本幕 其ノ弐拾弐
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
宵に浸る帳の中。
不揃いな足音が響く八重咲き通り。
南街へ向かう道中にあった忠信は、ふいに悲鳴を上げて駕籠から崩れ落ちると、うめき声を漏らしながら苦悶の表情でのたうち回る。
突然の事態に驚いたふたりの駕籠舁と三人の従者は慌て、白目を剥き泡を吹き始めた忠信に駆け寄るが、吐き出す言葉が不明瞭のため要領を得ない。従者たちは何度も忠信の名を呼びながら体を強く揺さぶるものの、奇声を発し、時折激しく痙攣をする忠信の状態は尋常でなく、悪化の一途を辿っているように見える。
駕籠舁のふたりが北街の方角へと走り出した。医者を呼びに行ったのだろう。
残された従者たちは忠信を籠の中に押し込むと、以後、手持ち無沙汰となったのか煙草を吸い始めた。忠信の状態よりも自らの今後の身の振り方を案じているような雰囲気だ。
その様子を一丁ほど離れた藪の中で、珠が凝視していた。
忠信は妖力に五感を冒され、悪意を帯びた夢幻へと墜ちている。
唐突に襲いかかってきた下手人。
あっけなく斬られる駕籠舁と用心棒。
迫り来る死の気配。
土下座して命乞いをしながら懐から匕首を抜き、下手人に飛びかかる忠信。
両手から全身を駆け巡る鈍い反動。致命傷を与えたという感触。
転がっている提灯の明かりが照らし出した下手人の顔を見て、悲鳴を上げる忠信。
白目を剥いた眼。
蝋人形のように固まった表情。
腐敗した卵のように変色した肌。
乾いた血で固まった髪髪。
面影はないものの、それは自害した牡丹に間違いない。
牡丹は覆い被さるようにして、打ち上げられた魚のように呼吸する忠信を押し倒す。
艶めかしく妖しい音が耳元で鳴る。牡丹の舌舐めずりだった。
牡丹の意図を察した忠信はそれを拒絶すべく牡丹の体を匕首で滅多刺しにする。肉が抉れる際に血が噴き出し、腹部を刺せば臓物が体外にはみ出るが、牡丹は顔色ひとつ変えない。
そこで何者かにがっしりと両肩を押さえつけられ、忠信は身動きを取れなくなった。
その余りの驚倒に、絶叫の悲鳴が音にならぬものに変わる。
目の前にあったのは、全身を滅多切りにされた喜多之輔の顔だった。
「それでいつまで遊んでるの」
珠の隣で忠信の様子を見ている巫琴が、欠伸をしながら言った。
「小半刻もかからないと思います」
刻一刻と忠信の精神が壊れていく様が手に取るように分かる。
しかし珠は容赦しない。ゆっくりと、そして確実に忠信の正気を削いでいく。
幻術の対象は忠信のみとしているので、その詳細を巫琴が知る術はない。しかしどのような類いのものを見させられているのかは察しているようだ。
「やり過ぎないでよね」
「忠信が死んだらぼくも、ですよね」
戯けるように言った珠に、巫琴は神妙な顔で頷く。
「人を殺しちゃ駄目」
「故意過失を問わず、でしたね」
「もちろん」
「それは殺さなければいいってことですよね」
巫琴は呆れたように「馬鹿じゃないの」と言った。
「そんなの認めたらやりたい放題でしょ。今日は特別なの」
「分かってます。冗談ですよ」
会話の最中も、珠は気を常に忠信に注いでいる。
丁寧に忠信を追い込み、狂気の一歩手前に立たせる。加減をひとつ間違えれば自害へと至らしめかねないが、そうせずにはいられない。
この悪夢から解放された際に、忠信がどうなるのかが楽しみだ。自我が崩壊し生ける屍と化してくれるのが理想的だが、簡単にはそのようにならないのは分かっている。人の精神は一見脆そうだが、時として凄まじい強靱さを発揮するのだ。
しばらく忠信の様子を見ていた巫琴は、「飽きた」と呟いた。
「じゃあ、あたしはもう行くから」
「町を出るんですか」
「ここでのんびりできるほど暇じゃないの」
「そのわりには、色々と楽しい準備してましたよね」
ああ、と漏らして巫琴は天を仰ぐ。
「櫻良ちゃんがばらしたんでしょ」
「罪悪感があったんだと思います」
「そんなの感じることなんてないのに」
「巫琴は少しくらい感じた方がいいですよ」
それは謝罪に訪れた宋次郎を追い返してから小半刻ほどした後だった。
右手首に血が滲んでいる包帯を巻き、そして疲労困憊で布団から起き上がれない珠を見た出仕したばかりの櫻良は大いに取り乱した。
占は最近知り合った娘から言われた内容をそのままなぞっただけだった。
偶然にもそれが当たったので調子に乗ってしまった。
こんな大事になるとは思わなかった。
何度もそう繰り返し、櫻良は泣きながら謝った。
櫻良のせいじゃないと慰める珠の脳裏に浮かんだのは、憎々しい巫琴の笑顔だった。
改めて考えてみれば、その兆候は廃寺に呼び出された日にあった。
占が当たり犬に追いかけられたという話をした際に、その犬は猟犬かと問われ、つい肯定に近い返答をしてしまった。巫琴が大笑いしたのは、その犬が生後半年ほどにも満たない子犬であったと知っていたからに違いない。
「単刀直入に聞きますけど、巫琴の目的はなんですか」
「どうしたの急に」
「単にこの騒動を楽しんでたってわけじゃないでしょ」
当たり前でしょ、というように巫琴は口角を持ち上げてみせる。
「簡単に言うと、試験」
「狗のですか」
「そう。不定期でしてるの」
「理由は」
「選別」
やはりそうか、と珠は思った。
「ぼくに狗としての価値があるかの、ですね」
「そういうこと」
「その結果が及第点ですか」
「これでもかなりかなりおまけしたんだけど」
「もし落第点だったら」
「そんなの分かりきってるでしょ」
巫琴は無邪気な笑顔で言った。
珠は内奥で燻っている感情を表情に出さないように努める。
挑発か、それとも試験の延長か。
冷静な部分が計るが、すぐにそれを止めた。どちらであれ結論に変わりはないのだ。
「できればもう二度と会いたくはないです」
「そうしてあげることもできるよ」
「ぼくの命と引き替えに、ですか」
「当たり」
巫琴は満面の笑顔で頷いて言った。




