本幕 其ノ六
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
珠は鈍重な動作で身形を整えると、草履をつっかけて屋敷から出た。
いつもなら縁側で日向ぼこりしながらうたた寝を、それに飽きれば暇潰しに櫻良の手伝いをし、呼ばれれば吉田の話し相手となっている時間帯なのだが、今日はそうのんびりしていられない。
街道に出ると相変わらず人通りが多く、商家からの客寄せの声などで賑々しいのだが、とこか空々しく、その陰からは陰鬱な雰囲気が顔を覗かせているのを感じる。
元凶は鎌鼬に違いない。
喧騒を焚き煽る事で不安から目を逸らそうとしているのかもしれないが、いつ底が抜けるかも知れぬ橋を渡っている内は、安心などできないというところか。
町を西方に抜けると花水川にぶつかり、川遊びに興じている子供たちの歓声が聞こえた。花水橋を渡って来た行商たちとすれ違ったが、彼らの足取りは総じてかなり早い。暗くなる前にさっさと町を抜けてしまいたいと思っているのだろうか。
街道から逸れて田畑を貫くようにして踏み固められている農道を進む。
土手に上がると、川辺にぽつんと建っている荒屋が見えた。
荒屋を囲んでいる板垣は朽ちて所々割れ、鬱蒼と茂っている背の高い雑草に巻きつかれており、誰かが住んでいるような雰囲気ではない。
珠は川辺に下りると、板垣を軽快に飛び越えて荒屋の敷地に足を踏み入れた。
敷地の中も雑草が我が物顔で背を伸ばしている。家屋の板壁には無数の罅と穴があり、臭ってきそうな腐食具合が襤褸を強調しているそれは、強風のひとつでも吹けばあっさりと倒壊しかねない有様だ。
庭に回ると雑草から顔を覗かせている手ごろな庭石があり、そこに腰を下ろした。
ふいに先ほどの櫻良の占が脳裏に浮かび上がってきたので、珠は思わず頭を振った。
もはや単なる偶然だと高を括らない方がいいだろう。身に余る能力には相応の危険が伴うのが常だ。何かしらの対策を講じなければならない。
もっともその前に鎌鼬の件を片づけなければ、と嘆息を噛む。
窃盗や傷害そして殺人などの一般的な事件であれば、役人やその手下の管轄となる。その程度であればどこで何が起ころうがどうでもいい話なのだが、しかし極々希にではあるものの、それらに妖が係わっている場合があり、その時だけは話が別となる。
妖とは妖怪や物の怪といった類の総称だ。
要職にある官人の極一部はその存在を認識してはいるが、公には迷信として取り扱い続けている。しかし人的被害が生じた際には、呪家と呼ばれる僧職や神職の官人を秘密裏に派遣し、諸問題を解決してきた。
呪家は妖の処理を最優先任務としており、特殊な修行などで異能を得た者のみが登用され、その存在は妖と同様に極秘とされている。慢性的な不足となっている人材を補うために、呪家は自らの目や耳、そして手足となって働く配下を抱えており、その者たちは狗と呼ばれている。
巫琴は呪家のひとりであり、三年前に、珠は巫琴の狗となった。
「久しいな」
唐突に発せられた低いしゃがれ声で、物思いに耽っていた珠はすぐさま姿勢を正す。
「お久しぶりです、翁」
いつの間にか荒屋の縁側に翁が座っていた。気配を断って珠の不意をついたのだ。
「儂のような老い耄れに後れを取るとはな。腐敗堕落した生活に毒されたか」
「手厳しいですね」
「それなりに自覚してはいるようだな」
翁は長い髭を伸ばしながら咎めるような口調で言うも、口元が緩んでいた。
「お元気そうでなによりです」
「世辞など言うな。目も鼻も、そして耳も利かなくなり、加えて老いさらばえた体は碌に動かない有様だ。死期がひたひたと歩み寄って来る様を感じぬ日などなく、いつ土に還ってもおかしくない身ではあるが、無様と思いつつも現世にしがみついておる。望まざる来訪者を目にし、それが間違っていなかったと実感したところだ」
不快感を隠さない翁に、珠は口元を緩めた。
「巫琴が来たことをご存じですね」
「監視網に引っかかったと言いたいところだが」
「実際には暗に伝えられた、と」
「忌々しい小娘だ」
翁は険しい表情で舌打ちをした。
「今はどこにいますか」
「うぐいすという旅籠に止宿しておる」
「監視には気づいているのでしょうね」
「しかし無意味ではない。それが三年前に得た教訓だ。」
確かに。珠はそう思いながら頭を下げ、「申し訳ありません」と言った。
その件を眼前に突きつけられるたびに、安穏とした日々を送っている自分が、虐殺された同胞の屍の上に立っている様を嫌でも直視せざるを得なくなる。
あれから三年経つ今でも、珠に深い怨恨と激しい憤りを向け、そして形ばかりの追放という処分に強い不満を感じている同胞が多くいるのは十二分に承知している。そのような中で制裁ひとつ受けていないのは、翁が抑えているからに他ならないのだ。
「鎌鼬の件だな」
翁がぼそっと呟き、珠は神妙な顔で頷く。
「引き受けていただけますか」
「期限は」
「早ければ早いほど助かります」
「具体的に申せ」
「できれば今日、遅くとも明日には」
「相変わらずだな。受けなければどうなる」
珠は思わず口角を持ち上げる。
「用済みという烙印を押されるでしょう」
巫琴が提示した五日以内という期限は、翁という伝を活用しろ、と言っているに等しい。
一族の長である翁が命令を下せば、それは瞬く間に数多の同胞に広がり、様々な情報が集められる。巫琴から命じられた過去の事件の情報収集は、いずれも翁の協力があってこそ成し遂げられたものであり、それは巫琴の知るところだった。
しばらく顔をしかめていた翁だが、憎々しげに目を細め、そして深く息をついた。
「無念千万ではあるが、な」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。儂には数多の目と耳があるが、それでも知り得ぬものはある」
「もちろんそれは承知しています」
「そしてひとつ、条件がある」
好ましくない予感に、珠の表情が固まる。
「どのようなものでしょう」
「この件に限らず、今後は助力を投資として捉えるように」
「投資、ですか」
「不服か」
「いえ、ただ、その、自分にそのような価値があるのかと」
確かに、と翁は頷いた。
「狗と成り果てた其方の価値は地に落ちた」
「はい」
「それも自らの愚行によりだ」
「承知しています」
「それを考慮した上でも、現状では最も優れているという事実に変わりはない。同胞の中から才に愛でられた者を注意深く観察してきたが、残念ながら、どれも小粒でしかなかった。其方をよく思っていない同胞は多く、制裁をという声が未だに根強く残ってはいるものの、行使されないのは、其方の才を認めざるを得ないからに他ならない」
「しかし」
「勘違いするな。選択肢など端から与えてはおらん」
翁からそう言われれば、珠は口を噤まざるを得ない。
人質、という言葉が厭でも脳裏に浮かび上がる。
巫琴から解放される見込みはなく、翁から命令が下されるのも時間の問題となる。
このままではいずれ退っ引きならぬ事態に追い込まれるだろうと思いつつも、どう動けばいいのか皆目見当もつかない。
性急に話を進め過ぎたと思ったのか、雰囲気を換えるように翁は深く息をついた。
「これから戻るのか」
「いえ、山茶花の奉公人と会う予定がありますから」
「昨日の被害者がいた店の者か」
「とりあえず手近な所から調べる算段をつけていました。今となっては必要ないとは思いますが、段取りをつけてしまったので、行くつもりでいます」
「それがいい。山茶花が監視下にない可能性もある」
ふいに翁は鼻をひくひくと動かし、舌打ちをした。
「どうかしましたか」
「問うまでもないとは思うが、鼠には気づいているな」




