5、翻る反旗 前半
【5、翻る反旗】
リンは自分の額を片手で覆ってうっとりと陶酔していた。
ひやりと冷たく吸いつくような、しかしほのかに温もりを含んだ、シマの大きな手。それは、軍人だから当然なのだが、思っていたよりずっと堅くて、見た目よりずっとざらりとしていた。
何度も何度も思い返し、思い返してはにやける。あの感触を。あの声を。自分を気遣ってくれたあの言葉を。
『何かあったらどうする。』
(―――それって、俺には怪我してほしくないってことですかシマさんっ? 俺が怪我をするのは嫌だってことですかシマさんっ! ふわぁあああっ!)
緩々の口元から溢れ返った甘美な溜め息、それが瞬時に欠伸に切り替わり、リンはカウンターに突っ伏した。どうしようもなく眠たい。けれど、目を閉じると、シマの冬空のような瞳がこちらを見ているので、どうしようもなく眠れない。
今いるここは食堂ではない。シュウシャ自治区D‐6にある、CCレジスタンス第17師団の基地の地上部だ。3階建てのビルの1階。もともとはバーであったらしく、カウンターと赤い丸椅子がそのまま残っていたので、有難く使わせてもらっているのである。
後ろでドアが開き、上部に取り付けられている木の板がガランガランと風情のない音を立てた。誰か来たらしい。すん、と、リンは鼻を鳴らしてから、振り返った。
「おかえりなさーい、ハジメさん。」
「よお、リン! ただいま! 元気そう・・・だな?」
リンは、自分の育ての親の帰還を欠伸でもって迎えた。ラグビー選手のような体躯の彼は、リンたち第17師団の団長であり、レジスタンス全体の幹部の1人でもある。彼は怪我で半分に途切れてしまった右眉を胡乱げに持ち上げた。
「どうした? ずいぶんとまぁ、眠そうだな。」
「んー、ちょっと最近、寝不足ぎみで・・・。」
「おいおい、しっかりしてくれよ〜、お前さんはうちのエースアタッカーなんだからよ。」
「うん、分かってる。戦闘には影響させねぇから・・・ふあぁああ〜うぅ。」
「ったく、説得力ねぇなぁ。少し寝てきたらどうだ?」
リンは首を振った。寝ようとすればするほど眠れなくなるのだから、何をしようと無駄だ。原因ははっきりしているが、記憶喪失にでもならない限り問題解決には至れないし、そんな勿体ないこと出来ようはずもないので、結果、寝不足を妥協するしかなくなるのである。
ハジメさんは大きなバックパックを放り投げるように置き、リンの隣に座った。
「会議、どうだったー?」
「んー、まぁ、な・・・。」
ハジメさんは口をすぼめた。レジスタンスの数ある師団の各長たちは、年に2度、首都に集まって会議を行う。シュウシャ自治区は首都に近いので、「行き帰りは楽なんだがなぁ。」とハジメさんはよく言う。
「相っ変わらず、爺さんどもの愚痴ばっかで、嫌んなっちまうぜ本当によぉ。」
「お察ししまーす。お疲れー。」
「うーい、どーもっ。」リンの口先だけのねぎらいをハジメさんは素直に受け取った。「で、俺がいない間、大丈夫だったか? 何事もなかったか?」
「あー、うん、特に何も。CCの襲来が2回だけ。B‐6で規模30と、C‐12で規模40。どっちも俺が1人で出た。」
「1人で? ったくお前は、また無茶しやがって・・・。怪我しなかったか?」
「おーう、平気だったよー。シ、ええと、正規軍さんが、結構早く来てくれて――」
言葉の途中でリンは口をつぐんだ。シマ達の功績を自慢したいがために、思わず口が滑ってしまった――ハジメさんの根深い軍人嫌いをすっかり忘れて。
「・・・へぇ、そうか。」
その相槌の冷たさに、リンは震え上がる。
「リン。軍人を頼りにするくれぇなら、1人で出るな。忘れたのか? アイツらの怠慢を。―――その所為で、俺たちが失ったもんを。」
憎悪に満ちた横顔を見つめ、リンは唇を噛んだ。ハジメさんも、化け物に奥さんと息子さんを殺されている。あわや自分まで、というギリギリのタイミングで正規軍が到着し、ハジメさんは助かった。―――勝負は、ものの数十秒で付いたらしい。それだけに、どうしてあと10秒早く来られなかったのかと――そして、どうせ遅れるならどうしてあと10秒、遅れてくれなかったのかと――ハジメさんは軍を怨んだ。そうして、レジスタンスに入ったのだ。
「アイツらはクソだ。腐ってやがる。民間人のためだとかうそぶきながら、実際にゃあ何もしちゃあくれねぇ。来んのは遅ぇし、最後の1匹撃ち殺しただけで、それをへーぜんと手柄にしやがる。――あんな奴らには頼っちゃいらんねぇ。だから俺らはレジスタンスにいんだろうが。自分の身は自分で守れ、って、アイツらが俺らに思い知らせたんだろうが。」
リンには彼の気持ちが痛いほどよく分かった。だから、
「そうだろう? リン。」
「・・・うん、ハジメさんの言う通りだ。」
そう言って、頷くことしかできなかった。
シマの手の温もりが急速に遠退いたような気がした。
リンは席を立った。
「俺ちょっと出てくる。」
「ん? おう、気を付けろよ。何かあったらすぐに連絡入れろ、いいな。」
「わぁってるよ。」
心配性だなぁハジメさんは。などと笑いながらドアを開ける。木の板が鳴り、外の生温い空気が前髪を数ミリ持ち上げ、リンは足を止めた。本当にごく僅かだが、鼻に付く臭いを感じた気がした。大きく深呼吸すると、その異様な汚臭はますます強く濃くなり、リンの肺の中を満たした。腐った卵を賞味期限切れの油で炒めたような――これは、死の臭い。
「ハジメさん、CCだ!」
リンが切羽詰まった声で告げると、彼は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「なにっ? 場所はどこだっ!」
「んー・・・たぶん、西・・・・・・いや、南西方面かな。とりあえず、索敵も兼ねて、俺さきに出るよ! それじゃあ!」
「あ、おい待てリン! 1人でなんて無茶―――」
ハジメさんの制止を木の板で遮って、リンはバイクに飛び乗った。キーが刺さったままだった。シマに怒られちゃうなぁなどと思いながら、荒々しい動作でエンジンを吹かし、次の瞬間、弾丸のように飛び出す。臭いがより濃くなる方へ。死に最も近い場所へ。
(あー、これは・・・そこそこ多そうだなぁ。80っくらいかな? ・・・ちょっと1人じゃキツイかも。)
そう思いつつ、リンにはあまり緊張も怯えもなかった。もともと死ぬことに対する恐怖は薄いのだが、最近は余計に怖くない―――それも、『たとえ死んでもそれでいい』という悲観的な許容でなく、『絶対に死なない』という楽天的な確信を持っているが故に。
(ま、シマがいるから、大丈夫だろ。)
†
警報が鳴る。化け物の襲来を知らせる。C‐3地区に数80。
(あの食堂の近くだ・・・。)
そう思うと、シマの足取りはますます速くなっていくのだった。
準備が整う。出動する。曹長がトラックのエンジンをかけ、アクセルを踏もうとした、まさにその時だった。
『え、Xの別の集団を捕捉! B‐8地点! 数60!』
『D‐2地点に第3グループ確認! 数60!』
『D‐10にも確認・・・! 数、90!』
『C‐13にも出ました! 数・・・数、70!』
トラックの通信機から次々に流れ出る緊迫した声。
「え・・・これはいったい、どういう・・・。」
曹長が呆然と呟いた。
シマの通信機に連絡が入った。タケガワ少将の従兵がか細い声で告げる。
『ヤヅキ中佐。作戦を中断し、今すぐ、司令室へお戻りください。』
「了解。」
シマはトラックを飛び下りた。
「曹長。」
「はいっ。」
「全隊員に、いつでも出動できるよう準備をさせておけ。」
「はいっ。」
異常な事態に陥りつつある。不穏な空気。首筋の毛が逆立っている。心臓が奇妙な音を立てる。腹式呼吸。逸る心を抑えつける。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
いつ見ても灰色の空からは、雲行きの怪しさなど感じられなかった。
司令室には、タケガワ少将とミシマ大尉、そしてそれぞれの従兵がいた。敬礼をして中に入る。
「さて、」
と、タケガワ少将が切り出した。いつになく真剣な口調だった。
「分かっていると思うが、異常事態だ。とてもじゃないが、我々だけでは対応できん。――そこで、中央本部に援軍を要請した。到着まであと2時間かかるそうだ。」
「それまでは何を。」
「タイキセヨ。」
簡潔な答えだった。シマはそれを母国語と理解できなかった。音は聞こえた。ただ、意味が分からない。タイキセヨ? ―――待機、せよ?
たまらず、と言った風情で、ミシマ大尉が食ってかかった。
「お待ち下さい、少将! 2時間も? ただ、黙って待機するのですか? その間に民間人がどれだけ損害を被ると・・・っ!」
「避難シェルターがあるだろう。勝手に避難するさ。」
「とてもじゃありませんが、全員は入れません! それに、避難経路にも多数Xが出現しております!」
「しかしなぁ・・・これは上の命令なんだ。黙って従いたまえ。」
「そんなっ・・・。」
にべもない返事。少将は自分の意見を変える気は毛頭無いらしい。彼はそう言う奴だ。絶句した大尉が、すがるようにシマを見る。
シマは黙って、少将の襟章を睨みつけていた。階級を表す黒い線と、1つの花。そこに敵がいるとでも言うように。――事実、それは敵だった。軍人にとっては、最大にして最強の敵。
シマは身体が冷たくなっていくのを感じた。4文字の自己嫌悪が中心を蝕む。敵前逃亡。自分はまた逃げるのか。あぁそうだ、逃げてしまえば楽になる。背を向けて、目をそらして、何も考えなければ、苦しいことなど何もない。命令にさえ従っていれば、自分に害は及ばない。そうだ、自分には守りたいものなど、何1つとしてないのだから―――
『シマっ!』
―――瞼の裏で火花が散った。ぱっと眼を開き、そこで初めて自分が瞑目していたことに気が付いた。何かが切れた。いや、点いた、というべきか。これまでに味わったことのない感覚だった。拍動が急激に速度を上げる。不安と恐怖。それから勇気。身体が芯から熱を放つ。
タケガワ少将がこちらを指差す。
「さぁ、ヤヅキ中佐。指示を出しに行きたまえ。」
「・・・わかりました。」
「中佐!」
頷いたシマに、大尉が責めるような声を上げた。シマは、「ミシマ大尉、今から私のすることに一切異を唱えるな。」
「中佐・・・。」
「さすが、ヤヅキ中佐はよく分かっているな。はっはっはっ。」
捨て犬のような情けない声。机の下で揺れる腹。
シマはそれらを完全に無視して、毅然と言い放った。
「今から、命令違反、独断専行をする。」
「えっ?」
「なんだとっ?」
流暢な宣言に全員が動揺した。シマは冷たく凄んだ。
「待機、だと。そのような命令を、私が承服するとでも思ったのか。」
シマはもはや敬語すら使う気はなかった。どうせ命令に逆らうのだ。懲戒免職は免れ得ない。ならば遠慮は必要ないだろう。この際、日頃の怨みも込めてしまえ。
(そもそも私はこいつが嫌いだ。)
シマは決然と少将に近付き、
「どうせ貴様には何を言っても無駄だろう。説得している時間が惜しい。」
躊躇いなく銃を抜いた。真正面から突き付ける。もちろん、脂でてらてら光っている額には、間違っても接しないように気を付けながら。
「ひぃっ。」
脂肪の塊が息を飲んだ。シマは淡々と脅す。
「銃を出せ。早くしろ。」
ぷるぷると微振動するたるんだ手が、ゆっくりと、銃を机の上に置いた。それを取り上げ、大尉に投げ渡す。
「少将以外、全員外へ出ろ。」
銃を片手にしたまま、シマは顎で命じた。誰も動かない。シマはグリップの底で机を叩いた。鈍い音が部屋に響き、全員が肩をびくりと震わせた。
「――出ろ。」
極めつけはシマの氷の視線だった。従兵たちが真っ先に、逃げるように扉を開ける。
「きっ、貴様っ、こんなことをして許されるとでも思って―――」
現場を知らないデブがきーきー喚いている。シマは無慈悲に扉を閉めた。ネクタイを取る。両開きのドア。2つのノブに巻きつけて、きつく縛った。これでもう出られまい。
シマはドアの前に立ち、大尉と従兵の3人を見遣った。
「中佐・・・!」
信じられない、と言いたげに目を見張った大尉が呟いた。シマは少しだけ気恥ずかしい思いがした。誤魔化すように咳払い。銃を仕舞う。大きく深呼吸を1つ。さて、ここからが本番だ。やってしまったからには、やり通さなければならない。失敗は許されない。
左から順に視線を投じ、指示を下す。
「君は通信室へ行き、少将を戦線から離脱させたことを伝えろ。それから、司令室の通信機能をすべて遮断するように言え。」
「は、はいっ!」
「君は、全員に戦闘準備をさせた上で、各分隊長を正面ホールに集めろ。タガミ曹長に言えば協力してくれるはずだ。」
「はいっ!」
「大尉、君は私と一緒に来い。作戦を検討する。」
「はいっ。」
全員が一斉に動き出す。
シマは右手を強く握りしめた。やっておいて今更だが、まさか、自分にここまでの行動力があるとは思いもしなかった。やらかした、とも、遂にやってやった、とも思う。どちらにせよ意外だった。―――守りたい、と、思う者ができたからだろうか。死んでほしくない、と、思う者がいるからだろうか。
(彼はきっと、今も1人で戦っている・・・。)
そう思うと、命令違反どころか、勝手な指示を出すことすら放棄して、基地を飛び出したくなった。心臓が痛い。いや、違う。心臓じゃない。もっと奥の、自分でも知らない部分が痛い。
(くそっ、腹立たしい・・・っ。どうしてこんなに気にかかる。落ち着かないし、腹が立つ。怖い。嫌だ。なんだ、なんでこんなに怖いんだ。・・・失いたくない。死なせたくない。どうか、どうか間に合ってくれ―――いや、)
シマは誓うように、声を絞り出した。
「・・・絶対、間に合わす。」
†
C‐3地点へ向かう途中の路地裏で、リンは咄嗟にブレーキを引き、バイクから転がり落ちるように降りた。何の前触れもなくCCの臭いが一気に濃くなり、四方八方から押し寄せて来たのだ。背後から頭を殴られたようだった。
(臭ぇっ! なん、なんだこれ、うわ、くっさぁああああっ。)
鼻と口を片手で押さえる。この臭いにはだいぶ慣れてきていたのだが、ここまで濃くなられると、とてもじゃないが耐えきれない。人間が許容できる範囲をとうに超えている。押さえ込んでもまだ鼻腔に突き刺さってくる刺激臭に、涙が滲んできた。小さな密室でシュールストレミング(世界一臭いニシンの缶詰)を開けたらこんな風になるのだろうか。
「げほっ、ごほっ・・・う、おお、うえぇぇぇ。」
昼飯を吐いてしまいそうだった。混乱が先に立つ。こんなに強い臭いが立ち込めるのは初めてだ。いったい、何が起きていると言うのだろう。臭いが濃すぎて数など見当も付かない。いや、たとえ分かったとしても、こんな状態では戦えない。
リンは途轍もない頭痛と吐き気に襲われて、バイクに上体を預けて膝をついた。モノクロになった視界に、埃のような白い光がチカチカと舞う。すべての音が遠のいて、キーン・・・と耳鳴りが右から左へ脳を貫いた。息が出来ない。できたとしてもこの臭いだ。一呼吸ごとに意識が薄らいでいく。もしも今、CCどもがここへ来たら―――
(まずい・・・確実に、死ぬ・・・っ!)
リンは意識を手放すまいと、バイクにしっかとしがみついた。
嫌だ、死にたくない。死にたくない! こんなところで気絶して、化け物どもに貪り食われるなんて、絶対に嫌だ。どうせ死ぬなら戦いの中で、1体でも多く殺しながら、死にたいのに。
(父さん、母さん、姉ちゃん・・・。)
復讐のために生き、復讐のために死のう。10年前、皆が殺された時に、そう誓ったんだ。命が続いていく限り、全身全霊を懸けて、あの怪物どもを殺し尽くすと。あぁでも駄目だ。もう何も見えない。何も感じない。身体から力が抜けていく。意識が真っ黒に塗りつぶされていく・・・自分は、ここで死ぬんだ―――
『なぜ、そんなに死に急ぐ。』
―――ぽろりと零れ落ちた月の涙のような、寂しそうな声が聞こえた。愛しい人。結局、彼の笑う姿は1度も見られなかった。
「っ・・・シ、マ・・・。」
それを最後に。
ひときわ強い臭気の波が怒涛のように押し寄せてきて、リンはバイクの陰に隠れるように崩れ落ちた。




