本幕 其ノ拾壱
電撃大賞長編小説部門に投稿した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
屋敷に戻った珠は、手早く風呂の残り湯で血と汗に塗れた体を洗った。右腕の傷は思っていた以上に酷く、包帯を巻くや否や血が滲んでしまったが、着物の袖でそれを隠せたのは不幸中の幸いというところか。
書斎を覗くと、吉田は大の字になって眠っていた。風邪をひかないように布団をかけたが、鼾をかき、満面の笑顔でもごもごと寝言を漏らしている様を見ていると、散々な目に遭った自分が滑稽に思えてくる。
居間には櫻良が作った夕食が用意されているのだろうが、今は食欲がない。
ひと眠りしたいという欲求を溜息で抑え、離屋の中央で座禅を組む。
瞼を閉じて呼吸を整えていると、雑念がゆっくりと削げ落ち、珠を中心として半丁圏内にある虫の気配や風の流れ、そして草木のざわめきなどを手に取るように感じた。
更に集中力を高めながら、危険性が薄いと判断できた物から順に意識を反らし、他に比重を置く作業を淡々と繰り返す。
今は何よりも白装束の襲来を警戒しなければならない。
暖かな光で世を優しく包み込む日中を陽とし、それを人の界とするのであれば、暴力的な闇で全てを塗り潰さんとする夜中は陰であり、妖の界となる。
知性を持たず我欲で動く低級な妖でさえ、陰の影響力が最も増す丑刻となると歴戦の呪家をも圧倒するが、陽の影響力が最も増す正午となればそれは大きく減退する。妖との交戦は、夜間の襲撃を如何様にして防ぐかという事が最も重要なのだ。
ふいに珠の耳がぴくりと動いた。
敷地に入って来た者がいる。翁だ。
「お待ちしてました」
「存外、遅くなった」
庭木の陰から姿を現した翁は縁側から上がり、珠の前で寝転んだ。口元に苦笑が浮かんでいるのは、昼のように気配を消して接近を覚らせまいとしていたからか。
「ご面倒をおかけします」
「その右腕は」
「つい先ほど歓迎されました」
「鎌鼬か」
「おそらく」
「難儀な話だな」
「まったくです」
珠は渋い表情で言った。痛覚を抑え治癒力を高めてはいるものの、それで苦痛を感じない訳ではない。しばらくは日常生活にいくらかの支障が生じるだろうが、この程度で済めば御の字と言えるほどの相手だったのは間違いない。
翁は鼻を鳴らす。
「先の件についてだが、早速、同胞に情報収集を命じた」
「ありがとうございます」
「魚兵衛という魚屋と榮惠家という南街の置屋が、監視網から外れていたのだが」
「それなら夜が明けたら行ってみます」
「それがいい」
もう用件は済んだとばかりに、翁は踵を返して立ち去る。
珠は姿勢を正し、翁の小さな背に向かって深々と頭を下げた。ふっと脳裏に浮かび上がったのは、昼に花水川の荒屋で翁が口にした言葉だ。この場でそれを重ねて言われなかったからこそ、余計に意識してしまう。
一族から追放に等しい処分を課せられた珠に翁が手を貸してくれていた事を、ただの親切心と思ってはいなかったものの、投資と明言されると強い抵抗感を覚えてしまう。忘恩の徒と罵られるのを恐れてはないが、今後の事を考えると無視し難いのも事実だ。
珠は頭を振って気持ちを切り替え、再び警戒に没頭する。
それからいくらかの刻が過ぎた。
ふと瞼を暖める風に気づく。いつの間にか空が明るくなり始めていた。
「やっと朝か」
珠は天を仰ぎつつ大きく息を吐いた。凝り固まった筋を伸ばし、ゆっくり集中力を解いていくと、思わず大きな欠伸が漏れた。
気づかぬ間に積み重ねられていた疲労を意識してしまうと、ただ座っている事でさえも辛く感じる。少し休もうと思い、部屋の隅に畳んである布団に倒れ込んだ。
小半刻ほど転寝をしていると、敷地に櫻良の気配が入って来た。
いつもより若干早い出仕だと思いながら珠が体を起こしたのと、櫻良が部屋に飛び込んで来たのはほぼ同時だった。
「宗次郎さま、どうしていつもそうなんですか」
やはりこうなるか、と思いながらも珠は素知らぬ顔をする。
「どうしてって、なにが」
「昨日帰ったことです。もう日が暮れていたのに」
「悪かったよ」
「鎌鼬に気を向けてくださいって、何度も何度も言ったじゃないですか。危機感がないにもほどがあります」
櫻良は一分の言い訳も許さぬという勢いでぴしゃりと言った。
そもそも帰宅を引き留められると思ったからこそ、球は帰りがけに櫻良に顔を見せなかったのだが、もちろんそう言えるはずがない。
「ぼくも泊まりたいとは思ったんだけどさ」
「それならどうしてですか」
「心配だからだよ。ご隠居が」
「それは分かりますけど」
「櫻良だって、ご隠居を放っておけなんて思ってないでしょ」
吉田の安全を盾にされると、櫻良がそれに異を唱えられないのは分かっている。
唇を尖らせ、上目遣いに珠を睨んでいた櫻良だが、その目が大きく見開かれた。
「どうしたんですか」
気づけば櫻良の視線は珠の右腕に注がれていた。
珠はつい顔をしかめた。転寝で右袖が捲れ、血が滲んだ包帯が見えてしまっている。
「なんでもないよ」
「見せてください」
「本当になんでもないって」
「それなら見せてください」
櫻良は一歩も引かず、珠を正面から見据えて言った。
「まあ、別にいいんだけど」
珠は大げさに溜息をつき、もったいぶるように右腕をゆっくりと持ち上げた。心配そうな目で見てくる櫻良に苦笑を返すと、包帯をゆっくりと解く。
顕わになった肌には傷ひとつなく、そして血で汚れてもいなかった。
包帯の様子からかなり酷い怪我だと思っていたらしい櫻良は、大きく安堵の息をつき、次いで思い出したように珠を睨む。
「驚かさないでください。心配して損しました」
「腕が痺れたから包帯を巻いただけなんだよ」
「それなら包帯が血で汚れているのはなんでですか」
「さあ、前に汚れたのを捨ててなかったんじゃないの」
汚い包帯だとみっともないという櫻良の小言を受け、珠は綺麗な包帯を巻き直した。
「話は替わるけど、今日のことは聞いてるの」
「はい。若旦那様から、鎌鼬の調査のお手伝いするようにと」
「行きたいと思ってるのは、魚兵衛と榮惠家の二箇所なんだよ」
「なんだ、そうなんですか。てっきり全部行くんだと思ってました」
櫻良は当てが外れたような表情をしたが、それでも声はいつもより弾んでいた。大義名分を背に鎌鼬の調査に携われるのだから、意気揚々としているのだろう。
珠は昨夜に宗太から受け取った袱紗を櫻良に渡した。
「十五両あるから、五両ずつに分けておいてよ」
「お香典ですよね。相場よりかなり高い額ですけれど」
「それで構わないよ。多くて嫌がられることなんてないだろうし」
「またそんないい加減な」
櫻良は呆れたように言った。
そういえば、と珠は話の矛先を替える
「昨日、言い忘れたんだけど」
「なにをですか」
「ぼくが半年くらい前に放火魔について調べてたの、昨日の娘が知ってたじゃない」
櫻良はばつの悪い表情をする。
「すみません」
「やっぱり櫻良が言ったんだ」
「あたしはぜんぜん覚えてないんですけど、ぽろっと漏らしてたみたいです」
「後ろ暗いことじゃないけど、話さないでもらえると助かるな」
もう一度すみませんと謝りつつも、櫻良は不思議そうに小首を傾げる。
「でもそれって隠すようなことなんですか」
「お上からすると面白くないだろうしね」
「体面を考えるより早く解決してほしいって思います」
「それはそうだけど、若旦那からそうしろって言われてるんだよ」
「それなら分かりました」
納得したというように、櫻良は素直に頷いた。
吉田屋の奉公人たちは宗太に信頼を寄せている。櫻良もそのひとりだ。宗太なりの考えがあるのだろうと思うようで、その直前まで疑問や不満をもっていても、それをあっさりと打棄ってしまう。
いつもなら面白くないと想うところだが、このようなときは便利だ。
「それと、櫻良の代わりなんだけど」
「茜ちゃんのことですね」
「誰が来るか決まったんだね」
「最近入った新人の娘なんです。もう少し後で来る予定です」
「多くのことは期待しないよ。来てくれるだけでもありがたいんだから」
「またそんなこと言って。本当にいい娘なんですから」
櫻良は珠をあやす様に言うと、朝食を作りに母屋へと向かった。
珠は再び寝転がると大きな欠伸を漏らした。そして右腕に巻いた包帯が再び血で汚れているのを確認し、大きく息をついた。




