2、眠れぬ夜
【2、眠れぬ夜】
シュウシャ自治区C‐2。
全国でもそこそこの人口を誇る下町である。まだどうにか機能している商店街に、密集している住宅地。かつてはきちんと整備されていたらしいコンクリートの道はところどころめくれてボロボロになっていて、電話線くらいしか繋いでいない電柱には弾痕がいくつも残っている。何も通らない線路は子供たちの恰好の遊び場となっていた。
―――わーわーきゃーきゃー・・・
子供たちの無邪気な甲高い声を聞きながら、リンは馴染みの食堂のカウンターに突っ伏していた。大きく欠伸を1つし、それから溜め息。
「はぁー・・・。」
「なーんだいリン。辛気臭い顔してんじゃないよ、ったく。」
辛気臭いのは世の中だけで十二分だぁね、と言いつつ食器を拭く食堂のおばちゃんに、リンは思い切って言ってみた。
「・・・ねぇ、おばちゃん。」
「ん? どうした。」
「実はさぁ・・・俺、一目惚れしたかもしれねぇんだ。」
「あぁ、そいつは間違いなく勘違いだね。」
「え、ちょっ、」
あまりに素気なく非情な宣告に、リンはがばっと身を起こした。
「一目惚れなんてのはね、今日び夢見がちな乙女でもしやしないよ。そんなことを言う奴ぁ大抵、恋に恋して誰彼構わなくなっちまってんのさ。」
「う、うぅ・・・。」
その通りかもしれない。自分より数倍長く生きている人が淡々と言うものだから、リンは思わず納得しそうになって、いや待てよと自分を強く持ち直した。
(別に俺は、恋に恋してなんかいねぇーし! 誰彼構わなかったら、もっと近場の奴にするっての。それに―――)
「ちなみに、いったい誰に惚れたってんだい? あんたは昔っから、どんなべっぴんさんに迫られてもまったく興味を示さなかったじゃないか。あんまりつれなくするから、タバコ屋の嬢ちゃん、泣かしたこともあるくせに。」
「いつの話だよそれ・・・。」
「そんな奴が言うに事欠いて、一目惚れたぁね。で、どこの誰様だお相手は?」
「んー?」
リンは勿体ぶってカウンターに両肘をついた。この数日で、単なる興味が募りに募り、今すぐ彼に会いたいと思うまでになっていた。何をそんなに惹かれているのかは分からないが、彼の名前を思うだけで顔が浮かんできて、一瞬で怪物を仕留めた鮮やかな手際や、まさかの窮地にも揺らがなかった姿勢や、温度のない感謝を想起し、意味もなく嬉しくなってくる。記憶は時を追うごとに、薄れるどころかむしろいっそう色鮮やかになり、リンの中枢を占領していった。気付くと彼のことを考えてしまっている。あの冬の清流のような声が確かに自分の名前を呼んだ瞬間を、繰り返し繰り返し再生しては、昨晩も眠れぬ時を過ごした。もっと話したい、もっと近付きたい、と思う。あの能面みたいな表情を俺の手で崩してみたい、と―――これを『恋』と言わずして何と言う?
緩みきった頬をそのままに告げる。
「正規軍の、ヤヅキ シマっていう奴。」
心底幸せそうに言ったリンに、おばちゃんはぴたりと動きを止めた。
「正規軍? ・・・男?」
「うん。」
「・・・・・・はぁー、なるほどねぇ・・・女になびかないわけだよ、これじゃあ。まさかあんたが、ソッチ系だったとはねぇ・・・。」
「なんだよう、いーじゃんか別に。本当にかっこいい奴なんだって!」
「おーう、そうかいそうかい。いいさ、好きにしな。ま、前途多難だろうけんねぇ。ヤヅキ、っつったら、正規軍の総帥の息子だろうし。」
「・・・へ?」
ぽかんと口を開け広げるリンに、おばちゃんは飄々と言う。
「正規軍総帥ヤヅキ マヒト。その息子だろう? この地区の中佐だか言う、ヤヅキってなぁ。―――なんだいあんた、知らなかったのかい?」
「え・・・えぇー・・・・・・マジで?」
思いもしなかった情報に、呆気に取られるリン。
(ヤヅキって何っか聞いたことあるなぁと思ったら・・・つまりシマって、エリート軍人一家の出なのか? それで、軍隊にいるのか?)
おばちゃんはニヤリと笑った。
「なぁんだ、一目惚れなんつって、やっぱり勘違いじゃないか。身分の差に怯えるなんてねぇ。はんっ、情けない。」
リンはむっとして、即座に言い返した。
「そんなことねぇもんっ! 俺は本気なんだからな!」
「はいはい、そう言うこたぁ、3回会ってから判断しな。」
「もう6回か、7回くらいは会ってるし!」
「んで、この間初めて名前を知ったって? ったく、遠くから見るだけじゃあ、『会った』のうちに入んないよ。」
「うっ・・・。」
「3回会って、きちんと話して、それでも好きだと思ったら――」
「思ったら?」
「――そいつは本物なんだろうよ、たぶんね。3回も会えば、それが友情か恋情かっつー区別もつくようになるはずさぁ。まずは会うこと。そんで、話すこと。気持ちの形が決まるまでぁ、下手な真似ぁしない方がいい。」
「・・・・・・。」
「分かったかい。」
「・・・うっす。」
リンは、おばちゃんの言葉を肝に銘じた。まずは会うこと、話すこと。気持ちの形が決まるまでは、絶対に動かないこと。さすがに長く生きているだけあって、正論だなぁと納得した。
†
シマは、そこはかとなく眠れぬ日々を過ごしていた。寝ていないわけではない。夢も見ない。それでも、どこか寝た気がしなかった。
別段、機嫌が悪いわけではない。険しい顔はもともとだ。無口なのも知れたこと。しかし、なんとなく部下たちが、いつも以上に自分を避けているような気がする。その態度が余計に心をささくれ立たせる。本当に自分が苛立っているような気にさせられる。
「やあやあ、中佐。どうした、ずいぶん機嫌が悪そうじゃないか。」
ここ『シュウシャ陸軍基地』における最高司令官、タケガワ少将が声をかけてきた。恰幅が良く、最初から将校の地位に就いているエリートである。言葉を選ばずに言うなら、現場を知らないデブである。
「なにかあったのか? ん?」
「いえ、何も。」
「頼むぞ〜、君に何かありでもしたら、私の首が飛びかねんからなぁ。」
はっはっはっ、と笑うたびに腹の肉が揺れる。軍服のボタンが今にも弾け飛びそうで、
(いま弾けたら確実に私は被弾するな。)
などと余計なことをシマに考えさせた。
タケガワ少将が肩に手を置いてきた。
シマは払い除けたい衝動を必死にこらえた。現場を知らないデブでも上官は上官。無礼な真似は出来ない。
シマの纏う不穏な空気など意にも介さず、タケガワ少将は腹を揺らす。
「何て言ったって君は、ヤヅキ名誉総帥のお孫さん。そして現・総帥の息子さんだものなぁ。そういえばお兄様もこの間、中将に昇進なさったらしいじゃないか。おめでたいことよ。」
「ありがとうございます。」
「君も、最年少の中佐だしねぇ。ところで、君はいくつだったかな?」
「今年で23になります。」
「にじゅうさん! 若い、若いねぇー。同じ頃の私は〜、まだ曹長だったかな。まぁ、これでも充分出世は早い方だけどもねぇ。君には負けるよ。はっはっはっ!」
期待しているからね、頑張ってくれたまえ。上機嫌にそう言って、肩を軽く叩き、タケガワ少将は去って行った。
シマは軍服を着替えるもっともな理由を考えながら歩き始めた。肩口に油が固まっていそうだ。シマは潔癖症ではない。しかし、ドーナツを食べた手で電話機を触り、レモンを絞った手をズボンで拭く、そんな男に触れられて嬉しがる輩などこの世にはいまい。
その時。ふと、手首の上の辺りに奇妙な感触が蘇った。シマは眉間にしわを寄せる。
前からやってきた一般兵が機敏に飛び退いて道を開けた。
(鬼でもいたのだろうか。)
シマは、聞いてみようか、と少しだけ思った。しかし、いま口を開いたら思ってもみない言葉が出てしまいそうだった。なので、やめた。
シマの機嫌がどんどん悪くなっていくことは言うまでも無い。しかし、原因が分からないどころか、彼には『自分は不機嫌だ』という自覚すら無いため、直しようがないのは自明の理だった。
†
その数日後に、2度目の邂逅のチャンスはやって来た。B‐6地区に化け物が現れたのだ。不謹慎にも喜びそうになって、リンは顔を引き締め直す。規模は30程度。
(へへっ、ヨユーだなっ。)
今日はショパンのノクターンOp.9-2にしよう。数が少ない時にはいつもこの曲にしている。細雪の降る穏やかな一夜を歌う優美な旋律。眠れない夜にぴったりの1曲だとリンは思っている。
一般人をかばいつつ、10体ほど片したところでシマの部隊が到着し、リンは後ろに下がった。圧倒的な火力が化け物を一網打尽にする。これだけの武力があっても救えない人がいるのが、リンには何とも腹立たしく、もどかしかった。
(まぁ、それとシマとは話が別なんだけど。)
もしもシマが軍人じゃなかったら。もっと簡単に話せたのだろうか。普通の人同士、もっと単純に恋することができたのだろうか―――リンは考えるのをやめた。そもそもの出会いを否定してどうする。シマも自分も、戦場に生きる人種だからこそ出会えたのだから。
「シマ!」
勢いで『会いたかった!』と口走りそうになったのをどうにかやり過ごし、リンはシマに駆け寄った。
シマは無表情でリンを迎えた。じっ、とリンを見て、何か考えているようにも見えるのだが、彼の表情の硬直性はすさまじいもので、リンには何も読み取れない。もともと、表情を読むのは苦手なのだ。こういうものは気にしないが勝ちである。リンはシマの真正面に立って、満面の笑みを浮かべた。
「やぁ、シマ。この間ぶりだな。元気してたか?」
「・・・まぁ、普通だ。」
「そっか、それは良かった。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
そこで会話が途切れた。
(あ、っとー・・・やべぇ。どうしよう。いろいろ話したいんだけどなー。シマのこと、いろいろ知りたいし。好きな食べ物とか、趣味とかさぁ。ええと、何て切り出そうか・・・あれ? んー・・・俺っていつも、人と話す時ってどんな風にしてたっけ・・・?)
少なくとも、こんなにいろいろ考えながら話してはいなかった気がする。もっと、自然に、流れに任せて―――
「なぁ。」
唐突に、シマが口火を切った。
「あ、うんっ? なに、シマ?」
「お前が今日吹いていた曲・・・あれは、何と言う曲だ?」
「あ、えーとねぇ、ノクターンのOp.9-2ってやつだよ。ショパンって人が、1000年以上前に作曲した曲なんだ。」
「へぇ・・・」
「奇麗な曲だったろ?」
「あぁ。」シマは即座に頷いた。「奇麗だった・・・よく眠れそうな曲だな。」
リンは途端に嬉しくなった。褒められた上に感想が重なるとは。好きな人と偶然考えが一致する瞬間ほど、喜びに飛び上がりたくなる時はない。思わず声が弾ける。
「あ、シマもそう思うっ? 俺も俺も! 本っ当、良い曲だよなー!」
「音楽、好きなんだな。」
「うん。ばあちゃんの影響で。まぁ、こんな世界だからさぁ、大っぴらには出来なかったんだけど、よく地下室で、ピアノとかヴァイオリンとか、聴かしてくれたんだ。すげー楽しかった。」
「そうか。良いお婆さんだったんだな。」
そのコメントに、シマは変わり者だ、と思った。いったん嫌われ、蔑まれ、排除の対象になったものは、その負の印象を根深く人々の意識に植え付ける。今時、『音楽が好きだ』『祖母が音楽を教えてくれた』と言って、肯定的な返答をさらりと返してくれる人など、そうとう社交辞令に慣れた人か、そうとうな変わり者か、どちらかしかいないだろう。そしてシマは後者だ、と思う。社交辞令を言うくらいなら黙り込むタイプのように見える。
歓喜に満たされたリンの口が、つい滑った。
「うん。ばあちゃんだけでも、寿命でぽっくり逝ってくれて良かったよ。」
「・・・だけ、でも?」
「あ・・・」ここで失言に気付き、リンは横を向いた。電柱に貼られた古いポスターを見ながら、できるだけ明るい声を作る。「・・・あー、まぁ、よくある話だよな! 家族全員、CCに殺されて、レジスタンスに拾われて・・・復讐のために、ってさ。どこの三文小説のネタだよ、ってゆーくらい、ありきたりなストーリーだよな。ははっ。」
「・・・笑うことじゃないだろう。」
正論だ。
「笑わなかったら、泣くしかないじゃんか。」
正論には屁理屈を。
「泣いたらいけないのか。」
「いけなくはないけど、ダサイじゃん?」
「私はそうは思わない。」
「じゃあ、俺が泣いたら慰めてくれんの?」
からかうようにそう言うと、シマは黙った。もちろん、即答など望むべくも無かったのだが、それでも少しだけ胸が軋んだ。
(まぁ、まだ2回目だもんな、会うの・・・当然、この反応だよな。黙るに決まってるよな。分かってた、分かってたっての! なーに期待しちゃってんだよ、馬鹿だなぁ、俺。冗談だし、じょーだん!)
リンは口元を意識して引き上げた。せっかく会えたというのに、むっとした顔をしていては嫌われてしまう。いや、その前に、嫌われるも何も好かれてすらいないのだった。そう思うと余計に頬に力が入る。
(やっぱ、一目惚れって勘違いなのかな・・・いや、まさか。)
このままじゃあ駄目だ。ネガティブな方向へしか行けない。とりあえず今日のところは、笑って何か言って話を有耶無耶にして帰ろう――――そう思った矢先。
「・・・やり方を、教えてくれるのであれば。」
不意を突くようにシマが言った。
「・・・はい?」
咄嗟に反応できず、リンはシマに向き直った。シマは軍帽を取って、耳の上の辺りを掻いて、もう一度被り直していた。氷の表情に、ほんの僅かながらバツの悪さが滲んでいるように見える。
「すまない。その・・・私はあまり、人と関わる機会が無かったものだから、知らないんだ、本当に。」
「え、ごめん、何の話?」
「泣いている人間の慰め方だ。したこともされたことも無いから・・・やろうにも出来ない。すまないな。」
「・・・・・・シマ。」
「なんだ。」
「シマって・・・めっちゃ優しいんだな。」
「なんだ、突然。」
シマは眉根を寄せ、口をへの字に曲げた。アイスブルーの瞳や端整な顔立ちと相まって、その表情はひどく不機嫌そうに見える――が、リンの目には違うように映った。戸惑い、困惑し、拗ねる子供。どうしてもそんな風にしか見えない。今の話によると、あまり人と関わってこなかったらしいから、褒められるのにも慣れていないのだろう。
口角がおのずと上がる。にやけ顔になってしまわないように、それを瞬時に笑顔に作り変えて、リンは1歩、シマとの距離を詰めた。誤って抱きついてしまうのを防ぐため、両手ともポケットに突っ込む。シマのブーツの下で砂がこすれる音がしたが、あからさまに後ずさったりはされなかった。ありがたい。
リンは少しだけ、口調を改めた。
「シマ。俺、シマに会えて本当に嬉しいんだぜ。できれば、もっと早くシマに会いたかったな。・・・まぁ、これも巡り合わせってやつか。」
シマは何も言わない。けれど、その無音がかえって耳に心地よい。表情の見えない顔に、無言の目が、それでもリンを拒絶したりはしていなかった。
「俺、そろそろ行くわ。慰め方はそのうち教えてやるよ。じゃあ、またな、シマ!」
すれ違いざまにさりげなく彼の肩を軽く叩き、リンは走り出した。
どこまでも自分の足で走っていけそうな気分だった。
†
シマは助手席に座った。動き出す車。窓の外を見遣る。崩れた外壁。ぼろぼろの電柱。草の茂るビルの跡地。そこで遊ぶ子供たち。閉じない踏切。意味のない線路。枕木の下から咲く花。1つだけ光る白い石。めくれたコンクリート。煤けた看板。どこにも繋がらない電話番号。軍が設置したスピーカーと監視カメラ。倒れたゴミ箱。野良猫の死骸。
普段なら一瞥もしない。そんな物ばかりがやたらと目に入ってきた。シマはそれらを、片端から見ては1秒もせずに忘れていった。この時シマの脳は、ある3単語の記憶に忙しかった。
(・・・ノクターン、オーパス9の2、ショパン。)
信号のように点滅を繰り返し、シマの脳裏に刻まれていく。
(ノクターン、オーパス9の2、ショパン。ノクターン、オーパス9の2、ショパン。ノクターン、オーパス9の2、ショパン・・・)
左肩のあたりがほんのりと温かかった。




