭場の開帳、盗品や人身の売買等の悪行だったというのは衆目の一致するところだ。
吉田は機嫌がいい時は豪放磊落で、気風がよく、何を頼んでも笑いながら首を縦に振り、それにかかる金に糸目をつけなかったが、一転して虫の居所が悪くなると、取るに足らぬ事で激昂し、時には刀を抜いて問答無用で斬りつけた。猜疑心が強くなったのは晩歳に足を踏み入れた頃からで、報奨金という紐のついた密告を奨励し、監視の目や耳が得に厳しかった吉田屋内は監獄と呼ばれた。
その吉田を隠居させて店を継いだのが、長男の宗太だ。
宗太は幼い頃から趣味の勉学に励み、通っていた著名な私塾の師から秀才と称されたが、それとは縁のない世界で生きた吉田の評価は得られず、むしろ小賢しいと疎まれた。やがて吉田が目に入れても痛くないほどに溺愛していた腹違いの弟の宗次郎との間柄が悪くなったため、十四歳を迎えた春先に、吉田屋から無一文で追い出された。
それから十年後に紆余曲折を経て吉田屋を継いだ宗太は、まず悪行に携わり甘い汁を啜っていた番頭や手代たちに暇を出すと、賭場の香具師たちには如何様をなくすようにと命じ、その利益の大部分を事件や事故の被害者に見舞金として、そして町会の催物の際には寄付として包んだ。
評判を金で買っていると嘯く者たちの声を無視し、驕らない態度で町人と接すると、なかなかの好成年だと評されるのにさほど時間はかからなかった。
宗太は月に一度は吉田の様子を見に大原町の屋敷を訪れた。珍しく客人が来てくれたと無邪気に喜ぶ吉田の相手をするのだが、吉田が折に触れて珠を宋次郎と呼ぶたびに、眼に困惑の色を浮かべた。
宗次郎と珠は他者であり、その外見は似ても似つかぬ様だ。
それにも関わらず吉田は珠を唯一の愛息として認識しており、その経緯を知っているからこそ、どうしていいか分からないのだろう。
「日が暮れる前に着きましたね」
吉田屋を前に、櫻良がのんびりとした口調で言った。
西方の空から注がれる陽光が尽きかけていた。小半刻も経たぬ内に陽が落ちる。
それは鎌鼬に怯える者たちにとっては暗澹たる半日の合図に違いない。
珠は労うように櫻良の頭を撫でる。
「今日はもうゆっくりしてなよ」
「いえ、まだ色々とありますから。それに自分だけ休んでいるのは落ち着きません」
「ぼくだったら率先して休むけどな」
「それはお仕事が嫌いな人の考えです」
店舗の裏手にある通用門を抜け、敷砂利の上を歩く。
花壇に水をまいていた中年の女中が顔を上げた。まず櫻良の姿を目にしたようで、気軽な笑みを浮かべたのだが、その隣の珠に視線を向けた瞬間に、まるで彫像のように固まってしまった。
櫻良は素知らぬ顔で、女中に「宗次郎さまをお連れしました」と言った。
女中は壊れたように何度も頷くと、弾かれたように横に飛び退いて道を開けた。珠が傍を通る時は目を合わせぬようにと俯き、そして震えていた。
珠は櫻良に続いて長い廊下を歩く。時間帯のせいなのか奉公人たちが忙しく行き交っており、櫻良の顔を見ると笑顔を向けてくるのだが、その後ろに珠がいると分かると顔色を変え、逃げるように踵を返した。
化猫が来た。誰かの口から、恐怖心で濡れた言葉が零れた。
肩越しに視線を向けてきた櫻良に、珠は口角を上げて応じた。
化猫と口にした者は、三年前に吉田屋にいた者だろう。思い返せばその頃は、無計画の中で足を進めた状態であったにも係わらず、存外あっさりと事が進んだため、気が緩んでしまっていた。
巫琴の来訪さえなければ、現状とは違った展開になったはずだが、それを誘発したのは、世情に疎かった当時の珠自身の暴挙だ。日頃は振り返らない過去を辿ると、どうしてあのような真似をしたのかと、溜息を重ねざるを得ない心境に陥ってしまう。
ふいに櫻良から「こちらのお部屋です」と声をかけられ、珠は足を止めた。
襖の向こう側に宗太の気配を感じる。いつもならその感情の揺らぎや僅かな動作も手に取るように分かるのだが、今はその感度がかなり鈍い。昨日の影響がまだ残っているのか。
頷いて見せると、櫻良は背筋を伸ばし姿勢を正す。
「若旦那様、宗次郎さまをご案内しました」
間を置かずに「入りなさい」という落ち着いた声が返ってきた。
櫻良に促され、珠はゆっくりと襖を開く。
部屋の広さは十二畳ほど。三方に本棚が並べられており、様々な大きさの書物が乱雑に積まれている。中央には使い古された行燈と書見台、そして座布団の上に座っている宗太の姿があった。
宗太は成人男性にしてはかなり小柄で、三十路前にもかかわらず白髪がかなり目立ち、そして病に冒されているかのように肌の色は青白い。運動とは無縁のように見えるが、街の道場で合気柔術を嗜んでおり、なかなかの腕前と評判だ。性格が反映されているのか眼差しは柔和で、仁者として慕う者は多い。
珠は後ろ手で襖を閉めると宗太の正面に歩み寄り、座布団の上に腰を下ろした。そしてあからさまに顔をしかめ、着物の裾で鼻と口を覆ってみせる。
宗太は困ったように苦笑を浮かべ、読んでいた書物に栞を差して閉じた。
「どうやらまだ匂うみたいだね」
部屋の隅にある小さな香炉を視界の隅で見ながら珠は頷く。
「消してください」
「もう焚いてないよ。そろそろ君が来るだろうって思ってたから」
珠は思わず舌打ちをする。
「巫琴が来たんですね」
「今日の昼過ぎに」
「なにか言ってましたか」
「色々とね」
「例えばどんな話ですか」
「色々な話だよ」
宗太は肩を竦め、それ以上の言葉を続けない。
珠は大げさに溜息をつく。
「巫琴が来たのは鎌鼬の件でですよね」
「もちろん。鎌鼬の所業を知れば知るほど、遠からずこのようになるだろうと覚悟してはいたけれど、いざそのときを迎えると、なかなか冷静ではいられないものだ」
「そうでしょうね」
「もっとも私情を別にすれば、望ましい展開になったと思うよ。御手先たちは不眠不休で捜査してはいるものの、相手が相手なのだから荷が重い。巫琴様がいらっしゃらなければ被害者は増え続けただろうね」
宗太は苦渋を滲ませた表情でそう言葉を漏らした。
四箇月ほど前に宗太は武家筋の娘を娶ったと聞いている。失い難いものが大きくなるに連れ、切れぬ巫琴との係わりを持て余し、それをどうする事もできぬ様に窮しているのだろう。
「巫琴から鎌鼬について調べろと命じられました」
「事情はひととおり聞いたよ」
「それならいつものをお願いします」
宗太は「分かっている」と言い、懐から袱紗を取り出すと珠に渡した。
「とりあえずは十五両。それ以上必要になれば、言ってくれれば改めて用意するよ」
「それと、御隠居の面倒を見る奉公人を用意してください」
「既に探しているのだけど、引き受けてくれる者がなかなかいなくてね。父と会ったことのない新しい奉公人でも、色々な逸話を聞いているようで、二の足を踏んでしまっている。笑えないのが、それがあながち出鱈目ではないということだな」
「いったいどんなことをしてたんですか」
「私の場合はほんの少しでも口答えをしようものなら殴られ蹴られ、そして斬りかかられたものだよ。水を張った盥に頭を突っ込まれて、押さえつけられたこともあったな。冬には火かき棒で叩かれたり、熱湯をかけられたりと、その他にも思い出したくもないことだらけだ。死を覚悟したのは一度や二度ではなかったし、疵が絶えなかった」
「それがあんな風になれば、耄碌したと嗤っている輩もいるでしょう」
「残念ながら私もそのひとりだよ」
吉田が現役だった頃は、どうにかして伝を持ちたいと望む者が絶えなかった。闇社会に身を置いている吉田と懇意になれば、それなりの力を得られると思ったのだろう。
それが隠居した途端に訪れる者がほとんどいなくなってしまったのは、もう吉田と会ったところで得る物がないからだ。その者たちは今では宗太の所に顔を出し、機嫌を伺っている。利害による縁などその程度のものだと、宗太は苦笑しながら言った。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「もちろん」
「巫琴がどうやって鎌鼬のことを知ったか、言ってましたか」
宗太は頭を振る。
「念のために言っておくと、私は報告してはいないよ」
「本当ですか」
「連絡手段がないからね」
「そういうことにしておきます」
訝る珠の視線に、宗太は苦笑を漏らす。
「実は以前、いざという場合に備えて巫琴様との連絡手段を確保しておこうと思って、色々と調べさせたんだけど、無駄骨に終わったよ。呪家についての情報は高く堅牢な塀に囲まれていて、それを越えられなかったというわけだ」
「巫琴はそのことを」
「それからひと月と経たない内に、書簡でふたつの忠告を受けたよ。端的に言うとひとつ目は、余計な真似をするなということだったな」
「もうひとつのは」
「ひとつ目のそれを守れ、と。実に分かりやすい話だった」
「守らなければどうなるんですか」
さあ、とばかりに宗太は肩を竦めて見せる。
「それを守っているからこそ、私は生きていられるのだと思っているよ」




