本幕 其ノ九
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
遅くなったのだから泊まればいいと宗太は言ったが、珠はそれを断って吉田屋を後にした。宗太の話は社交辞令であり、加えて奉公人たちが早く帰れと切に願っているのは分かりきっている。つまらない嫌がらせのために予定を棒に振るほど暇ではないのだ。
空は墨を塗りたくったような有様だが、夜目が利く珠は提灯を持たずに歩いていた。
闇夜の中に身を置けば自然と集中力が高まる。
危機感を抱いているからなのか、いつもはさして意識しないそれを強く感じていた。
静まった街中に一本の釣糸を垂らした。それだけで準備は整った。
さあ、餌に喰らいついて来い。珠は心中で白装束にそう呼びかけた。
白装束が鎌鼬であろうがなかろうが、再び珠に接触してくるという読みは見当違いではないはずだ。不安要素はあれど、手がかりが自ずと転がり込んで来る可能性に乗ってみるのも悪くない手だろう。
ふと珠は眉をひそめ、細い路地の陰に身を隠した。
人相の悪い着流しの男たちが、提灯を手に歩いて来る。言葉を交わさず、緊迫感を撒き散らしながら辺りを舐める様に見回しており、人影を見つければ問答無用で襲いかからんばかりの雰囲気だ。
御手先とその手下といった類いか。
彼らは珠の存在に気づかず、亀のような鈍い足取りで歩み去った。おそらくは夜を通して警邏するつもりなのだろう。
やれやれ、と珠は息をつきながら路地陰から出た。こう横槍を入れられると気が削がれてしまう。いくら息巻いても無駄なのだが、それを分かっていないのが面倒だ。
「―― っ」
ふいに総毛立った珠は、反射的に振り返る。
遠方に濃密な妖気を放つ存在がある。端からそれを隠す気はないらしい。
このあからさまな態度は、挑発と受け取るべきだろう。
罠。その言葉が脳裏を掠めたものの、珠は妖気の元へと足音を忍ばせつつ疾走した。
八重咲通りから南街に向かって下れば、すぐに堅く踏み慣らされた歩道とそれを挿むように広がっている藪しかなくなる。日中であれば足取りが軽い男たちの姿が目につくのだが、この時間帯ではその面影はない。
ふいに珠は足を止め、闇の中の一点を凝視する。
「用件を聞こうか」
それに応じたのか、白装束が陽炎のようにゆらりと姿を現した。
白装束の背丈は目算で珠より頭ふたつ分くらい高く、痩せ細っている。腰の辺りまで伸ばされている白髪は手入れをされていないのかざんばらで、何より目を引くのは顔を覆う般若の面だ。被っている鉄輪に立てている蝋燭の炎が、柔らかい風に揺らいでいる。
戦雲を感じたのか、飛び交っていた虫の鳴き声がぴたりと止んた。
「……ス」
白装束はくぐもった低い声でぼそりと言った。
「なんて言っ―― 」
「殺ス」
ふいに白装束は目を大きく見開き、涎をまき散らしつつ奇声を高らかに上げると髪を振り乱し、瞳を爛々とさせながら珠に向かって飛びかかった。
珠は迎撃すべく態勢を整えようとすると、白装束が発した妖気が何百もの糸となり、四方八方から珠の影に纏わりついてきた。拘束され指一本動かせなくなるが、珠は天に向かって音にならぬ咆哮を上げながら体をよじり、妖気の糸を引き千切った。
白装束はそれに躊躇せず、勢いのままに珠の頸動脈を斬り裂くべく手刀を振るう。珠は上体を仰け反らせてそれを避けると、そのまま後転跳びで距離を取る。が、白装束は低い体勢で追撃にかかり、珠の喉笛を貫かんしてと突き出した手刀は、放たれた矢のように最短距離を奔る。
襲い来る手刀をぎりぎりまで引きつけた珠は、首を傾けてそれを避け、覆い被さるように踏み込んできた白装束の胸部を狙い、反動をつけて右肘を打ち出した。
当たる。そう確信したが、想定していた感触はない。
その直前に白装束は体勢を崩しつつも力任せに地を蹴り、珠の頭上を宙返りしつつ大きく飛び越えると、距離を空けて軽やかに着地した。
珠は深く息をつき、冷や汗で濡れた首元を手の甲で拭う。ちくりと刺すような痛みに眉をひそめた。手の甲を見ると、汗に一筋の血が混ざっている。どうやら首の皮一枚を裂かれたらしい。
白装束は珠の動きを見て警戒を高めたのか、真正面からしかけて来る気配はない。表情は窺い知れないが、双眸は珠の瞬きすら見逃さんと見開かれている。
「鎌鼬か」
珠の問いかけに白装束は沈黙で応える。
ふたりの間を乾いた風が流れた。
珠はひとつ息をつく。問題はこれからどうするかだ。
白装束は殺気を宿したまま動かない。珠の隙を、それがなければ攻め込む機を探っているのだろうが、この膠着状態を続けようと考えてはいないはずだ。
緒戦はまだ、手の内の探り合いに過ぎない。
ならばこちらから攻めてみるかと思うや否や、珠は白装束との距離を詰める。
白装束は鋭く踏み込みながら手刀を突き出してきたが、珠は読みどおりのそれを受け流すと、白装束の側頭部目がけて裏拳を振るう。白装束は体を沈めて避け、珠の顎を目がけて右腕を掬い上げてきたが、上半身を右方に流してかわした珠は、渾身の力を込めて白装束の左脇腹を蹴り飛ばした。
白装束は派手に転がったが、珠は右足に残っている分厚い鉄板を叩いたような感触から、致命傷には程遠いと察した。白装束が纏っている妖気が防護壁となり、その威力を大幅に削がれてしまったのだ。
珠は体勢が崩れている女に接近しつつ、唇に歯を喰い込ませて舌先で血を掬った。
鉤爪のように整えた指先に不可視の力が迸る。
そして、迎撃の姿勢を取る白装束の首元を狙って右腕を力任せに振るう。
鋼が拉げたような音が響いた。白装束が珠の鉤爪を左腕で受けたのだ。
それは白装束の周囲に張られた幾重もの防護壁を裂き、左腕を抉るも、そこで勢いが削がれ止められた。
傷口からは赤黒い煙塵が吹き出すも、白装束は苦痛にのたうちも喚きもせず、右手で珠の手首をがっちりと掴み、左腕を頭上に掲げると、珠の頭頂部を目がけて一直線に振り下ろした。珠は白装束に肩からぶつかり、密着する事でそれを避けると、思い切り体を回転させて白装束を振り回し、その遠心力で腕を力任せに引き剥がした。
白装束は叢の上を転がったが、すぐさま反動をつけて飛び起きる。
追撃にかかろうとした珠だが、全身に悪寒を感じ大きく飛び退いた。
ふいに空間が軋んだ。
突風が吹き荒れると、今まで辺りを覆っていた闇が剥ぎ取られたかのように、空や土、そして草木などの視界に入るもの全てが白一色に染め上げられた。
結界。精神力と妖気が支配する異界に引きずり込まれたのだ。
「殺ス」
白装束は足元から妖気を立ち上らせており、野犬のような唸り声を発しながら前屈みに縮こまり、両腕で自分の肩を抱いた。体が激しく脈打つのに合わせて血管が隆起し、長い白髪が栗の棘のように逆立つと、妖気がより濃密になる。
珠は厳しい表情で舌打ちをした。この展開は想定内だが、問題は白装束の妖気だ。
紫の霧と化して辺りを漂っているそれは、気を引き締め、抵抗力を上げなければ精神を一瞬の内に絡め取られてしまうほどに深い。
甘く見ていた。珠はそう悔やんだが、それでもまだ遅れを取った訳ではない。
「殺ス」
白装束は勢いよく上体を仰け反らせると、月に向かって咆哮を上げた。
丸太のように太く膨れ上がり四尺ほどに伸びた両腕と、細身のままの体型は歪だ。額からは長い触覚が生え、覗く肌は光沢のある黒色に染まっており、全身からは目に染みるほどの刺激臭を放っている。
異形のそれは、正に妖だった。
来る。第六感がそう叫んだのと同時に珠は左方に跳んだ。
激しい衝撃が右の二の腕の外側を貫き、その勢いで珠は弾け飛ばされた。
受け身を取る間もなく十数度も転がり続け、やっとの事で飛び起きる。
額から冷汗が滑り落ちる。見えなかった。
もう少し回避が遅ければ、胸を貫かれ、致命傷を負っていただろう。
白装束は狙いが外れたのを不思議に思っているのか、上半身を大きく横に倒して首を傾げている。ふざけているようにしか見えないが、その誘いに乗っては手痛いしっぺ返しを喰らわされかねない。
珠は脂汗を浮かべつつちらりと右腕を見る。着物と共に肉が抉られ、べっとりとした血で染まっていた。軽傷と思いたいところだが、集中力を掻き乱す苦痛がそれを明確に否定する。
白装束は何事かをぶつぶつと呟きながら、狂ったように体を痙攣させる。
そして次の瞬間には、何事もなかったかのように平然と珠の面前に立ち、心臓の鼓動すら観察するかのように珠を凝視していた。
珠の表情が固まる。今度は反応すらできなかった。
まるで蝿でも払うように白装束は力任せに腕を振るい、珠は再び弾き飛ばされた。
反射的に右腕でそれを受けつつ、力の流れに逆らわずに自ら跳んだので、幾分か衝撃は緩和されたはずだが、それでも神経を引き千切られたかのような苦痛に顔を歪ませた。
不味い。珠は受け身を取りながらも、左手で懐の小刀を抜いて身構えた。
とりあえず何とか二回の襲撃は凌げたが、それは意識してのものではなかった。ほんの些細な読み違いが即死となり得る現状から抜けなければ先はない。
勝負手。珠はそう呟き、覚悟する。
危ない橋を渡らずともどうにかなる程度の相手であればこの場でけりをつけ、そうでなければ何かしらの情報を得た後に折を見て退きたいと思っていたが、さすがにそう都合よくはいかないようだ。
勝負手は大きな危険を孕んでいる。積極的に打ちたいものではないが、それをしなくてはこの場を切り抜けられないとなれば、背に腹は代えられない。
しかしその決意に肩透かしを喰らわす様に、白装束は珠に背を向けた。
辺りに再び闇が降りる。結界が解かれたのだ。
白装束はゆっくりと足を進め、そして闇に溶け込むようにして消えた。
珠は戸惑いながらも様子を窺ったが、再び結界に引きずり込まれるような気配はない。
どうやら退いたらしい。何かしらの事情があったのだろうか。
再び白装束と相見えた時は、躊躇せずに勝負手を打つべきだろう。遅かれ早かれという事であればさっさと済ませたかったと思ったが、つい漏らした安堵の息が本心を表していた。
珠は右腕を蝕んでいる苦痛に顔を引き攣らせ、疲れた、と漏らしつつ天を仰いだ。
辺りには妖気で命を殺がれた無数の虫がひっくり返っていた。




