本幕 其ノ拾八
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
非凡な才を宿す猫は、十年以上の年月を重ねると知性と妖力を得る。
とある黒猫が妖猫と化したのは、類稀にも生後半年をいくらか過ぎた頃で、その青天の霹靂である瞬間を迎えたのは吉田屋の裏庭だった。
黒猫がいつものように与えられた餌を食していると、突如、槍で尻から頭頂部までを貫かれたかのような激痛に襲われた。甲高い悲鳴を上げながら七転八倒し、狂ったように爪で地面を掻きむしりながら、食べたばかりの餌を激しく嘔吐した。
体温が急激に下がり全身が痙攣し出すと、視界が暗転し、意識が遠退く。
死に囚われた。
本能がそれを確信した瞬間に、黒猫の肉体を蝕んでいた苦痛が消え去り、濃霧に覆われていた視界が急激に開けたように感じた。そして僅か数回ばかりの深呼吸の内に、我が身に起こった変化を理解し、それを抵抗なく受け入れた。
ネエ、大丈夫
我に返った黒猫はその抑揚のない声の主である櫻良を見上げた。
櫻良は能面のような表情をしていた。風が吹けば消えそうなほどに儚い精気は、精神が悲観渦巻く汚泥に浸かっている様を如実に表しており、他愛のないきっかけひとつで、自らの命を断ちかねない危うさに満ちていた。
櫻良は黒猫を抱き上げると、首を傾げて顔を覗き込んだ。
アレ、ナンカ目ツキが変ワッタネ
黒猫は素知らぬ顔で異変を覚られぬように務めた。自然に振る舞おうとしてより不自然となる感覚が苦々しく、自分の変化が分かるはずなどないと思いつつも、万が一という可能性を恐れている自分に戸惑った。
六人兄弟の長子として小さな農村で生まれた櫻良は、貧困の一途を辿る家計の事情により女衒に売られた。流行の病により寝たきりとなった母はぎりぎりまで悩み、本当にこれしか方法がないのかと逡巡していたが、その背を押したのは櫻良自身だった。
女衒と十数日に渡る旅をし、南街へ向かう最中に訪れたのが吉田屋だった。
女衒が吉田に挨拶をしている間、櫻良は庭で待たされていたのだが、その姿が偶然にもふらりと庭に出た宋次郎の目に止まった。
巷では吉田の悪評は数え切れぬほど囁かれているが、奉公に上がれば、それより恐れなければならない者の存在に気づかされる。それが宗次郎だった。
吉田からの寵愛を一身に受けていた宗次郎は、生まれつき体が弱く、床での生活が中心となっていた。望めば叶うという環境の影響か、傲慢かつ身勝手な性格で、癇癪を起こすと吉田さえ途方に暮れる有様だった。
アレガ欲シイ
櫻良を指しながら言った宗次郎の言葉に、吉田はふたつ返事で頷き、女衒はいい手土産になったと喜んだ。当然ながら櫻良の意向など歯牙にもかけられなかった。
体罰こそなかったものの、櫻良は宗次郎から執拗に体をまさぐられ、そして入浴や用便を覗かれ続けた。可哀相。奉公人たちはそう言葉を零し、眉をひそめはしたものの、宗太を諫める者はひとりもいなかった。
ジャア、マタネ
タマチャン
深い溜息をついて立ち上がると、櫻良は踵を返した。宋次郎の元に戻るのだろう。
宋次郎の目を盗んで櫻良が黒猫に餌を与えているのは、奉公人たちの間では周知の事実となっていた。犬や猫を鞠のように蹴るのが三度の飯より好きな宋次郎に知られれば大騒動になるのは目に見えているのだが、せめてもの罪滅ぼしと思っているのか、奉公人たちはその件について見て見ぬ振りをしていた。
どうする。黒猫は去り行く櫻良の背を見ながらそう自問した。
そもそも櫻良とのつき合いはこのひと月ほどでしかない。名と日々の餌を与えられたが、それはあくまでも櫻良の意志によるもの。恩を返せと言われたわけでもなく、櫻良もそれを求めていないのは百も承知だ。放っておいても咎められる謂われはない。
しかし黒猫は自身の内奥にある澱を意識せざるを得なかった。このまま放っておけば櫻良の行く末は目に見えており、そうなれば後悔するという確信があった。
考えがまとまらない内に夜が訪れた。
今後の航路は定まらぬが、矢も盾もたまらず、黒猫は庭木から跳び乗った屋根を走り、窓からこっそりと宗次郎の部屋に入った。
そこで真っ先に目にしたのは、裸に剥いた櫻良を組み敷いている宗次郎だった。
ふと宋次郎が黒猫の気配に気づいたのか、顔を上げた。その表情は、これから櫻良の心身を冒す下卑た喜びに満ちており、良心の呵責など全く感じていないようだった。
その瞬間に、激情に駆られた黒猫は呼吸をするように妖力を解放した。
一瞬の内に宋次郎の首がねじ切れ、そして頭部は花火のように破裂した。
噴水のように勢いよく噴き出した宋次郎の血と肉片を全身で浴びた櫻良は、何が起こったのかと体を起こし、辺りを見回すと、その惨劇に精神が耐え切れず気を失った。
憤怒の焔で身を灼く黒猫は、ゆっくりとした歩みで宋次郎の死骸に近づいた。
そして鈍い行燈の明かりが揺れる薄暗い部屋の中で、咀嚼音が淡々と転がった。
それから小半刻ほど経ち、ひと息ついて冷静になった黒猫は思案を巡らせた。
死骸がなくとも血に塗れたこの部屋を見れば、誰もが櫻良が宋次郎に危害を加えたと結論づけるだろう。いくら知らぬ存ぜぬと言ったところで、白を切っていると断定されれば、その後に待ち受けているのが重罰であるのは間違いない。いくら珠にそのような意図がなかったとはいえ、より深い闇に蹴落とす結果となる。
ふと部屋の隅に視線を向けると、倒れている童の存在に気づいた。おそらくは宋次郎の従者なのだろう。突如の惨劇を目の当たりにし、櫻良同様に気絶したというところか。
騒がれぬ内に始末してしまおうとした黒猫だが、これは僥倖だと思い止まった。
そして再び妖気を放った。
その翌朝。
番頭や奉公人が朝の挨拶に赴いた吉田の私室で見たのは、子供返りしたかのような好々爺然とした吉田と、黒猫を抱いた童だった。吉田は童を宋次郎と呼び、童は当然のようにそれに応じた。
不可解。当惑した表情から、番頭や奉公人がそのように思っているのは一目瞭然であるものの、事情を問う者はひとりもいなかった。緊張感で体を固くしながら、吉田と童の一挙手一投足に神経を尖らせたが、それは三日と続かなかった。
暇さえあれば鬼のような表情で屋敷内を監視するように歩いていた吉田は、水墨画と散歩を楽しむ爺となり、その吉田に輪をかけて厄介だった宗次郎は姿を消した。素性の分からぬ童は、宗次郎の部屋で正気を逸した櫻良の看病をしているだけだった。
事情はどうであれ、奉公人たちは諸手を挙げてその状況を歓迎し、そして受け入れた。
それから一箇月後。
吉田屋内が落ち着くのを見計らい、黒猫はこれから猫を飼うつもりだと吉田に宣言させ、三十匹余りの猫を呼び寄せると、昼夜や屋敷の内外を問わず奉公人たちを監視させた。
勘の鋭い者がそれに気づき、いつも猫に見張られているようで気味が悪いと零したが、若い奉公人が快活な口調で「気のせいだ」「前に比べれば百倍も楽だ」「猫くらい何匹いようが問題ない」と言うと、多くの者が苦笑でそれに応えた。
しかしそれが杞憂でないと気づかざるを得なくなった。
ある日、壮年の手代が「宋次郎と名乗っている奴は何者なんだろう」と漏らした。
所詮は雑談の中での言葉であり、正体を探るような意味合いまではなかったのだが、それから半刻も経たぬ内に姿が見えなくなった。当初はどこぞで油を売っているのではと思われていたのだが、数日経っても姿を見せず、家にも帰っていないと分かってからは大騒動となった。
そしてさらにひとり、またひとりと、宋次郎や童について口にした者が姿を消すと、奉公人たちは、自分が今、死と隣り合わせにいるのだと察した。
様々な理由をつけながら暇を願い出た者や逃げ出した者の消息は途絶えた。
噂を聞いた町奉行の査察が吉田屋内に入るも、被害者は既に黒猫の腹に収まっており、結局は事件性なしとして扱われた。その状況は黒猫が思い描いた通りの筋書きだった。
それから幾日か経った満月の夜に、老猫が吉田屋を訪れた。
老猫は事が大きくなる前に手を引けと諭したが、黒猫は首を横に振り、余計な真似をするのであれば手心を加えないとして、鼻息荒く追い返した。
日が経つ毎に、ほんの少しずつではあるものの櫻良は正気を取り戻し始めた。宋次郎に組み敷かれてからの記憶がなく、どうして自分がこのようになっているのか分からないと弱々しい苦笑を漏らしていたが、それは本能が受け止めきれぬ記憶を消失させたからなのか。
とにかく鬼胎を抱いていた存在が消えたため、櫻良の表情が柔らかくなっていく様を見るだけで黒猫は満足だった。これからどうするべきか考えなければならないと思いつつも、それを急ぐ理由はなかったため、つい先送りにしてしまっていた。
巫琴が吉田屋に乗り込んで来たのは、それから一箇月後だった。




