7
奥多摩山中 午後6時53分
どれくらい歩いただろうか。革靴を履いた足は痛んだし体中汗まみれであった。
腕時計を見ると時刻はすでに7時になろうとしていた。裕助の車があった場所までは20分もかからずに戻れたのだが、自分の車を置いた場所まではなかなか着かない。行きに通った道の他に脇道もいくつかあったのかこの暗さではもう何も分からなかった。
もっと警戒するべきであった。裕助の車に残されていたドアノブの手の跡は小さな物で裕助
の太い指とは違った。美鈴を崖に突き飛ばした事も衝動的ではなく計画的だったと考えると、自分の車も無事であるか不安であった。あきは、地理に詳しいうえに夜目がきく。先回りして何か企てているかもしれない。そう考えると、自分を取り巻く闇は不気味であった。
(あんな娘に怯えるなんて)
神は、唇を噛みしみると闇に向かって進んでいった。
ロサンゼルス 午前3時
滝竜一は、打ち込みをしていたキーボードの手をふと止めた。誰かに呼ばれた気がした
のだ。机の上に置いた腕時計は午前3時をさしている。書斎には自分以外誰もいないし妻は寝室で寝ているはずであった。気のせいかと思ったがキーボードに置いた手は止まったまま動かない。竜一は立ち上がると部屋を出て妻が寝ている寝室へと行った。部屋の中は静かで特に変わった様子はなかった。安堵の息を吐くと書斎へと戻り再びキーボードを打ち始めた。
しかし、数分も経たないうちに竜一の表情は一片して緊張の表情にと変った。宙を見つめたまま数秒動かないでいたが、すぐに机の上にある携帯電話を取り国際電話をかけたが繋がらない。眉間に皺を寄せ唇を少し噛んでいたがすぐに別の人物に再び電話をかけると今度はすぐに繋がった。電話の相手は、かかってきた相手に戸惑いの声をあげた。
「…竜か?」
「怜か? 突然にすまない」
「どうしたんだよ。日本に来ている訳ではないよな?」
竜一がかけた相手は、昔の同僚である朝舞怜であった。
「ああ、ロスからだ。それより、俊は今どうしているか分かるか?」
「俊? 俊は、今美鈴に戻っている。今の時間なら家か職場なんじゃないか?
何かあいつに用があったのか?」
不安そうな怜の声に竜一は、黙ったまま考え込む。
「美鈴だったのかもしれない。どちらの声か分からないが、呼ばれた気がしたんだ。だが
あまりいい感じではなかった」
「… …」
暫く怜の携帯から何も聞こえなかったが舌打ちが聞こえた。
「くそっ、携帯繋がらないか」
「俺もさっきかけたんだが繋がらなかったんだ」
怜のイラついた態度に竜一は心配になる。
「美鈴に何かあったのか?」
「何かあったって訳でもないんだが、あいつ一年近く前から美鈴に戻ったきり俊にはなれないでいるんだよ。裕助が…佐波裕助の事なんだが、あいつが行方不明になっていた頃からなんだよな」
「佐波さんが行方不明?また、どうして…」
「理由は分からないんだが、怪我して記憶を失ってるんだよ。助けてくれた陶芸家の親子ンとこに世話になっているらしいんだが、聞いた話ではそこの娘とできてるみたいで帰って来ないって話だ」
「…何だか凄い事になっていたんだな」
竜一は、言葉を濁す。
「あいつ結構、裕助に頼っているとこ大きかったから心配していたんだが、まさかまた面倒事に巻き込まれたんじゃないよな」
「…そうじゃないことを祈るが」
そうは言ったものの竜一の不安は大きくなる一方であった。
「裕助の家に陸ってやつが居候しているからそいつに聞いてみる。このまま待てるか?」
「ああ、大丈夫だ」
竜一の返事を聞くと怜は裕助の家に電話をするが呼び出し音が聞こえるばかりで留守のようであった。陸の携帯にもかけたが、こちらも繋がらない。
「電源切ってんのか?あいつら…」
「駄目か」
「竜、これから美鈴の家と裕助の家へ行ってくる。それから電話するが大丈夫か?」
言いながらもすでに立ち上がると怜はフロアを出て行く。
「ああ、お願いするよ」
竜一の言葉に電話を切ると、怜は外へと向かった。
美鈴のワンルームマンション 午後7時28分
部屋は真っ暗だった。カーテンが閉まっていない所をみると明るいうちに出掛けてまだ帰って来ていないのだろう。部屋の中は特に乱れた様子もなかった。
次に裕助の家へと行ったのだが、こちらも同じように誰もいない。しかし、カーテンが閉まっているところをみると遅くなることを承知で出掛けたのか朝早く出掛けたのであろうか。二人の行先に手がかりになるようなものは何もなかった。
怜は苛立ったように舌打ちをした。不安ばかりが大きくなっていた。
遠野家 午後7時18分
「悟さん、話があるんだが」
悟と呼ばれた男は、目の前の轆轤を見つめたまま返事をしない。
「俺が悟さんに初めて会いに来た日のこと、覚えているか?」
「ああ…」
悟は轆轤を止めると楓と呼ばれていた男を見た。
「ああ、覚えている。お前さんは人懐っこい目をして俺を迎えに来たんだ。俺もそろそろ
ほったらかしにしたままの家のカタをつけなくてはいけないと思っていた頃だった」
「ああ。だから悟さんは俺の話を聞いてくれた」
悟は頷く。そして遠い目をする。
「しかし、あきはこの場所を離れて町へ戻ることを嫌がった。人と接することを恐れて拒んでいたからな。だが、あの事故からあきは変わった。現実逃避するように自分の世界を作り出し、怪我したお前の事を献身的に看病し自分がお前の恋人だと思い込むようになった。お前さんとなら町にも出掛けるし、笑う。今じゃ普通の娘のように生活している」
「ああ、だが外からこの場所、あきの世界へ入ってくる者に対しては敏感になっている」
悟はため息をつくと頷いた。そして苦い表情を浮かべた。
「そうだ。あきは、この場所に人を近づけまいとしている。それだけならまだしも時に攻撃的になる」
悟の表情に楓、佐波裕助の瞼が閉じられた。
「俺の時は事故だった。だが、山の麓にあった白骨の遺体は埋められていた。先月来た女性の車の事故もそうなのか?… …悟さん」
確かめるように裕助の瞳は悟を再び見つめる。悟は視線を轆轤に戻したが頷いた。
「ああ、そうだ。あきがやった」
裕助は唇を噛みしめた。
「いつ、記憶が戻った」
「完全に戻ってきたのは最近だ」
「では、ここを出て行くんだな。あきを置いて」
悟の言葉に裕助の伏せていた瞳は厳しく悟を見た。
「悟さん。このままでは、あきは同じ繰り返しをしてしまう。犯罪を犯し続けてしまう。明日、病院に迎えに行ったら自分がどんな事をしているのかあきに話す。俺が出て行くかどうかは、それからの話しだ」
「…そうか、分かった」
悟は、目の前の轆轤を見つめたまま裕助を見る事もなく頷いた。
裕助は作業小屋から出るとため息をつき曇った夜空を見上げた。
どうしたらいいのか自分でも分からなかった。裕助の前にいる時のあきは、本当に普通のどちらかといえば恥ずかしがり屋の女性であった。裕助の為に一生懸命に食事を作ったり洗濯をしたりする。お礼を言ったり褒めたりすると本当に嬉しそうに笑うのだ。一年近くの間一緒に生活をしていたのだから情がわかない訳はなかった。それに今自分が居なくなる事であきの精神状態が不安定になることも心配であった。だが、自分のいた場所へ帰りたがっている自分がいるのも分かっている。そこには大切なものがあるのだ。ずっと守ってきた大切なもの。
裕助は再びため息をついた。しかし、ふと木々が茂っている方向に目を向ける。何か胸騒ぎがする。それが何かは分からなかったが昔から自分の直感には素直に従ってきた。何かあるのだ。そして、そこへ行かないといけないと自分の何かが訴えている。
裕助は車のキーを掴むと駆け出していた。
神がやっとの思いで自分の車に辿り着いたのは、2人が崖から落ちて3時間近く経っていた。
着ていた上着を助手席に放るとエンジンをかけた。エンジンは何事もなくかかり静かな夜の山の中に響いた。神はほっとするとライトを点けて車を発進させた。とにかく電話がある場所
まで、もしくは携帯が繋がる場所まで行って助けを求める事が第一優先だ。しかし、この暗さでは捜索隊がでるのはきっと明日の朝になってしまうだろう。下り坂の曲道に気をつけながら神は考えていた。しかし、すぐに車の異変に気がついた。踏んでいる筈のブレーキがきかないのだ。慌ててハンドルを切ると車は道端の木を掠めて少し流されながらもなんとか曲がった。しかし、すぐに先に次の曲がり角が見える。それも先程より急だ。
「ちっ!」
神は舌打ちすると運転席のドアを開け外へと飛び下りた。積もった枯葉が衝撃を和らげてくれたが何度か転がり木にぶつかり何とか止まった。顔を上げると車が崖下に向かって落ちて行くのが見えた。よろめきながら立ち上がると落ちていった崖へと足を向けたが激しい爆発音と共に目の前が明るくなった。神は足を止めると目の前の明るく照らされた木々を見つめた。
「はっ、やってくれたな」
苦々しく吐き捨てると、神は崖下を見ることなく先を歩き出した。
裕助は、車を止めると音のした方角に目を向けた。悟と別れた後、すぐに車を出して走らせていたのだが私道から出てすぐに爆発音が聞こえてきたのだ。
(一本下った道の方からか)
何か焦る思いで車を再び走らせ林道へと入ろうとした時、裕助は急ブレーキをかけた。
車から飛び出すと、暗い道を一人で歩く人影に声を掛けた。
「あきっ!」
呼ばれたあきは振り返る。暗闇の中感情のない白い顔が闇に浮かんで見えていたが、裕助に気がつくとにこりと笑った。
「楓」
「どうしてこんな所にいるんだ? 今日は病院へ行った筈じゃなかったのか?」
あきは自分の方へ歩いてきたが足を止めると首を振った。
「ごめんなさい。病院、行けなかったの。今度ちゃんと行くわ」
裕助はあきの言葉を聞きながらあきが歩いてきたと思われる方向を見た。それは今自分が
行こうとしていた道で爆発音が聞こえた方角だ。
「あき、今の爆発音は何だ?」
自分が考えている事が間違っていればと思いながらも、不安は大きくなっていく。
あきは、自分が歩いてきた道を振り返る。
「…大丈夫よ、何でもないわ。誰も邪魔する人達はいないから」
裕助の方を向き直ると笑うあき。そして何もなかったように、裕助が乗って来た車の方へと
歩いて行く。
「もう遅いから家へ帰ろう。お父さんが心配するから」
裕助は、あきの腕を掴むと止めた。
「誰が来たんだ? 何をした?」
「だから楓は何も心配する必要はないわ。お仕置きしただけよ」
振り返りもせず言ったあきの言葉に裕助は唇を噛んだ。
「あき、そんな事をしてはいけないんだ。あきがした事で相手が怪我をしたり死んだりする。人を傷つけたりして駄目だ」
裕助の言葉にあきは驚いたように振り返った。
「楓は何を言っているの?いけないのはあの人達よ。突然にやって来て私たちの生活を乱して行って。それを私は止めているだけよ!」
あきは興奮して裕助の腕を掴んだ。
「楓はあの人達が来てからいつもの楓じゃなくなったじゃない!何を考えているか分からなくて、私を不安にして!」
あきの言葉に裕助は言葉を失った。あきが言っているのは美鈴たちが来た時の事だ。確かに美鈴たちが来てから自分の中で揺れ動くものがあったが、そのことがあきを不安にさせてこんな行動を取らせたのだろうか。だが、あきが人に危害を加えるようになったのは自分の世界を創り出してから間もなくであった。
「でも、大丈夫。あの人達はもう来ないわ」
何処か遠くを見ながら言うあきの言葉に血の気が引く。
「どうゆう事だ?まさかさっきの爆発音は…」
「知らないわ。車が落ちたんじゃないの?」
「あきっ、俺は楓なんかじゃない。佐波裕助だ。 あきは自分が創り出した世界で俺を見ているんだ」
あきの顔が歪む。
「何を言っているの?楓は、ずっと私の恋人で一緒にいるじゃない。お父さんだって知っているわ」
再び興奮して叫ぶあきの首筋に裕助は一撃入れるとあきの崩れていく体を抱きとめた。
「すまない…」
裕助はつぶやくと車の後部座席へと寝かせ、あきが来た道を車を走らせた。ハンドルを持つ手は汗でじっとりと滲んでいた。暗い道を慎重に、しかしできる限り早く走らせる。今は何も考えずに少しでも早く爆発があった場所へ着くことだけを考える。カーブに差し掛かった所で裕助は急ブレーキをかけた。人影がライトに照らし出されたのだ。車から降りると人影に向かって走る。それは知っている顔であった。
「神さんっ!」
神は、自分に向かってきた裕助に駆け寄ると服を掴む。
「裕助っ!お前、何をやってたんだ!」
「…美鈴と一緒に来たんですか?」
神の泥だらけの姿を見てあきの言葉が不吉にも浮かんだ。
「ああ、そうだ。だが、お前の恋人とやらが崖下に突き落としたんだよ。それを助けようと陸までも落ちたんだ」
神は、悔しそうに視線を下に向けた。
「それは、どこです」
神も落ち着いてきたのか裕助を掴んでいた手を離した。
「お前が昔置いた車の場所から15分ほどこっちへ戻った辺りだ。目印に木の枝に白いハンカチを巻きつけてきた」
裕助は頷くと車の方へと行く。
「神さん、乗ってくれ。途中まで行ったら俺は降りるから神さんはあきと一緒に車で行って救助を呼んできて下さい」
神も裕助に続いて車の乗り込むと、後部座席で眠っているあきをみた。
「どうやら記憶が戻ったらしいな」
「はい、すみませんでした」
裕助の言葉を聞きながら、神は首を振った。
「いや、俺こそすまなかった。二人をここまで連れてきたのに、こんな事になってしまって。その上、お前に当たってしまった」
「いえ、いいんです」
裕助は首を振った。
「しかし、この娘とんでもない娘だぞ。計画的だったのか突発的なのかは分からんが、お前の家に来て、美鈴たちをここへ連れて来てこんな事をしでかすんだからな。おまけに俺の愛車に細工しやがって」
「そんな事が…」
まさかそこまでの行動は夢にも思わなかったが、あきを不安にさせ美鈴たちに危害を加えるような事になったのは自分のせいでもあった。
「…すまなかった、神さん」
神は裕助の顔を見ると首を振った。
「俺に謝るな。謝るなら二人を無事に助けてから、あいつらに言ってやってくれ」
「ああ、助ける。二人を絶対に」
三人を乗せた車は、神が最初に車を止めた場所までやって来た。裕助は車のトランクから懐中電灯とロープを取り出すと神を見た。
「じゃあ、後はお願いします」
「ああ、分かった。お前も無理だけはするなよ」
裕助は頷くと暗い闇の道へ向かって歩き出した。
すでに二人が崖下へと落ちてから4時間が経っていた。




