本幕 其ノ五
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
「宗次郎さま、もうそろそろ起きてください。宗次郎さま」
何度も体を強く揺すられ、珠は嫌々ながらも眠りの淵から頭をもたげる。
重い瞼を持ち上げれば、何者かが枕元で腰に手を当てて立っている様が見えた。
「ああ、なんだ。櫻良か」
「なんだじゃありません。もうお昼前です」
「眠い」
「お水を用意しましたから、顔を洗ってください」
「眠い」
うるさいとばかりに珠は両手で耳を塞ぎながら寝返りを打ち、櫻良に背を向けた。
櫻良は天を仰いで深い溜息をつき、敷蒲団の端をしっかり掴むと、反動をつけて勢いよく引っ張った。布団から転がり出された珠は呆気に取られ、そして思い出したようにひとつくしゃみをした。
櫻良は澄まし顔で「おはようございます」と言いながら頭を下げる。
「目が覚めましたか」
「おかげ様で」
「それはよかったです」
悪びれずに微笑む櫻良に皮肉を言う気力もなく、珠は立ち上がろうとしたが、思いの外体の自由が利かず、膝が揺れて体勢が崩れた。反射的に両腕で体を支えようとしたものの、麻痺しているかのように力が入らなかったため、かなりの勢いで畳に額を打ちつけた。
鈍痛が響く額をさすりつつ外に目をやると庭には日向ができており、空を見上げれば抜けるような青天が広がっていた。昨夜の雨雲は寝ている間に流れ去ってくれたようだ。
用意されていた盥の水で顔を洗うと、這って縁側に出た。無理に立とうとすれば十中八九同じ目に遭いそうだ。これ以上散々な目に遭いたくない。
縁側に座って暖かい陽光を全身で浴びると、あまりの心地よさに欠伸が漏れた。
この離屋は敷地の隅に建っており、居室の広さは六畳ほどで、箪笥や食卓といった家具や寝具がひと通り揃っている。それらは隠居する前の吉田が著名な職人を遠方から呼び寄せて造らせた物ばかりで、装飾が細かく、そして良質な素材を使っているため、愛好家であれば小躍りをする逸品のようだ。
珠がしばらくまどろんでいると、蒲団を上げ終えた櫻良が「目が覚めましたか」と言いながら珠の隣に腰を下ろした。まるで茶会の席にいるかのように背筋を伸ばし、ちょこんと正座をしているその姿勢は堅苦しい。もう少し楽にすればいいと珠が何度言っても、姿勢が乱れれば気も乱れると頑なに主張しており、それを曲げる様子はない。
「まだ眠そうですね」
「雨のせいで頭がまだはっきりしないんだよ」
「朝方まで降ってたみたいですね」
「それに昨日は忙しかったから」
「忙しかった、ですか」
櫻良はまじまじと珠の顔を見ながら言った。
「なに」
「宗次郎さまには似合わない言葉が出たので驚きました」
「なんか言葉に棘があるように感じるんだけど」
「率直な感想です」
ぴしゃりと言い切った櫻良に、珠は苦笑を返す他なかった。
櫻良は十三歳の娘で、大きい目と両耳の下で結わいている三つ編みが特徴だ。三年弱ほど前から吉田屋に奉公しており、今は珠と吉田の世話をするために、毎朝、小半刻ほどかけて屋敷に通っている。
ふいに櫻良が笑みを噛み、珠が目敏くそれに気づく。
「なにか面白いことでもあったの」
「いえ、ただ、久し振りだなって」
「なにが」
「宗次郎さまの寝像を見たことです」
「なんだ、そんなことか」
珠は仰向けに寝転がりながらつまらなそうに言った。
それを拗ねた態度だと思ったのか、櫻良は口元を綻ばせる。
「あたしに気づかないくらい深く寝入ってたのには驚きました」
「それだけ調子が悪いんだよ」
「あたしもそうだろうと思ったので、今まで起こさなかったんです」
確かに、と珠は苦笑を漏らす。言われるまでそれに思い当たらなかった。
いつも早朝に起こされる珠が昼前まで眠れたのは、櫻良の温情のおかげなのだ。おまけにここで起きなければ、予定が大幅に狂う羽目になったに違いない。
「ご隠居はどうしてるの」
「半刻くらい前にお散歩に出られました。もうそろそろお帰りになると思います」
「体調は」
「いつもどおりお元気でしたけど、どうしてですか」
「昨日雨に濡れてたから、風邪を引いてないかなって」
「それは大丈夫だと思います。朝からご飯を三杯もおかわりされましたから」
珠は頭を振って溜息をつく。
吉田は昨日の事など覚えていないだろう。それに苛立ちが募る。
そもそも吉田がそのような状態となった経緯を考えれば、珠が迷惑を被るのは自業自得と言えなくもないのだが、それを仕方ないと整理できるのにはまだ相当の時間が必要らしい。
「まあそれはともかく、聞きたいことがあるんだけど」
「どうしたんですか急に」
櫻良は小首を傾げて言った。
これからの展開を思い浮かべ、珠は思わず苦い表情をする。
「鎌鼬」
「えっと、あの、聞き間違いかもしれないので、もう一度いいですか」
「鎌鼬について聞きたいんだよ」
櫻良は一呼吸を置くと、満面の笑みを浮かべながら大きく身を乗り出してきた。
「宗次郎さまも、やっぱり鎌鼬に興味があったんですね」
「そういうわけじゃないよ」
珠は顔をしかめて不本意だと表したが、櫻良はそれを歯牙にもかけない。
「そういう物騒な話は聞きたくないって言ってましたけど、そんなはずないって思ってました。鎌鼬がなんのために罪を殺人を続けているのか、そして捜査網をどのようにして掻い潜ってるのかって、やっぱり気になりますよね。あたしもずっと考えてます」
「いや、だからぼくは別に」
「少しでも時間ができれば殺害現場に足を運んだり、その近所の人に話を聞いたりしてはいますけど、なかなか核心に迫ってるような感触がなくて困ってました。瓦版は悪戯に恐怖心を煽ってますけど、こう事件が続くとどうしてもお上の口が重くなってしまうので、怪しいとは思いながらも――」
困ってると口にした櫻良だが、どう見てもその表情は活き活きとしている。次第に口調は熱を帯び、そして身振り手振りが大きくなってきた。放っておけばいつまでも話し続けそうな勢いだ。
やはりこうなるか、と珠は話を聞き流しながら嘆息を噛んだ。
なぜか櫻良はこの手の凶悪事件に惹かれてしまう。僅かな暇を見つけては現場を覗き、根拠のない噂話に耳を傾け、仰々しく書き立てている瓦版の収集に勤しむのだ。碌な事にならないから止めた方がいいと珠が何度も言っても、櫻良の耳には届いていないようでそれが治まる気配はない。
珠はわざとらしく大きな咳払いをして、櫻良の話を遮る。
「話を戻すけど、鎌鼬について聞きたいんだ」
「分かってます。それでなにを知りたいんですか」
「その正体なんだけど」
「それが分かればこんな大事になってません」
つまらない事を言うなとばかりに、櫻良は眉をひそめて言った。
「手がかりとかはないの」
「昨日もお話しましたけど、目ぼしいものはありません」
「そんなこと言われたかなあ」
「昨日の朝ですよ。番頭さんが殺されたことをお話ししたときに」
「ああ、そういえば」
次第に頭が回ってきたのか、今の今まで忘れていた話を思い出しながら珠は言った。
それは昨日の夜明け前。
微かな寝息を漏らしていた珠の耳がぴくりと動き、不機嫌な表情をしつつ体を起こした。こんな時間にも係わらず騒がしい。また鎌鼬が現れたのだろうか。気にならなくはないが、君子危うきに近寄らずという諺が示すように、余計な事に首を突っ込むと碌でもない結果を招いてしまう例は、枚挙に暇がないほどある。
ならば気づかなかった事にすればいいと再び寝転がり、両手で耳を塞で目を閉じると、すぐに睡魔が訪れ、次第に意識が揺らぎ始めた。このまどろみが特に気持ちいい。羽根になって空を漂っているようで、全てから解放されたような心持ちにしてくれる。
しかし小半刻も経たない内に、珠は溜息をついて再び体を起こした。
それから十も数えぬ内に櫻良が離屋に飛び込んで来た。いつものように髪を結いておらず、息は上がっている櫻良を見れば、只事でないというのは一目瞭然だった。何があったのかと問うと、山茶花の番頭の喜多之輔が鎌鼬に殺された、と櫻良は息も絶え絶えに言った。
山茶花は創業七十余年を数える老舗の料亭だ。番頭の喜多之輔は小僧だった二十年ほど前から奉公している古参で、実直で勤勉な性格ゆえに主から目をかけられ、若年にも係わらず出世を遂げたと評判だった者らしい。
ふっと櫻良の表情が曇る。
「知っている人が殺されたのは、番頭さんが初めてです」
「面識があったって言ってたね」
「お遣いで山茶花に行ったときにご挨拶したくらいですけど」
「でも、全然知らない人が殺されたときとは違うんだね」
「不謹慎な話だとは自分でも思いますけど」
珠は櫻良の髪をくしゃっと撫でた。
「凶行は他人事じゃないからね。それを十二分に意識してよ」
「それは宋次郎さまも同じです」
「同じってなにが」
やはり分かってない、というように櫻良は眉をひそめる。
「こう物騒な事件が起きると口を酸っぱくして言ってますけど、宋次郎さまは危機感がなさ過ぎます。他人事と思わないっていう言葉をそっくりそのまま返しますから、しっかり用心してください」
櫻良は約束を迫るように、真剣な目で珠を正面から見ながら言った。
思わず珠はその気迫にたじろぐも、まじまじと櫻良の顔を見る。
「櫻良は昨日の明け方、ここにひとりで来たんでしょ」
「そうです」
「まだ辺りは薄暗かったけど、不安じゃなかったの」
「なにがですか」
櫻良は不思議そうな表情をしたが、話をはぐらかされたと思ったのか、抗議の視線を珠に向けた。やはりこの屋敷にくる途中で鎌鼬に襲われるかもしれないという発想はなく、今もその危うさに気づけていないらしい。
言い返したいところだが、それでは話が進まないので珠は話の矛先を替える。
「その山茶花の番頭はどこで殺されたんだっけ」
「八重咲き通りの草っぱらで、北街と南街の真ん中くらいの所です」
「あんななにもない所だと、誰も見てないだろうね」
「そう思います。それに襲われたのが九ツ過ぎみたいですから」
「どうしてそんな時間にあんな所にいたんだろう」
「その、どうも、南街から帰る途中だったみたいです」
「朝まで楽しんでいけば殺されずに済んだかもしれないのかあ」
「下品です」
頬を林檎のように赤らめた櫻良に上目遣いで睨まれ、珠は明後日の方を向いた。
喜多之輔が何を目的に南街に足を運んだかは察するとして、わざわざ危険な夜半に帰路についたのは、取り返しのつかない失敗となったのは間違いない。
「とりあえずその番頭の件をもう少し聞かせてよ」
「昨日の今日なので詳しいことはまだ知りません」
「なにか当てはないの」
「山茶花で奉公している友達がいるので、落ち着いた頃に話を聞けるとは思ってます」
「それなら、今日にでもその友達を紹介してほしいんだけど」
「今日ですか」
思わず素っ頓狂な声を上げた櫻良に、珠は頭を下げる。
「急なのは分かるけど頼むよ」
「駄目です。今日の夕方にお通夜があるんですから」
「夕方までまだいくらかの余裕はあるよ。それに櫻良だって早く知りたいでしょ」
「それは、まあ、そうですけど」
「お礼になにか美味しいお菓子でもご馳走するから」
お菓子というだめ押しの言葉に、櫻良の眉がぴくりと持ち上がった。給金の大半を実家に仕送りしている櫻良にとって、それは抗い難い誘惑となる事を珠はよく知っていた。
櫻良は難しい顔をして考え込む。双方を天秤に乗せて量っていたのだろうが、結局は誘惑に負けたらしく、仕方ないという表情で仰々しく息をついた。
「他ならぬ宗次郎さまからのお話ですから、とりあえず都合を聞いてみます」
「ありがとう。助かるよ」
「お洗濯が終わってから山茶花に行きますけど、宋次郎さまはどうしますか」
「ぼくはちょっと出てくるから、待ち合わせようよ」
「それならすみれっていう甘味屋さんでお願いします。羊羹がとっても美味しいって評判になってるお店なんですけど、知ってますか」
「場所くらいはね。ならそこで七ツに」
七ツまでは一刻半ほどある。
所用が長引く可能性を考えれば、早々に屋敷を出た方がいいだろう。
よほどすみれの羊羹を食べたかったのか、今にも小躍りしそうなほど浮かれた雰囲気を醸し出していた櫻良が、あっ、と何を思い出したか膝を打った。
「そういえば、一昨日のあたしの占はどうでした」
珠は思わず顔をしかめた。
「聞きたいの」
「もちろんです」
「当たったよ」
「本当ですか。これで二連続ですね」
破顔一笑して胸を張る櫻良とは対照的に、珠の暗澹とした表情をする。
「その被害を受けたぼくとしては、ぜんぜん嬉しくないよ」
「そう言われても困ります」
「占ったのは櫻良なのに」
できの悪い弟子を相手にしている師匠のように、櫻良は溜息をついてみせる。
「あたしの占は、水面に映る月を見るようなものです」
「なにそれ」
「例えば棒で水面を叩いたところで、月自体にはなんの影響もあたえられません」
「つまりどういうこと」
「運命と思って諦めてください」
「そんな滅茶苦茶な」
「なんて言われても、そういうものなんです」
運命。珠はその言葉を口内で転がした。これほど胡散臭い響きなどそうはない。
路傍で席を構えている占師をそれとなく見た事があるが、水晶を覗き込んだり、筮竹を数えたりと、それなりの雰囲気を演出していた。もしかしたら当たるかもしれない、と興味を引かれてしまう者の気持ちは分からないではないが、櫻良のはそれと違う。
試しに占わせてほしいと櫻良に言われた時は、何かの冗談としか思えなかった。面倒だったので断ると、珍しく櫻良が食い下がったので、馬鹿らしいと思いながらも大人しく占われたのだ。
巷では占が流行っているようで、つい先日まで櫻良は、どうして手相や筮竹なんかで運命が見えるのかさっぱり分からないと零しており、それには珠も同感だった。
しかし櫻良がいつの間にか身につけた珍妙な占術は、まだ実績が乏しいとはいえ、どういう訳か当たってしまっている。面白くない話であるからこそ、気になってしまうのは仕方がない話だろう。
珠は苦い表情をし、櫻良を窺う。
「念のために聞くけど、今、占ってもらえるの」
「占ってほしいんですか」
「聞いてるだけだよ」
「もちろん大丈夫ですけど、それは宋次郎さま次第です」
「なら、頼むよ」
櫻良は鷹揚に頷いて見せる。
「それじゃあ、さっそく見せてください」
珠は躊躇しつつ腰を屈めた。目の高さを櫻良に合わせ、舌をできるだけ伸ばし出し、そして自分がどれほど間抜けな格好をしているのかをなるべく考えないようにする。
櫻良は懐から箆を取り出し、それを珠の舌に当てた。続いて喉の様子を確認し、額に手を当てて熱を測り、そして胸部や腹部を触診する。それは医師の診察のようだが、櫻良は占だと言って譲らない。これでどう占っているのかさっぱり分からないが、くだらないと馬鹿にできないのは、その結果が物語っている。
気まずい時間が過ぎ去るのを大人しく待っていると、やがて櫻良は神妙に目を閉じて「見えました」と言った。
「これから宗次郎さまが行く所は花水川の土手にある古びた家、ですよね」
「それで」
「そこに誰かがいて、宋次郎さまが来るのを待ってる」
「それで」
「今は集中力が高まってないので、これくらいが限界です」
「けっこう不便なものなんだね」
珠は強がるように素っ気なく言ったが、櫻良は意に介さない。
それと、と櫻良は言葉を続ける。
「鼠に気をつけてください」
「なにそれ」
「これも占です。鼠が見えました」
珠の眉間に皺が寄る。
「気をつけろって、どんな風に」
「分かりません」
「また無責任な」
「結果が楽しみです」
悪戯っぽい微笑を浮かべながら櫻良は言った。




