本幕 其ノ拾七
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
珠の表情が彫像のように固まった。
あの娘。翁がそう呼ぶのはひとりだけだ。
なぜ。空回りする思考は延々とその言葉を繰り返す。
突如として湧き上がった情動に駆られた珠は、翁の喉元に腕を伸ばしかけたが、理性を総動員させて既の所でそれを抑え込んだ。
翁が櫻良に抱いている感情など端から分かっていたものなのだ。それに怒りをぶつけたところで何ひとつ改善しない。
落ち着け。何度も自身にそう言い聞かせたものの、焦燥感と偏頭痛で炙られるのに耐えきれず、蹲ると激しく嘔吐した。
動じるな。顔を上げれば、翁は視線でそう語りかけてきている。
試されているのか。珠は口元についた胃液を袖で拭いながら思った。
分かってない。そのような真似をせずとも、結果など端から明白なのだ。
どこかで櫻良の悲鳴が上がったような気がした。
ただの幻聴に過ぎないと理解してはいたものの、激情で摩耗していた理性の糸がぷつりと切れたのと、左手で着物の上から右腕の傷を抉ったのはほぼ同時だった。
大きく見開いた眼に殺気を滾らせ、表情を歪めて犬歯を剥き出しにすると、珠は弾けるように離屋から飛び出して庭を駆け抜けた。そして庭木の陰にいた小さき者を摘み上げると、板垣を飛び越えて全速力で吉田屋へと向かう。
翁の険しい声が背中にかけられたが、珠は足をいささかも鈍らせない。
吉田屋への道中。提灯を手に警邏している御手先に見つかり、制止するようにと命じられたが、珠はそれを無視して長屋の屋根から屋根へと跳舞する。その人間離れした動きに驚いたのか、御手先は呼笛を吹かなかったが、それは双方にとって幸いだったに違いない。
時刻は五ツを回っていた。紅屋町で並ぶ店は既に閉じている。
隣の屋敷の屋根から大きく跳んで、珠は吉田屋の中庭に着地した。
驚倒に息を呑む音が空気を振るわせた。偶然にも中庭にいた小僧が、珠を見たのだ。
小僧は手に持っていた木刀を落とし、ふらふらとよろめいた後に尻餅をついた。鎌鼬が現れたとでも思ったのか、這って逃げ出そうとした小僧の右足を珠は握り潰すような力で掴むと、力任せに引っ張って持ち上げる。
逆さに吊された恰好でがたがたと震えている小僧を、珠は瞳孔が開いた眼で見据える。
「櫻良は」
「な、な、な、なんですか」
「櫻良は」
心底怯えたのか、小僧は壊れたように何度も頷いた。
ふいに珠が足を放したため、落ちた小僧は地面に頭頂部をしたたか打ちつけた。しかし恐怖心は痛みを凌駕したようで、呻き声ひとつ漏らす間もなく屋敷の中に駆け込み、その背を珠は追う。
泥酔しているような小僧の覚束ない足取りに業を煮やし、珠は右手で小僧の襟首を掴んで持ち上げた。小僧は今にも泣き出しそうな顔をしているが、声ひとつ漏らすまいと必死に呼吸を止め、順路を震える指で示す。凄まじい速度で珠が駆けているにも係わらず、薄明かりの廊下では小僧の掠れた息遣いが際立った。
「あ、あそこです」
小僧が震える人差し指を向けた部屋の襖を、珠は駆けてきた勢いのままに蹴破った。
そこは相部屋となっており、六組の布団が敷かれていた。
突然の物音に寝ていた娘たちが体を起こす。何が起きたのかと不満を口にするも、暗がりの中で鬼のような形相をしている珠を見て心身を硬直させる。
「櫻良は」
娘たちの視線は一斉に部屋の奥に向かうが、その先の布団の中には誰もいない。おそらくそれが櫻良の布団なのだろう。
分からない。娘たちの怯えた視線からそう読み取れる。
珠は苛立ちをぶつけるかのように振った拳で柱を叩き折った。反射的に娘たちの口から悲鳴が上がった。それが余計に珠を苛立たせる。
騒音は屋敷中に響いていたようで、何事かと奉公人たちが駆けつけてきた。そして殺気を放つ眼を爛々とさせている珠を見た者たちは威圧され、蛇に睨まれた蛙のように次々と硬直していく。
人垣を掻き分け、「どうしたんだ、こんな時間に」と言いながら宋太が姿を現した。寝起きなのか緊張感のない表情をしていたが、珠の表情を見て息を呑んだ。尋常ならぬ状態と察したようだが、すぐに平静を装う。
「まずはなんの用なのかを説明してもらえないか」
「櫻良は」
「君たちは知ってるかい」
宗太は周りの者に問いかけるが、それに応じる声はいない。
ならばもう用はないとばかりに掴んでいた小僧を放り投げると、珠は室内を駆け抜けて窓から外へ躍り出た。小僧は押し入れに頭から突っ込んでしまい、何やら喚いているが、それは珠の関心を一瞬たりとも惹かなかった。
屋根の上に上った珠の右手の中から「痛イ、痛イ」という呻き声が漏れる。
珠は眼前の右手の中でもがく、屋敷で捕まえた小さき者の顔を睨めつけた。
鼠。問題は、その身にほんの僅かな妖力を宿している事だ。
「何者だ」
「狗」
「誰の」
「ミ、巫琴」
鼠は体を捩りながら言った。狭い額から出血しているが、それは珠が柱を叩いた時の衝撃によるものか。隙あらば逃げ出さんとしているようで、珠の一挙手一投足に注視している様が感じられる。
「これから聞くことに答えろ」
「断ル」
「自分の立場を分かってないな」
「ソレ、オ前」
「どういうことだ」
「監視サレル」
「誰に」
「狗」
珠はひとつ舌打ちをし、辺りの様子を注意深く探る。
不審者の気配は感じられない。しかし、鼠が虚言を吐いているようには思えない。
「いつから視てた」
「儂、四日前」
「他の奴は」
「ソレ以前。信用ナイ」
鼠は開き直ったように甲高い声でけたけたと笑う。
珠は右手に力を込めて鼠を黙らせる。
このまま握り潰すか。衝動的に更に力を加えようとしたその瞬間に、一丁ほど離れた商家の陰で何者かの妖気が瞬き、珠は我に返った。
妖気に敵意はなかった。警告のつもりなのだろう。
冷静になろうと珠は深く息をつき、視線を鼠に戻す。
「巫琴からなにを命じられた」
「監視。珠、櫻良」
櫻良を。そう呟いて珠は目を見開く。
「櫻良は本当に浚われたのか」
「イル」
「どこにいる」
「馬入川」
以後も鼠は何やら言っていたが、珠はそれを無視し、並ぶ商家や民家を、そして草木を分けるように敷かれている小道を駆けて馬入川を目指す。
監視していた狗など、邪魔をせぬ内はどうでもいいと切り捨てた。
今は何よりも櫻良の無事を確認したい。息が上がり、全身を疲労の粘膜に覆われるが、そのたびに右腕の傷を抉って精気を奮い立たせ、全速力で走った。
強く握り締められているため、顔色が悪くなった鼠が目を白黒させながら泡を吹いている。少しでも楽になろうともがいていたが、五月蠅いとばかりにより強く握り締めたため、それ以後は余計な怒りを買わぬようにと大人しくなったのだ。
ふいに禍々しく鋭利な妖気を感じた。
慎重になれ。本能の忠言により足が緩むが、それを振り払って跳躍する。
上った馬入川の土手から川辺を見下ろすと、藪の中に白装束が佇んでいた。
櫻良の姿はなく、そして気配も感じない。
何かを考える間もなく「櫻良はどこだ」と問おうとした珠の表情が固まった。
白装束の足下にある着物は、今日、櫻良が着ていた物のように見える。
鮮やかな水色だった布地は赤黒く染まり、所々が破けていた。
無意識の内に亡骸を探していたと自覚した後に、珠は改めて白装束を見る。
注目すべきは白装束が右手で握っている長刀だ。刀身が四尺ほどあり、禍々しい妖気と呪詛を帯びている。これまで斬った者たちの呪詛と怨念を纏っているそれは、妖刀と称するに相応しく、ゆらりと揺れて風を斬るたびに鈍い呻き声のような音を発している。
白装束が妖刀を高らかに掲げると、一丁ほどの空間が隔離された。
結界。一瞬にして世界から色が剥がれ落ち、その内に濃密な妖気が満ちる。
そして白装束は妖刀を脇に構えると、地を蹴り、勢いよく珠に飛びかかった。
珠は用済みとなった鼠を投げ捨てると、懐から抜いた小刀を逆手で持ち、それを右手首に突き立てた。吹き出した鮮血が妖気を纏い、珠の体を包むと、瞬時に肉体が変貌する。
白装束はその様に躊躇せず、妖刀を振るう。
切断された着物と小刀が宙を舞う中で、刃を掻い潜り距離を取ったのは黒猫だった。
朱眼を爛々とさせる黒猫は全身の毛を逆立て、息吹を噛み、威嚇するようにふた又に分かれた尻尾を空に向けて立てた。そして勢いよく地を蹴り、白装束目がけて疾走する。
白装束は妖刀を大上段に構えると、間合いに入った黒猫の頭部に狙いを定め、稲妻のような鋭さでそれを振り下ろした。
が、相応の反応がない。
白装束はすぐさま体勢を低くし、ぐるりと辺りを見回す。
三十匹ほどの黒猫が白装束を取り囲んでおり、それぞれが朱眼を瞬かせていた。




