第6話
目の前に閃光が走った瞬間、私はこれまでに経験したことのない光景に遭遇した。
これが夢の中の出来事だったのか、現実だったのかは分からない。ただ、その時目にした光景が、セピア色をしていたのは確かだ。私が大好きな紺青の空じゃない。何年も昔の写真のように色褪せ、くすんだ色をした空だった。その空の下にある物は全て、埃っぽく、荒れ果て、見るべきものはなにも無かった。
地平線の向こうに、人影が現れた。見覚えのある短髪。私は思わずその人影の方へ走り出していた。私は大声で叫んだ。
「カオス!!」
現れたのはカオスだった。しかし、彼の目は、あのきれいなオリーブグリーンの瞳をしていなかった。くすんだセピア色だった。彼は私に気付くと、歩いていた足を止めた。
「にんげん」
彼は低い声でつぶやいた。
「カオス?」
私が問いかけると、カオスは大きな手で私の頬に触れた。
「どこからきた?」
「分からないの。気がついたらここにいて…」
そう言いかけた私の目を見たカオスは、何かに気付いたように目を見開いた。そして、切羽詰ったように早口に言った。
「ここはおまえのいるばしょじゃない。はやくいけ」
そう言うと、カオスは呆然としている私の背中を押した。いつものカオスじゃない。いつものカオスはもっと、私に触れるときは優しく触れるのに。今のカオスは、まるで重たい機械でも動かすかのように、ひどく強い力で私を押した。私はその力に耐え切れず、その場に倒れこんでしまった。倒れこんだ私の目から、涙がぼろぼろ零れ落ちした。
「……どうして?」
声は悲しみのせいでがくがくしていた。震える手で、私はセピア色の大地をつかんだ。硬くて冷たいセピア色の大地は、私の指の爪を砕いた。私の爪はひどく裂けて、血が滴り落ちた。その血までもが、驚くことにセピア色をしていた。
「はやくいけ」
それでもカオスは同じことをつぶやいた。私は、振り返ってカオスの顔を見た。カオスは無表情だった。あの笑顔も、すべてどこかに消えていた。
立ち上がり、私はカオスに歩み寄り、思いっきりその大きな身体に抱きついた。カオスは一瞬身体をビクンとさせたが、それきりずっと硬直したままだった。
「カオス、私ね、あなたが大好きなの」
そう自分で言い放ってから、私は一瞬わけが分からなくなった。『大好き』?彼はあくまでロボットなのに?しかも――その本能を失いかけてはいるが――『戦闘用』の、だ。けれど、嘘をついたような嫌な後味はなかった。確かに心の底から『大好き』だと思えた。その『大好き』は、モノとしてではなく、生身の人間としての、『大好き』だった。
しばらくカオスは考え込んでいるようだった。何も言わない。動かない。しかし、私がもう一声、『大好き』とつぶやいたとき、彼は固まっていた両腕を、私の肩に回した。そして、強く、けれど優しく、私を抱きしめた。
「カオス、私ね、あなたが大好きなの」
またつぶやくと、カオスは小さな声で言った。
「リン」
私はびっくりして顔を上げた。あまりにカオスが私をしっかりと抱き寄せていたので、顔をなかなか上げられなかったが、何とか彼の表情を確認することができた。
「カオス?」
彼の瞳には、あの懐かしいオリーブグリーンの色が戻っていた。気付けば周りの世界は、セピア色ではなくなっていた。
「リン」
もういちどつぶやいた彼の瞳は、確かに前のカオスと同じ瞳だった。優しくて、温かくて――。私の大好きな瞳だった。
「俺も、リンのこと、大好きだよ」
カオスはにこりと笑ってそう言うと、また私を優しく抱きしめた。カオスの大きな身体は、私をすっぽり包み込んでしまった。彼の身体にわずかに残っているオイルと鉄の香りが、妙に嬉しかった。
セピアの世界に、柔らかく色が戻りつつあった。大地は肥沃な土の色をしていた。空もいつの間にか透き通るような紺青の色に。私が流したはずのセピアの血は、もとの真っ赤な血になっていた。
カオスは私の傷ついた指先を見ると、驚いた顔をした。
「何やったんだ? この指」
私はどう説明すれば良いのか分からなくて、黙ったまま手を後ろに隠し、ただ苦笑いをしてみるだけだった。カオスは首をかしげながら、私の隠した手を取り、そっと大きな手のひらで包み込んでくれた。
「すぐに治るよ。 リンは強い子だから」
一瞬、私の心がぴくりと動いた。『リンは強い子だから』――。どこかで聞いた言葉だった。それがどこだったか、すぐには思い出せなかった。
「リンは強くて、でもすごく優しい」
カオスがそう言ったとき、私はさっきの言葉をどこで聞いたか、瞬時に思い出した。――万次さんが言っていた言葉だった。
私が万次さんに拾われ、何年間か万次さんと暮らし、そして、小学校に入る直前のころだった。確かにその頃だった。私は、スクラップ場から、壊れた、猫のペット用ロボットを拾ってきたことがあった。もう治る見込みのない、すでに命を失った『死んだ』ロボットだった。
もう直らないと万次さんに言われ、私は大泣きしながらその猫のロボットを抱えた。そして、ひとしきり泣いたあと、工場の裏庭に出て、そのロボットを埋めたのだ。当時、どうしてそんなことをしたのか、まったく覚えていない。きっと、ロボットと本物の動物の見分けがつかなかったのだろう。そのとき、私がロボットを埋めるのを見ていた万次さんが、私の頭をポンと叩いてこう言った。
『リンは強い子だ。 そしてとても優しい子だ』
すべてを思い出した私は、カオスにまたぎゅっと抱きついた。何だか、胸が締め付けられるような気がした。万次さんとの懐かしい思い出が、私の脳裏に焼きついて離れなかった。気付けば目頭は熱線で触れたようにジンジンと痛み出し、熱いものが流れ出していた。カオスのシャツに、熱い涙がぽとんと落ちた。
「どうして泣くんだ?」
カオスは不思議そうに尋ねた。私は黙ってすがりついて涙だけを流していた。――万次さんは、もういない。
「あのね……万次さんはね……」
「万次さんが?」
もう何も言えなかった。大好きな大好きな万次さんがもういない。不死身と思っていた頑固なじいさんは、あっけなく真っ赤な血にまみれて逝ってしまった。本当なら、私がそうなっていたはずなのに。
「リン?」
「どこにもいかないで」
首を振りながら私は言った。セピア色から、鮮やかな色に移り変わった世界は、もう涙でにじんで何が何だか分からなくなっていた。きれいに塗り終えた一枚の絵の上に、水をこぼしてしまったかのように、すっかりぐちゃぐちゃになっていた。カオスのオリーブグリーンの瞳も、もう目には映らなかった。
「一人にしないで」
「リン」
カオスは私をいったん身体から離すと、私の頬に優しくキスをしてから言った。
「ごめん」
彼がそう言ったきり、世界はぴたりと時間を止めてしまった。
突然、焦げ臭さが鼻をついた。私は、冷たい土の上に、仰向けに寝転がっていた。ゆっくりと頭だけを起こすと、あたり一面は、コンクリートの瓦礫で囲まれていた。ところどころ、地面から黒い煙が渦を巻いていた。
セピア色をしていたあの街は消えて、あるのは、見たくもない現実だけだった。破壊された工場。死んだはずの万次さんの亡骸すら、もうすべて壊されているようだった。
こんなにもあたり一面ひどく破壊されているのに、私は何故か無傷だった。
身体を起こそうとすると、私の身体の上に乗っていた何かが、ガシャンと音を立てて転げ落ちた。ぼろぼろになったロボットだった。表面は熱で溶け、それは、命の抜けた死んだロボットとなっていた。おそらく、万次さんが頼まれた修理用のロボットだったのだろう。
地面に横たわったロボットについた泥をこすったとき、私の息と思考は、一瞬止まってしまった。
COMBAT-A00109
そのロボットの焼け焦げた身体の一部に、確かにそう刻み込まれていた。
「コンバット……A00109」
そのとき、さっき見たセピアの街も、カオスのあの言葉も、すべてが一本の線に繋がった。焼け焦げたロボットに刻み込まれた文字を眺め、私はうずくまったままだった。
しばらくして、雨が降り出した。鉛のように重たく、冷たく、そして痛かった。それでも私はそこにうずくまっていた。顔を流れている水が、涙なのか、雨なのか、自分でも分からなくなっていた。
私は、この地球上に、自分以外で生きているものはいないと思った。地球の真ん中の監獄に取り残されたような気がした。
私は、一人になった。