CASE1:水底の星葬
「今から不在にする。明日の昼には戻ってくる」
ハルクがそう言ったのは昨日の夕方。私が調律室でのんびりとお気に入りの紅茶を楽しんでいた時だった。
彼が展望台を空けるのは、今回が初めてではない。このホテルの『観測者』である彼は、定期的にオーナーに同行し、国の権力者――いわゆる『お偉いさん』たちへ、星の落下周期や浄化状況を報告しに行かなければならないらしい。
普段の私なら、「ふうん、いってらっしゃい」の二言で終わる会話だ。
けれど、今回の私はひと味違った。
「じゃあさ、ハルクがいない間に、私が展望台の掃除をしてあげるよ」
カップを置き、自信満々に提案した私を、ハルクはひどく不安そうな……あるいは、何かを察したような複雑な目で見つめていた。
「……お前に掃除なんて出来るのか?」
「出来るよ! この部屋だって、いつも私が綺麗にしてるんだから」
心外な物言いにムッとして、胸を張りながら部屋の中を指差した。
水盤の水を常に清らかに保ち、槌の白真鍮を磨き上げる。切らしてはいけない茶葉の補充だって私の仕事だ。そう、私は意外と『出来る女』なのだ。……まあ、調律室の奥にある私室の惨状については、今は棚に上げておくけれど。
私の剣幕に、ハルクは腰に手を当てて、諦めたように長い溜息を吐き出した。
「……まあ、身体を動かしたいのは分かる。ここにはお前の気を紛らわせるような娯楽も、大して無いしな」
「でしょ? 展望台も、ここしばらく行けてないんだもん。お願い!」
ハルクの目の前に立ち、ぎゅっと両手を握りしめて頭を下げる。
この人は、最後には絶対に許してくれる。そんな甘い確信を抱いたまま、彼の言葉を待つ。
「はあ……分かったよ。好きにしろ。ただし、重いものは動かすなよ」
「やったあ!」
ほら、来た。
私は弾かれたように顔を上げ、嬉しさのあまりぴょんっと小さく飛び跳ねた。
なんだかんだと言いつつ、最後には私のわがままに折れてくれる。そんな彼の『甘さ』をまたしても引き出せたことに、私はささやかな満足感を覚えていた。
――そして、今日。私はスタッフ用のエレベーターに乗り込んで、展望台へと向かっていた。
チン、と軽い音を立ててエレベーターの扉がゆっくりと開く。
扉の隙間から徐々に青空が溢れ出し、心地よい風が私の髪を優しく靡かせた。久しぶりに触れる外の空気に、私は思わず深く息を吸い込む。地下の調律室に籠りきりの身としては、屋上にあるここへは、用がなければなかなか足を運ぶ機会がない。
エレベーターを降りて一歩踏み出し、幅のある階段を数段上れば、ハルクの仕事場である展望台が姿を現す。
彼のプライバシーを静かに守る白い煉瓦の壁は、天に向かって高く美しく積まれ、その壁の端から上は、すべてが透き通ったガラス張りになっている。
視界を遮るもののないガラスのドームは、まるで空そのものを閉じ込めた神殿のようにも見えた。
「……よし」
主のいない展望台に入るのは、想像していたよりもずっと緊張した。
私は小さく息を吐き、白く重厚な扉に手をかける。ゆっくりと開いたその先には、外の喧騒を一切拒絶した、清冽なまでの静寂が広がっていた。
頭上を覆う広大なガラスのドームからは、柔らかな陽光が惜しみなく降り注いでいる。そして中央に鎮座する巨大な天球儀は、光を受けて銀色に鈍く光っていた。壁一面に整然と並ぶ書架には、びっしりと書き込まれた『観測記録』の束。
どこを見渡しても、そこにはハルクの徹底した美学と、彼が積み重ねてきた時間が刻まれている。
地下の調律室とは違う、どこか神聖で、けれど孤独な香りのする場所。
しかし、そんな静謐な空間の中で、部屋の端に置かれたベルベットのソファだけが、色濃く生活感を留めていた。
ここで寝起きしているのだろう。背もたれには無造作にブランケットが掛けられ、周辺の床には、主の思考の荒々しさを物語るように、メモ紙や古い参考資料が幾つも散らばっている。
整然とした『聖域』の中で、そこだけが唯一、ハルクという男の泥臭い『日常』を晒していた。
「……まずは、これから片付けようかな」
私は腰を落とし、床に散った紙を一枚ずつ拾い上げる作業から始めた。
指先に触れる紙はどれも少し硬く、見慣れた彼の筆跡でびっしりと数字や記号が書き込まれている。
それらを丁寧に揃え、内容が混ざらないように注意しながら一つの束にまとめていく。
こうして彼の散らかしたものを拾っていると、なんだか昔から何も変わっていないような、そんな可笑しな気分になった。
――あの『赤黒い星』を浄化してから、二週間が経った。
無理が祟ったのか、私はあの後すぐに意識を失い、目を覚ましたのは二日後のことだった。その時のハルクの取り乱しようは相当なものだったと、後からグリードに聞かされた。
掃除の手を休めることなく、私は意識の底に沈んでいた映像を反芻する。
浄化した際に見た、あの断片的な記憶。刃物を振りかざしていたのは、確かにハルクの姿だったように思う。そして、その切っ先を向けられ、刺されていたのは――紛れもなく、私だった。
けれど当然、あんな目に遭った記憶なんてどこにもない。ハルクに殺意を向けられるような心当たりも、ただの一度だってない。
もしもあれが『過去』の出来事ではないのだとしたら。私は、これから訪れる凄惨な『未来』を視てしまったのだろうか。
「……まさかね」
私は小さく首を振り、手に持っていたメモの束を整えた。
見た映像のことは、ハルクには伝えていない。もちろん、他の誰にも。
正体不明の幻影を口にして、無駄に心配をかける必要はない。何より、今はまだ黙っているのが得策だと思った。
――星を浄化する際、そこに刻まれた誰かの映像や感情が流れ込んでくるのは、いつものことだった。
けれど、これまではどれもすべて他人の記憶でしかなかった。浄化の最中は、あまりに生々しい絶望や情念に呑み込まれて涙することこそあれ、終わってしまえば残るのは、せいぜい少しばかりの後味の悪さだけだ。深く気にしたことなんて、一度もなかった。
今回のように、私たち自身に関係するものが流れてきたことなんて、過去に一度だって無かったのに。
「はあ……」
床に散らばっていた彼の思考をすべて拾い上げると、ソファの横のテーブルへ静かに置く。
指先に残る紙の感触が、今ここにある『現実』を、私に強く再認識させていた。
「おい、ハルク」
静まり返った部屋に響いた突然の声に、私は心臓を跳ねさせて顔を上げた。
乱暴に扉を押し開けて入ってきたのは、グリードだ。この男は、どの部屋の扉であっても音を立てずに開けるということができないらしい。
「ハルクならいないよ。昼には戻ってくると思うけど」
驚きを隠してそう告げると、グリードは「はあ?」とあからさまに不機嫌そうな声を漏らした。
「そんなこと言ってたか、あいつ」
「うん。報告会があるからって。昨日の夜から不在だよ」
床に落ちているいくつかの本を拾いながら答えると、グリードは苛立ちを隠そうともせずに頭を掻いた。
「聞いてねえよ。さてはあいつ、お前にしか言ってねえな」
吐き捨てるように言われたその言葉に、私は「へえ」と小さく首を傾げた。
全員に言っているものだと思っていたけれど、もしや展望台を空ける度にしていた報告は、今まで私にしかしていなかったんだろうか。
……まあ、彼のことだから、単に他の人に言うのが面倒だっただけかもしれない。
私は特にそれ以上深く考えることもなく、本棚の近くまで歩き、手に持っていた本を空いている場所へと戻した。
「……それで? 何か急用?」
振り返ってそう聞けば、グリードは「いや、いないなら出直す」と短く吐き捨て、早々に帰ろうと背を向ける。相変わらず、用件以外には一秒たりとも時間を割きたくないといった風な、極端に効率的な男だ。
「あー、待って待って! もうすぐ戻ってくると思うから、一緒に待ってようよ!」
私は逃げようとするグリードの腕を引っ掴んで、慌てて引き止めた。
彼とこうして話す機会なんて、滅多にないのだ。いつも風のように現れては、必要なことだけ言ってすぐに消えてしまうから。
これは、彼という人間を知る絶好のチャンスかもしれない。話し相手がいつまで経っても幼馴染しかいないというのも、少し寂しいものがある。
「ね、いいでしょ?」
私は掴んだ腕にさらに力を込め、グリードの反応を伺った。
「やだよ。なんでお前と」
しかし、彼はハルクのようにはいかなかった。掴んでいた手を冷たく振り払われてしまう。まさに難攻不落だ。
「えー、星が落ちてこない限り、私もグリードも暇でしょ? なんでいつもそんなに早く帰っちゃうの?」
「なんでって、その場にいる理由が無いからだ」
取り付く島もない。けれど私は食い下がった。
「私はグリードと話したいよ。折角同じホテルで働いてるんだからさ。私には、ハルクしか話し相手がいないし……」
そこまで言って、私はふと自分の言葉を反芻した。
『調律師』は世界に私一人しかいないが、彼ら『回収員』はそうではない。
何が起こるか分からない危険な現場。一つの星を回収するのにも数名で向かう必要があるし、稀に同時落下が起きれば、彼はそのすべてを指揮しなければならない。
話し相手がいない私とは正反対に、まとめ役であるグリードには、人と話さなければならない機会が嫌というほどあるはずだ。だからこそ、彼は一人の時間を何よりも欲しているのかもしれない。
そう思うと、自分の退屈を埋めるために彼を引き止めるのが、ひどく独りよがりなことのように思えてきた。私はそっと、自分の足元へと視線を落とす。
「……ごめん。ちょっと、わがまま言いすぎたかも」
そう反省した瞬間、頭上から深くて長い溜息が降ってきた。体内のすべての息を吐き出したのではないかと思うほどの盛大な溜息に、私は驚いて顔を上げる。
すると、さっきまで出口に向かっていたはずのグリードが、いつの間にかベルベットのソファをベッド代わりに横たわっていた。長い足を背もたれに投げ出し、腕を枕に目をつむっている。
「……好きにすれば」
吐き捨てるように言われたその言葉は、彼なりの妥協だった。
素っ気ないと思っていた男が、結局は私のわがままに付き合ってくれる。その意外な展開に、私は一瞬だけ呆気に取られてしまった。
「え、いいの? ……あ、ありがとう」
気が変わらないうちにと、私は慌てて近くにあった椅子をグリードのそばへと引き寄せた。
腰を落ち着かせ、じっと彼が横になっている姿を眺める。
普段は鋭い眼光と無愛想な態度で、無言のまま周囲を威圧している彼だけれど、こうして目を閉じていると不思議と実年齢相応の『幼さ』を感じさせた。長く伸びた睫毛が、微かに揺れる。
「……」
さて、話したいとは言ったものの、いざとなると何を話すべきか迷ってしまう。私たちには『星』のことしか共通点がないのだ。そう考えて、私はふと思い出した。彼がわざわざここまで足を運んだ本来の理由を、まだ聞いていない。
「結局、ここに来た理由は何だったの?」
果たしてちゃんと答えてくれるだろうか。少しの不安とともに問いかければ、グリードは薄らと目を開け、手に持っていた正方形の箱を掲げた。
それは星を収容するための、透明な専用容器。見覚えのあるそれを私が不思議そうに見つめていると、彼は意外にも丁寧に説明を始めた。
「星を捕まえるのに使うこれ。蓋のところが歪んで、微妙に隙間が出来てんだろ。これじゃあ使い物にならねえから、業者に修理を頼んでもらおうと思ったんだよ」
「へえ。これって使い回しなの?」
意外な言葉に、私は思わず身を乗り出した。
「ああ。お前が浄化した後、大体ハルクが回収して業者に清掃を頼むんだ。それが終われば、直接俺のところに戻ってくる。特殊な強化ガラスを使ってるから、一個が相当いい値段するらしいぜ。いくらこのホテルが稼いでるとはいえ、使い捨てなんて贅沢は出来ねえだろ」
グリードはそう言って、手の中の箱を無造作に放り投げ、またキャッチした。
初めて聞く話の内容に、私は自分が如何に『世間知らず』であるかを思い知らされていた。
私はいつも、星が回収されるのを待ち、運ばれてきたそれを浄化するだけ。それ以外の時間は、あの地下の部屋でただ暇を持て余している。
その間にも、ハルクやグリードにはそれぞれの仕事がある。彼らが何をして、どんなふうに立ち回っているのか。私は、彼らの日常を何一つ知らないのだ。
自分が果たして、このホテルの一員として、あるいは彼らの仲間として、ちゃんと役に立てているのだろうか。ふと、そんな形のない不安が胸を掠める。
「……グリードはさ」
「あ?」
目を閉じたままの男に、私は一番気になっていたことを投げかけてみた。
「この仕事、怖いなって思わないの?」
浄化の際に視る、あの悍ましい怨念や絶望。
回収の現場は、もっと直接的な死の危険に溢れているはずだ。私には想像もできないほど過酷な場所に身を置く彼は、一体何を思って星に向き合っているのだろうか。
「……」
沈黙が続く。返事がないことに、私は彼が本当に寝てしまったのではないかと思った。
少しの間だけ待ってみるものの、規則正しい呼吸音が聞こえてくるだけで、言葉は一向に返ってこない。
……困ったな。
このまま放置して掃除を続けるべきか、それとも一度起こすべきか。迷った末に、私は椅子の背もたれから背を離し、腰を浮かせて彼の顔を覗き込もうとした。
その時だった。
「……俺は、いつ死んでもいいと思ってる」
彼は寝ていたわけではなく、ただ言葉を選んでいただけだったらしい。目を閉じたまま、吐き捨てるように紡がれたその言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「お前も聞いてると思うけど、そもそもここで働くようになったのは、家の近くに星が落ちて、瘴気のせいで両親が狂って……殺されると思った時に、ハルクが助けてくれたからだ」
その話は、昔聞いたことがある。
まだ私たちの親世代がこの仕事を現役でこなしていた頃、次代の観測者として教育を受けていたハルクが、社会勉強も兼ねて回収の現場に同行したのだ。そこで彼はグリードと出会い、子供のわがままというにはあまりに強引な主張で、彼をこのホテルへ連れてきたのだという。
「俺は、本当はあの時に死んでいた。だから、いつ死のうが構わねえ。怖いなんて感情はとっくに失くした」
彼は淡々と過去を語る。
言葉で聞くよりも、実際はもっと壮絶で、血生臭い光景だったに違いない。けれど彼はそれを当然の報いのように受け入れ、今も最前線で仕事に励んでいる。
彼の覚悟は、私が思っていたよりもずっと、鋭く尖った刃のようなものだった。死を恐れないのではない。自分を『すでに死んでいるもの』として扱っているのだ。
「なんだか、分かる気がする……」
ぽつりと小さく零した言葉は、彼にとって思いがけない返事だったのだろう。グリードは薄らと目を開け、「は?」と怪訝そうに私を問い返した。
「私、恐怖はあるよ。浄化すると、知らない記憶と感情がなだれ込んでくるの。それに飲み込まれている時、自分が自分じゃなくなっていくような気がして……それが堪らなく怖い」
「……」
「でも、それが私の役目だから。お母さんは星の浄化中に瘴気に飲み込まれて死んじゃったけど、それは悲しいことだけど……でも、調律師としての運命でもあったと思うの。ハルクは、私がお母さんと同じようにならないようにって、いつも過保護なくらい心配してくれてるけどさ」
私はそこで一度言葉を切り、膝の上で組んだ指を見つめた。
「私……死ぬなら、調律師として死にたい」
だから、グリードの言っていること、少しは分かるよ。
そう付け加えると、彼は何も言わずにただ私をじっと見つめていた。
命を使い捨てようとしている彼と、命を捧げようとしている私。
道は違えど、私たちは二人とも、生きることの先に『死』という結末をあまりに自然に据えすぎている。
静まり返った展望台に、私の心臓の音だけがやけに大きく響いているような気がした。
ガチャリ、と。
重たい空気を振り払うようにして扉が開かれ、私たちは同時にそちらへ視線を向けた。
そこに立っていたのは、隠しきれない疲労を滲ませた表情のハルクだった。
私だけでなく、グリードまでがこの部屋にいたことに驚いたのか、彼の深い紫色の瞳が微かに瞬く。
「なんだ、お前もいたのか。珍しいな」
静かに扉を閉め、つかつかと淀みない足取りで中に入ってくる。その振る舞いは、流石はこの展望台の主と言うべき迷いのなさだった。
彼は帽子と上着を脱ぐと、壁のフックへ慣れた手つきで掛けた。それから吸い寄せられるように中央の天球儀へと歩み寄る。
指先で軽く触れ、隅々まで目を走らせる。
天球儀は静かに沈黙を保ったままだ。自分が不在の間、この街に新たな星が落ちる予兆がなかったことを確認し、ハルクは重い肩の荷を下ろすように、深く、長く息をついた。
「……で? ノアは良いとして、グリードは何の用だ? 寝に来たわけじゃないだろ」
ソファをまるで自分のものかのように扱うグリードを見て、ハルクは呆れたように目を細めた。
「俺だって出直そうとしたよ。でもこの女が、話し相手が欲しいって泣くからさ」
グリードは渋々といった様子で身体を起こしてソファに座り直し、親指で私のことを指す。
「別に泣いてなんかない」
すかさず言い返したけれど、グリードもハルクもそんな私の言葉には目もくれず、早々に仕事の話を始めてしまった。先ほどまで私とグリードの間で揺れていた、あの危うくも切実な対話など、まるで無かったかのように霧散していく。
目の前で淡々と不具合を指摘するハルクと、それに乱暴な言葉で応じるグリード。その呼吸の合い方は、数々の死線を共に越えてきた者同士にしか持ち得ない、絶対的な信頼の上にあるものだった。
私は座ったまま、その光景をただ眺める。
さっき、グリードの言葉に「分かる気がする」なんて言ってしまったけれど。本当は、彼らの見ている景色の端にさえ、私は立てていないのではないか。
二人の会話が専門的になればなるほど、私は自分の無知を突きつけられているような気分になる。
私の知らないハルク、私の知らないグリード。
幼馴染であるはずのハルクとの距離さえ、この瞬間だけはひどく遠く感じられて、胸の奥に小さな、けれど消えない寂しさがしんと溜まっていく。
私は、二人の声が響く部屋で、ひとり取り残されたような心地に浸っていた。
そんな私の気持ちなんて露知らず、ハルクはグリードから例の正方形の箱を受け取ると、それをテーブルの上に置く。それを見届けたグリードはソファから立ち上がり、「じゃあ用事済んだから今度こそ帰る」と扉へと向かった。もう引き止めることもしない。私はまたグリードの背中を眺めていた。その時だった。
「――グリードさぁん!」
勢いよく扉が開き、高く弾んだ声が展望台に響き渡った。
この、建物のガタを心配したくなるような扉の開け方には、つい数十分前に遭遇したばかりの既視感がある。
そこに現れたのは、艶やかな黒髪を揺らしたボブヘアの女の子だった。
清潔感のある白い比翼シャツにサスペンダー、そして足元を飾るミッドナイトブルーのトラウザー。その身なりからして、彼女も回収員の一員なのだろう。
同じ制服のはずだが、グリードはサスペンダーをつけず、代わりにジレを重ねて着崩している。彼女の整った着こなしと、グリードの無頼な着こなし。同じ職種でありながら、ここまで印象が変わるとは。
感心しているのも束の間、彼女は「ここにいたぁ! ずっと探してたんですよ!」と、グリードの腕に両手で縋り付いた。
あまりの勢いに、グリードは本気で迷惑そうな顔をしてそれを振り払う。「何なんだ、一体」と、怒りを滲ませた低い声で彼女に向き合った。
しかし、彼女は怯むどころか、さらに声を張り上げた。
「今度こそ回収のお仕事に連れていってください!」
展望台に響き渡る声とともに、九十度の綺麗なお辞儀が繰り出される。
普段、ハルクと二人きりで静かに過ごしていることが多いこの場所に、これほどまでの賑やかさが持ち込まれるのは珍しいことだった。私とハルクはどうしたらいいものかと顔を見合わせ、ただ呆気に取られて立ち尽くす。
「チッ、まだ言ってんのか。だめだっつってんだろ」
舌打ち混じりに吐き捨てられたグリードの拒絶。しかし、彼女も一歩も引く様子はない。
「何でですか! 私もう半年もここで働いてるのに、一度だって現場に行かせてもらえてないんですよ!? 同期たちはもう何度も現場で星を回収してるのに!」
「俺がだめだって言ってんだからだめだ」
「グリードさん!」
「うるせえ、もうこの話は終わりだ。どけ」
どうやら彼らはこのやり取りを何度も繰り返しているらしかった。グリードは鬱陶しそうに、目の前に立ち塞がる彼女の肩を掴んで横に退かそうとする。しかし、彼女はグリードを通すまいと、頑なに扉の前から離れなかった。
「メイ」
「今回はグリードさんが頷くまで、ぜーったい動きません!」
メイと呼ばれた彼女は、フンと鼻を鳴らして意気込み、これ以上ないほど堂々とした姿勢で仁王立ちをした。
あのグリードをここまで本気で怒らせ、かつ一歩も引かない女の子なんて、このホテルでも珍しいのではないだろうか。私は困惑しながらもその光景を静観していた。
「いい加減にしろ。お前にはお前の仕事があるだろ」
「備品管理なんて誰にでも出来ます!」
「お前が一番適してると思ってるから任せてるんだ」
「いいえ、私は星を回収するために回収員になったんです!」
「っ、だから――」
グリードの怒気が一段と強まり、いよいよ力ずくで彼女を退かそうとした、その時だった。
――チリン。
中央に鎮座する天球儀の深部から、風鈴のような、微かで、けれど澄んだ高い音が響いた。
ハルクがハッと天球儀へ視線を移せば、巨大な真鍮の塊が、ひとりでに動き出したところだった。
中心に据えられた硝子の球体を囲むように存在する無数の円環が、まるで意志を持った蛇のように滑らかに滑り出す。誰の手も借りず、物理法則を無視したようなその優雅な回転は、見えない何かに操られているかのようだった。
球体が、じわじわと青白い光を帯びていく。回転の速度が上がるにつれ、真鍮の表面に刻まれた星座の彫刻が、次々と金色に発光し始めた。
「――星だ」
ハルクの短く、重い呟き。
あんなに騒がしかった展望台は、いつしか深い静寂に包まれていた。
「……」
しばらくして、生き物のように動いていた円環がピタリと動きを止めた。
複雑に組み合わさった真鍮の隙間から、青い宝石で出来た軸が球体の一部分を正確に指し示す。
刹那、そこから放たれた一筋の鋭い光が、天井のガラスドームを真っ直ぐに貫いた。光の矢はどこまでも伸び、澄んだ青空の、ある一点を正確に射抜く。
その光が指し示す先。そこが、次に星が落ちる場所。
ハルクはソファの近くのテーブルから、私がまとめたメモ束の一枚を素早く掴み取った。
天球儀を睨みつけるように眺めながら、彼は手元の紙に猛然とペンを走らせる。計算式なのか、あるいは座標の微調整なのか。一瞬にして張り詰めた緊張感に支配された私たちは、その場から一歩も動くことができず、ただただ紙の上をペン先が叩くように走る音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。
ハルクの瞳は、天球儀が告げた不吉な啓示を余さず読み解こうと、鋭く、凍てつくような光を放っている。
「……おそらく、落ちるのは明日の昼。詳しい時間はもう少し読み解かないと分からない。場所は南東の……ラクリマ湖。回収には少し難渋するかもしれないな」
天球儀とメモ紙を目で何度も往復しながら、ハルクは淡々と説明を続けた。その横顔には、予測しきれない事態への警戒が滲んでいる。
「明日の昼だと? 随分急だな。いつも最低でも三日前には予知すんのに」
グリードが不審そうに眉を寄せた。星の落下予報は、回収員にとって生死を分ける準備期間だ。それが一日足らずというのは、あまりに猶予がない。
「そうだな……まあ、今まで無かったわけではない。詳しくはまた後で伝声管で伝える」
そう告げるハルクに、グリードは「分かった」とだけ短く返し、今度こそ帰宅しようと扉へ足を向けた。
しかし、そこには未だにメイが立っていた。
先程までの冗談めかした雰囲気は微塵もなく、その眼差しは射抜くような鋭さを帯びている。グリードが何かを言いかけるよりも早く、彼女は「お願いします」と、再度深く頭を下げた。
「その星の回収に、私も連れていってください」
静まり返った展望台に、彼女の決意に満ちた声が通る。グリードは足を止め、無言で彼女を見下ろした。
予報が急変した不吉な星と、初めて現場に挑もうとする少女。
窓の外に広がるラクリマ湖の方角は、今はまだ静まり返っているが、明日の昼には地獄へと姿を変えるのだ。
「私、皆さんに命を救われました。家の近くに星が落ちてきて……事前に国が教えてくれたから直接被害には遭わなかったけど、その星を素早く回収するグリードさんに憧れて、それで回収員になったんです」
メイは深く頭を下げたまま、震える声で続けた。
「今まで色々勉強してきたつもりです。身体も鍛えてきました。……なのに。同期の皆が危険を冒して回収作業に向かってるのに。私だけ安全な場所で待ってるだけなんて、もう耐えられないんです」
ここからでは、伏せられた彼女の表情は分からない。けれど、時折聞こえてくる小さく鼻をすする音から、彼女が必死に涙を堪えながら訴えているのだと分かった。
先刻、グリードが語った「いつ死んでもいい」という空虚な覚悟。私のような「調律師として死にたい」という自明の覚悟。メイが持っているのは、そのどちらとも違う、もっと純粋で熱を帯びた「誰かのために生きたい」という祈りのような覚悟だった。
「……連れてってあげたら」
私は黙っていることが出来なかった。何も出来ない歯痒さは、この中では私が一番分かっているはずだ。調律師として、星が回収されるまで地下でただ待つことしか出来ない、あのじりじりとした時間を。
「グリードが一緒なら大丈夫だよ。何とかしてくれる」
そう。彼は素っ気ないし、口も悪いし、やり方も乱暴だ。けれど、自分の仕事に対してだけは、誰よりも責任を持って最後までやり遂げる男であることを、私は知っている。
私がそう言えば、メイは涙で赤くなった瞳で驚いたように私を見つめ、一方でグリードは、苛立ちを纏わせた瞳で私を鋭く睨みつけた。そしてハルクもまた、何かを言いたげな、複雑な光を宿した瞳で私を見つめている。
再び訪れる重苦しい静寂。
天球儀が刻む微かな駆動音だけが響く中、その沈黙を切り裂いたのは、地を這うような低く重い声だった。
「……何があっても、責任は取れねえからな」
それは、グリードなりの最大の譲歩だった。
突き放すような言葉とは裏腹に、彼はメイから視線を外し、乱暴に髪を掻き上げる。
「っ、はい! 分かってます! ……ありがとうございます!」
メイが弾かれたように私に向かって頭を下げる。その声は先ほどまでの悲痛な響きとは違い、希望に満ちていた。
グリードは深い溜息を吐いて、今度こそ迷いのない足取りで扉へと向かう。
「じゃあな、ハルク。詳細が分かったら教えてくれ」
「……ああ。頼んだ」
そうして嵐のような二人の足音が遠ざかり、展望台には再び、私とハルク、そして冷たく光り続ける天球儀だけが残された。
「なあ、ノア」
ずっと黙っていたハルクが、静かに口を開いた。
続く言葉を促すように彼の顔を見れば、そこには先程と同様に複雑な――どこか不安を孕んだ表情が浮かんでいた。
「グリードは、別に意地悪で彼女を現場に行かせなかったわけじゃないと思う。おそらく、あそこまで拒否をする理由があったんだ」
「……ハルク」
「嫌な予感がする。……何もないと良いんだが」
ハルクの言葉に、私は身体の芯から冷えきるような感覚を覚えた。
「……」
私が背中を押してしまったことで、グリードが守ろうとしていた『何か』を壊してしまったのではないか。メイをあの死の現場へ引きずり出す、取り返しのつかないトリガーを引いてしまったのではないか。
もしかしたら、私は決定的な間違いを犯したのかもしれない。
けれど、天球儀が一度指し示し、動き出してしまった運命を止める術を、私は持っていなかった。
***
『落下地点は南東のラクリマ湖。時間は午後三時前後。おそらく水辺に落ちると思うが……もしかしたら湖の中心部に落ちるかもしれない。そうなると回収に時間がかかることが予想されるから注意してくれ』
あれから伝声管にて、星の落下場所についての詳細が共有された。
昼間の落下は夜間よりも住民に被害が及びやすい。だがハルクが星を観測した時点で多方面に連絡を入れているため、もう既に避難指示は出ているだろう。それにラクリマ湖は深い森の中にあるため、普段から人気がない。それは、数少ない不幸中の幸いだった。
しかし、私はあれから胸の奥をざらりとした砂が撫でるような不快感が晴れず、結局まともに眠れないまま、当日が来てしまった。
『嫌な予感がする。……何もないと良いんだが』
ハルクの言葉が呪文のように頭の中で繰り返される。一度その思考に囚われてしまうと、窓ひとつない調律室の徹底した静寂が、かえって不吉な想像を肥大化させた。
本来なら、私は星が回収されるまで調律室で静かに待機しているのが常だ。しかし、今回はどうしても黙っていられなくて、朝からハルクのいる展望台に足を運んでいた。
ハルクは突然現れた私に驚いたようだったが、私の気持ちを察したのか「あまり構ってやれないからな」とだけ言って、その場に留まるのを許してくれた。
集中を乱されるのを嫌う彼が、何も言わずに椅子を一つ、私のために引いてくれる。その不器用な優しさが、今の私には酷く胸に染みた。
ハルクは、真鍮の細いフレームに青い宝石が埋め込まれたイヤーカフ型の通信機を耳に当て、現場へ向かうグリードからの報告を受けていた。
彼が宝石の表面をトントンと二回叩けば、拡声モードに切り替わり、私にも彼らのやり取りを聞くことができる。
「今のところはどうだ?」
『別に。順調に進んでる。このままなら三十分前には湖に着くんじゃねえかな』
「そうか。……彼女は?」
『あいつも、別に。思ったより落ち着いてるな。もっと突っ走るかと思ったが、今のところ問題はない』
荒々しいバイクのエンジン音と、叩きつけるような風の音がノイズとして混じるが、グリードの低い声ははっきりと届いていた。
ハルクがわざわざメイの様子を尋ねたのは、隣で硬直している私の心を見透かしているからだろう。
「分かった。到着したらまた連絡してくれ」
『ああ』
そうして通信が途切れる。ノイズ混じりの音声であっても、聞こえなくなれば途端に心細い沈黙が降りてきた。
やはり、待つことしかできないというのはもどかしい。何もできない自分の無力さを突きつけられているようで、私は膝の上に乗せた手をぎゅっと強く握りしめる。そして思考を振り払うように、私はハルクに話しかけた。
「水場での星の回収って、今までもあったっけ?」
私の質問に、ハルクはこちらに視線を移すことなく、天球儀の繊細な動きを追いながら答える。
「滅多にないな。俺たちの代では、過去に一度あったきりか」
「ふうん。中心部に落ちると回収に時間がかかるっていうのは、やっぱり泳がないといけないから?」
「いや、まあ……それもあるが、問題はそこじゃない。水には星の瘴気を吸収する性質がある。ほら、お前だって星を浄化する時は水盤に置くだろ」
ハルクは一度だけ、説明を補強するように私の手元へ視線を落とした。
「ただの水では聖水ほどの吸収力はない。だが、それでも瘴気をたっぷりと吸い込んだ水に浸かれば、空気中から吸うよりも何倍もの早さで侵食が進む。……文字通り、正気じゃいられなくなるんだ」
そうか。私にとっての『水』は、溢れ出す瘴気から身を守り、星を宥めるための盾だ。けれど、回収に赴く者たちにとっては、それは牙そのものとなる。
今回の回収が、いつも以上に過酷で危険な場であるという事実を、改めて突きつけられた。そんな場所へメイを行かせてしまった。
……もし、彼女に何かが起きたら。
胸の奥に澱のように溜まる罪悪感。振り払おうとすればするほど、思考は暗い渦となって回り続け、どうしても落ち着くことができなかった。
「大丈夫だ。グリードがいる」
すると、ハルクはいつの間にか私の隣に立ち、ぽん、と宥めるように頭に手を置いた。掌から伝わってくる確かな温もり。その優しさに、不意に涙がこぼれそうになると同時に、私はひどく自分が情けなくなった。
彼に余計な気を遣わせてしまっている。ハルクは今、一刻を争う星の軌道を読み、彼らの命を繋ぐ座標を導き出さなければならないのに。私の不安なんて、本来なら彼が気にしている場合ではないのだ。
やはり、大人しく今まで通り一人で調律室に籠もっていた方が、皆のためだったのかもしれない。
やっぱり戻る――そう言いかけたその時だった。ハルクの通信機から声が聞こえたのは。
『到着した』
冷静なグリードの声が、静まり返った展望台に響く。たったそれだけの言葉で、私の心臓を絞り上げていた手がふっと緩んだ。
「そうか。道中、特に何もなかったか?」
『ああ』
ハルクも私と同様に安堵した様子で、小さく息を吐くのがわかった。
「二時三十分……まだ時間はあるな。現地の状況を確認して、しっかり準備してかかってくれ」
『了解』
「湖の様子は? 空は何ともないか?」
『特段変わった様子は無いな……湖面は穏やかだし水位も安定してる。空も、ただの快晴だ』
そう報告するグリードの言葉の裏で、微かに浮き足立った女の子の声が混じった。
『すっごく綺麗! まるでおとぎ話に出てくる森みたい……!』
おそらくメイだろう。そんな彼女に、呆れたようなグリードの『騒ぐな。大人しく道具の準備をしろ』という叱責が飛ぶ。
ノイズ越しに届いたメイの元気そうな声は、私の胸の奥にこびりついていた不安を、束の間だけ晴らしてくれた。
カチッ、カチッ。
時計の針がゆっくりと、しかし確実に進んでいく。もうすぐ長針は三時を指す。私とハルクの間にも、肌を刺すような緊張が走り始めていた。無事に終わりますように。そう祈るように、膝の上で両手を強く握りしめていた、その時だった。
『――来た!』
通信機から響いたグリードの鋭い声に、私は弾かれたように顔を上げた。
展望台の大きなガラスドームから見える空には、まだ何の異変も、光の筋さえも見えない。しかし、天球儀に向き合っていたハルクは、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、焦燥を剥き出しにして声を荒らげた。
「まずい! 星が逸れた! 湖の中心部に落ちる!」
「えっ……!?」
私の言葉にならない悲鳴をかき消すように、天球儀の円環が狂ったような金属音を立てて高速回転を始める。ハルクが危惧していた最悪の予測が、非情な現実となって動き出そうとしていた。
そうして、
――ドンッ!
通信機から、鼓膜を震わせるような爆発音が響いた。
『ぜんい……から……離れろ! 水に……ったいに……るな……っ!』
その轟音を境に、グリードの声は激しいノイズに飲み込まれ、途切れ途切れになっていく。
「な、なに……?」
「……瘴気の影響だ。落下の直後は、いつもこうなる」
ハルクが私を落ち着かせるように、あるいは自分に言い聞かせるように低く言った。
「箱に入れてしまえば、すぐに通信は戻るはずだが……」
そう付け加えたものの、彼の表情は依然として冴えないままだ。
相変わらず通信機からは、嵐のようなノイズの隙間から、グリードの切迫した叫びや他の回収員たちの混乱した声が漏れ聞こえてくる。しかし、それもやがて砂嵐のような音に塗り潰され、状況を把握することはもはや不可能に近かった。
「……」
私たちは祈るしかない。
一刻も早く、通信機がこの沈黙を破ってほしい。そして、何事もなかったかのように笑う彼らの声を聞かせてほしい。
そうして、永遠にも思えるような空白の時間を、じっと耐えていた時だった。
ザザッ、と耳を突くような大きなノイズが弾けたかと思うと、それまでの混濁が嘘のように、やけにはっきりとしたグリードの声が展望台に響き渡った。
――無事に回収出来たのかも! 期待に胸が躍り、思わずハルクと顔を見合わせようとした。けれど、次の瞬間に鼓膜を震わせた彼の言葉は、不穏な空気を纏っていた。
『メイ! 何やってるんだ! 早く戻ってこい!』
それは、これまでの彼からは想像もつかないほど、余裕を失った焦燥の叫びだった。通信機の向こうからは、激しく水が跳ねる音と、何者かの悲鳴が入り混じって聞こえてくる。
『私がっ……一緒に、行ってあげますから……っ!』
グリードの声の背後で響いたのは、メイの声だ。けれど、先ほど「おとぎ話みたい」とはしゃいでいた面影はどこにもない。何かに取り憑かれたような、悲痛で、それでいてひどくうつろな叫び。
『だめだ! おい! 引っ張られるな!』
グリードの悲痛な咆哮が響き渡るなか、私たちはただ、彼らの言葉を聞いているしか出来なかった。
何かが起きている。湖の底で、私たちの想像も及ばないような惨劇が。
しばらくの沈黙が続いた。
通信機から聞こえるのは、寄せては返す水の音と、荒い呼気を整えようとするグリードの微かな呼吸音。そして、濡れた道具を片付けているのだろうか、重苦しい金属音だけが展望台に虚しく響いていた。
『……ハルク』
長い、あまりに長い沈黙の末、ようやくグリードがこちらに声をかけた。
ハルクは応じなかった。ただ、痛いほどの静寂の中で、拳を固く握りしめながら彼の続きの言葉を待つ。
『星を回収した』
***
私は窓ひとつない調律室へと戻っていた。
星が回収されたのであれば、私の職務は一つ。溢れ出す瘴気を抑え込み、星を浄化すること。それだけだ。
あの一言を最後に通信機は一方的に切られ、現地の状況は分からないままだった。グリードたちが今どこにいて、どんな表情をしているのかも想像がつかない。
けれど星がある以上、彼らはここへ来る。いつも通り、あの重厚な扉の向こうに。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、私は浄化のための準備を始めた。
厚い壁に囲まれた、完全な静寂。
水盤に満たされた水が、微かな揺れすらなく鏡のように私の顔を映している。
あとは、彼らが星を持ってくるのを待つだけだ。いつも通りに。何事もなかったかのように、あの扉が開くのを。
ガチャリ、と金属質な音が静寂を切り裂いた。
ドアノブが回され、重い扉がゆっくりと、淀んだ空気を押し出すように開く。
この慎重すぎる開け方はハルクだろうか。いや、けれど彼なら必ず一度はノックをするはずだ。不審に思いながらも、期待と不安の混じった視線を向ければ、そこに立っていたのはグリードだった。
「グリード!」
無事で良かった。そう安堵の息を漏らしたのも束の間、私は彼の異様な姿に息を呑んだ。
いつもは寝癖のように逆立っている彼の髪は、今ではひどく水気を吸って、額や首筋に重苦しく張り付いている。一歩踏み出すごとに、ブーツの底からは溜まった水が溢れ、ぐちゅり、と重苦しい音を立てて床を濡らした。
そして、彼の広い背中に背負われていたのは、土気色を通り越して青白く変色した顔のメイだった。
「メイ……!」
私は、背負われた彼女の元へ駆け寄ろうとした。けれど、それより先にグリードの手が動き、「ほらよ」という無機質な声と共に、ずっしりと重い容器が投げ渡された。
咄嗟にそれを受け止める。腕に伝わる重みと共に、容器の中から溢れていたのは、悲しみを煮詰めたような深い青色の光だった。
「……こいつが命を賭けて回収してきたんだ。しっかり浄化してやれ」
それだけを言い残すと、グリードはさっさとその場を離れようとする。メイを医務室へ連れて行くために一刻を争っているのは分かっている。放置していい状態ではないことも。けれど、あの静かな湖で一体何が起きたのか。それを知らないままでは、目の前の星に触れることさえできない気がして、私は震える唇で問いかけた。
「……何が、あったの」
グリードはぴたりと足を止めた。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと振り返った彼の表情は、見ているこちらが息苦しくなるほど憔悴しきっていた。聞かなければよかった――そう後悔させるには、十分すぎるほどの眼差しだった。
「……本来、水場の星を回収するのには専用のネットランチャーを使うんだ。だが、木が多い場所だったからメイがミスって木に引っ掛けちまって」
グリードの声は、感情を削ぎ落としたように淡々としていた。それがかえって、彼の内側にある歪な痛みを際立たせる。
「それで焦ったメイは自力で星を回収しに行こうと湖の中に飛び込んだんだ。ランチャーの予備くらい用意してるって言うのにな」
「……」
「瘴気を取り込んだ水の中に飛び込めば、普通は一瞬で狂気に落ちる。だが、メイは自分が自分じゃなくなる前に決死の覚悟で星を回収した。……すげえやつだよ。だが――」
グリードは深く目を伏せ、喉の奥から絞り出すように次の言葉を紡ぐ。
「その瞬間、メイは護身用の剣で自分の首を掻っ切った」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、私の視線は吸い寄せられるように彼女の首元へと向かった。
先ほどまで『青白い顔』ばかりに気を取られていたけれど、彼女の白いシャツは、首元から胸元にかけて禍々しいほど赤黒く変色している。よく見れば、その首筋には即席の包帯のような布が幾重にも巻き付けられ、滲み出る赤を必死に抑え込んでいた。
そして、ふと、彼女を抱えるグリードの腕に目が留まる。
彼の左袖が肩のあたりから無惨に破り取られていることに気づき、心臓が跳ねた。それでメイの傷を止血したのだろう。自分の服を引き裂き、溢れる血を食い止めながら、彼はこの調律室まで彼女を運び続けてきたのだ。
「もういいだろ。早く『それ』を何とかしてやってくれ」
突き放すような冷たい響きに、私は何も言い返せなかった。ただでさえ、極限状態の彼を無理やり引き止めてしまったのだ。私は小さく頷き、逃げるように手元の『星』へと視線を落とした。
その時だった。
「っ……あ……」
消え入りそうな、微かな声。
ヒューヒューと傷ついた気管を空気が通る喘鳴と、言葉と共にせり上がった血が溢れるゴポッという不吉な音が、静まり返った調律室に響く。
苦しげで、けれど必死に何かを伝えようとするその声は、確かにグリードの背中から聞こえた。
グリードもその異変に気づき、弾かれたように足を止める。彼は祈るような手つきでメイを支え直し、彼女の顔が私に見えるよう、ゆっくりと体をこちらへ向けてくれた。
「せ、なかを、押して、くれて……ありがとう、ごさいました……」
「っ、メイ……」
私の名前を呼ぶことさえ叶わないほど、彼女の命は削り取られていた。それでも彼女は、濁った瞳を懸命に私へと向ける。
「かいしゅう、できて……うれし、かった、です……」
メイは最後にいつものような笑顔を見せようとした。けれど、顔の筋肉にまではもう、彼女の意志は届かなかったのだろう。
歪で、ひどく不器用な、けれど誰よりも純粋な笑みを浮かべたまま――彼女はゆっくりと、瞼を閉じた。
「……」
メイを連れて行くグリードの背中が見えなくなるまで見届けて、私は震える肺からゆっくりと息を吐き出した。
泣いている暇なんてない。今の私に許された唯一の弔いは、彼女が命を懸けて守り抜いたこの『星』を、一刻も早く浄化することだけだ。
視界を滲ませる涙を腕で乱暴に拭い去り、私は使い古した調律師のグローブを嵌めた。指先に伝わる革の感触が、辛うじて私を現実へと繋ぎ止めてくれる。
覚悟を決め、正方形の箱の蓋を開けて、星を両手で取り出した。
「っ……!」
その瞬間、逃げ場のない瘴気が猛烈な勢いで吹き荒れ、肺の奥まで侵食してくる。そこに渦巻いているのは、耐えがたいほどの寂しさ、凍えるような孤独、そして、底知れない絶望。
意識が闇に引きずり込まれそうになるのを、私は奥歯を噛み締めて必死に押し留めた。
冷たい水盤の中央に、その禍々しい青を置く。
そして壁に掛けられた、鈍い光を放つ白真鍮の槌を手にした。
メイの最期の笑顔が脳裏をよぎる。
私は、ありったけの力を込めて槌を大きく振りかぶった。これで全てを終わらせる。全力の祈りを込めて、私はその『悲しみ』の核へと、白真鍮の重みを叩きつけた。
――キィィィィン。
鼓膜を突き破るような鋭い音が響き、視界が突然、幕を下ろしたように真っ暗な闇に塗り潰された。
直後、意識の奥底に濁流のような記憶が流れ込んでくる。まるで、星に閉じ込められていた絶望の残滓を、夢として見せられているかのように。
『お母さん……っ、やだ……!』
幼い男の子の悲鳴が聞こえる。視界の先では、長い髪を振り乱した女性が、我が子の首を必死に絞め上げていた。逃れようともがく小さな体と、逃がすまいと馬乗りになって追い詰める母親。女性は泣き叫び、形相を崩して、理解不能な言葉を男の子に叩きつけている。
『おか、あ、さ……っ』
男の子の手が、縋るようにゆっくりと女性の頬へ伸ばされた。けれどその指先は、届く前に力尽きたように床へとだらりと垂れ下がる。
死の静寂が訪れようとしたその瞬間、一人の男性が乱入し、力任せに女性を男の子から引き剥がした。
『っ、ごほ……っ!』
激しく咳き込む男の子の傍らで、もみ合う男女。
罵声、悲鳴、そして――肉を裂く、鈍い音。
男性の手にした刃物が、閃光のように女性の胸を深く貫いた。
『ひっ……!』
鮮烈な赤が、無慈悲なほど鮮やかに宙を舞った。
返り血が男の子の頬を濡らし、視界を真っ赤に染め上げていく。
『お、父さん……? お母さん……?』
目の前で崩れ落ちる母。そして、返り血を浴びた父もまた、迷うことなく自らの腹部を深く突き刺した。
『ま、待って、お父さんっ……! お母さん……! 嫌だ、置いていかないで!』
抱き合うように折り重なって倒れる両親の元へ、男の子は這いつくばりながら泣きついた。栗色の髪を振り乱し、泣きじゃくりながらも、親の愛を乞うその瞳には――後年の彼が周囲を威圧するほどに鋭くなる、あの茜色の光の片鱗が宿っていた。
『やだよ……っ! 死ぬなら俺も連れてって!』
地獄のような光景の中で、たった独り残された子供の泣き声だけが、冷たくなった両親の間に虚しく響き続けていた。
「……」
気付けば、私は冷たい床に座り込んでいた。
先ほどまでの耳を貫くような轟音と、血の匂いが立ち込める悪夢のような映像は、霧が晴れるように消え去っている。
視線を上げれば、水盤の中。
先ほどまでの禍々しい青はどこへやら、そこには薄氷色に光る星が、穏やかな波に揺られながら柔らかな光を放っていた。
「……終わった、んだ」
無事、浄化は完了したらしい。
肺に溜まっていた熱い空気を吐き出し、私は震える膝を押さえて立ち上がった。安堵が広がる一方で、先ほど脳裏に焼き付いた映像が、どろりとした重みを持って蘇る。
「あれは……グリード……?」
あの絶望の淵にいた男の子。泣きじゃくりながらも、どこか周囲を拒絶するように鋭かったあの瞳。それは、いつも傲慢な態度で私やハルクを遠ざけようとする、今の彼の面影そのものだった。
『俺は、本当はあの時に死んでいた』
以前、彼が何事でもないかのように淡々と語っていた断片的な過去。それが、あの凄惨な記憶とぴたりと重なり、胸の奥が締め付けられる。
そして、私は気付いてしまった。
『私がっ……一緒に、行ってあげますから……っ!』
通信機越しに響いた、メイのあの悲痛な絶叫。
メイは、湖の中でこの映像を見たのだ。彼女は決して、瘴気に当てられて理性を失い、狂ったわけではない。
彼女は、あの日あの場所で、独り取り残されたグリードを――今の彼ではなく、過去に置き去りにされたあの男の子を、救いたかったのだ。
「死ぬなら俺も連れてって」と泣きじゃくっていた少年の手を取り、寄り添うこと。それが、彼女なりの『回収員』としての、そして一人の人間としての正義だった。
たとえそれが、自らの命を散らすという、決して正しくはない方法だったとしても。
ただの星が映し出した、過去の残像に飲み込まれただけなのだとしても。
彼女の魂が、濁ることなく最後まで透明なままだったことだけは分かる。
彼女の綺麗な信念は、この薄氷色の輝きの中に、汚れひとつなく残っていた。
「うっ……う、ぅ……っ」
ずっと我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出し、止まらなくなった。視界はぐにゃぐにゃに歪み、喉の奥が引きちぎれるように痛い。
私が、ただの安易な同情心でメイの背中を押してしまった。グリードが抱えていた危惧も、彼の隠された過去への配慮も欠いたまま、あんな危険な場所へ彼女を送り出してしまった。
私の出した結論が、彼女をあんな姿に変え、グリードに再び『死』の光景を突きつけることになったのだ。
――けれど、彼女は私に「ありがとう」と言った。
――星を回収できて「嬉しかった」と、あの不器用な笑みで。
私には、何が正解だったのか分からない。
メイのために、そしてグリードのために、あの時どの道を選ぶべきだったのか。
星の記憶に触れ、全ての真相を知った後でさえ、どうすれば彼女を救えたのか、何が最善だったのか、答えは暗闇の中に消えたままだ。
私はただ、薄氷色に輝く星の前で、子供のように声を上げて泣き続けることしかできなかった。
***
「グリード、いるか?」
鉛色をした鉄の扉を短くノックするが、いつも通り中から返答はない。俺は少しの躊躇の後、ドアノブを掴んでゆっくりと捻った。
重厚な扉を押し開けると、そこには一人がけの革のソファに深く腰をかけ、天井をぼんやりと見つめるグリードの姿があった。
「……大丈夫か?」
口にした瞬間に、自分が放った言葉の軽さに嫌気がさした。大丈夫なわけがない。あんな修羅場を潜り抜け、仲間の惨状を目の当たりにして、平気でいられるはずがないのだ。
けれど、今の俺にはそんな安易な言葉しか見つけられなかった。
グリードは視線だけを動かし、ちらりと俺を視界に入れる。そして、乾いた喉を鳴らして短く応えた。
「ああ、まあ……」
その声には、怒りも、悲しみも、拒絶さえも混じっていない。ただ、ひどく空っぽだった。
彼がここで素直に「辛い」だの「苦しい」だのと、正直な内面をさらけ出すとは思っていなかった。だから俺は、自分の中の納得いかない感情を無理やり飲み込み、「そうか」と短く返事をした。
あの湖の惨劇から、一夜が明けた。
運び込まれたメイを専属の医師に預け、万全を期したはずだった。けれど、救いの手はあと一歩、彼女の命には届かなかった。
この仕事をしていれば、同僚の死を看取るのは決して珍しいことではない。むしろ、日常の延長線上に死がある。それでも、慣れることなど一度としてなかった。冷たくなった仲間の重みを感じるたび、胸の奥に澱のような痛みが積み重なっていく。
結局、俺はいつも安全な場所で声を張り上げ、指示を出すことしかできない。
星が落ち、通信機がノイズに飲み込まれて使い物にならなくなった瞬間、俺はただ、彼らの無事を天に祈るだけの無力な男に成り下がる。
「……」
だが、誰よりもこの状況に堪えているであろう男が、誰にも本心を打ち明けぬまま、暗い自室に独り籠っているのだ。俺が、いつまでも感傷に浸って暗くなっている場合ではない。そう自分を鼓舞し、俺は彼の領域へと足を踏み入れた。
背後でバタンと重い扉が閉まる。その閉鎖的な音が、部屋の沈黙をよりいっそう深いものにした。
「……悪かった。俺があの時、強引にでも止めていれば」
俺は、ソファに座るグリードに向かって深く頭を下げた。
彼の性格上、何の理由もなく彼女を引き止めていたわけがないのだ。確信があったわけではないが、直感で分かっていた。それなのに、俺はあの時何も言えなかった。
力になりたいと願うメイの歯がゆさも、無謀な真似をさせたくないというグリードの不器用な守り方も、どちらも痛いほど理解できてしまったから。
分かっていたのに、俺はどちらの手も取ることができなかった。
そう謝罪すれば、グリードは「なんでお前が謝ってんだよ」と、力なく呆れたような笑いを零した。
ゆっくりと頭を上げれば、彼はどこか自嘲じみた笑みを浮かべたまま、焦点の定まらない瞳でどこか遠くを眺めている。
「あいつに……ノアに、『グリードが一緒なら大丈夫』って言われた時、そうか、って思ったんだよ。俺が守ってやればいいかって」
「……」
「でも結局何も出来なかった。今思えば、俺が何かを守れたことなんて、今まで一度だってないのに」
だから今回の件は全部俺のせいだ。静寂の中に落とされたその言葉は、ひどく痛々しく、鋭い棘となって俺の胸に突き刺さった。やりきれない感情が指先にまで伝わり、俺はその衝動を紛らわせるように、強く拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
――あの日、彼の両親が命を落とした時。
少年だったグリードは、周囲が手を焼くほどにひどく取り乱していた。
近所でも評判になるほど仲の良かった、温かな家族だったという。それが、ただ一つの『星』が地上に降り注いだ瞬間、積み上げてきた幸せの全てが音を立てて崩れ去ったのだ。
守りたかったはずの場所が、守るべきだった人たちが、目の前で無残に壊れていく。その光景をただ見ていることしかできなかった絶望を、彼は今、メイの死に重ねて再び味わっている。
「お前は、もう十分守ってるよ」
これ以上、彼が自分を切り刻むのを見ていられなくて、言葉が勝手に口を突いて出た。
周りの人間は、この男を傲慢で横暴な慈悲のない男だと思っているだろう。だが、俺は知っている。彼は人一倍強がって見せているだけで、その実、誰よりも卑屈で、そして――反吐が出るほどに優しい男だということを。
彼が関わる人すべてに対し、牙を剥くような態度を取るのも。誰に対しても一定以上の距離を置き、決して内側に踏み込ませようとしないのも。
すべては、二度と『大事な人』を作らないための、彼なりの防衛本能だったのだろう。
冷たく突き放すようなあのぶっきらぼうな態度は、皮肉にも、相手を自分の不幸に巻き込ませまいとする、彼なりの不器用で必死な『誠意』だった。
「お前はちゃんと……守ってこれてるよ……」
喉の奥まで出かかっている言葉は、もっとたくさんある。
彼がどれだけ人知れず現場を支えてきたか、どれだけ仲間の命を優先してきたか。伝えたい思いが山ほどあるのに、いざ口にしようとすると形にならず、掠れた声になって消えていく。
そんな自分自身の不器用さがもどかしく、やり場のない憤りとなって胸の奥を焼いた。
そんな俺を視界の端で捉えたグリードは、ふっと、これまでに見たこともないほど小さく、穏やかな笑みを零した。
それから、お互いに少しだけ気を遣いながら、取り留めのない雑談をいくつか交わした。そうして、次第に話の種が尽き、部屋に再び沈黙が流れ始めた時だった。
「そういや、あいつはどうしてる」
何気ないグリードの問いに、俺の脳裏には即座に彼女の姿が浮かび、自然と眉間に皺が寄った。
「昨日からずっと吐いてる。食欲も全く無いらしくて、何も食べてない」
あの日、グリードと共にボロボロになったメイを医師に預けてから、俺はすぐさま調律室へ向かうはずだった。普段なら、ノアの調律には必ず立ち会い、彼女が星の毒気に当てられていないか、その無事を見届けるのが俺の役割だ。
だが、昨日に限っては、あまりに多くのことが起きすぎた。
事後処理や報告、そしてメイの容体。流石の俺も余裕を失い、ようやく時間を作って調律室に駆け込んだ頃には、すべてが終わっていたのだ。
静まり返った部屋。
その中央で、ノアは立ち尽くしたまま、両手で顔を覆って声を殺して泣いていた。
どう声をかけていいか分からなかった。俺が名前を呼んで、その震える小さな背中に触れようと手を伸ばした、その時だった。
彼女は突然、何かに弾かれたように駆け出した。そのまま調律室の奥にある自室へと転がり込んでいく。何事かと開けっ放しのドアから中を覗けば、そこにはトイレに縋りつき、激しく嘔吐するノアの姿があった。
それから、彼女は夜通し吐き続けた。
胃の中が空になってもなお、体内の『悲しみ』をすべて吐き出そうとするかのように、胃液を吐き、嗚咽を漏らし続ける。俺に出来たのは、ただ朝が来るまで、彼女の折れてしまいそうなほど細い背中を、無言で摩ってやることだけだった。
「珍しいな。あいつ、いつも浄化した後ケロッとしてるじゃねえか」
不思議そうに首を傾げるグリードに、俺は俯きながら、自分なりの推測を静かに話し始めた。
「調律師に必要なのは『強固な自己』だ。どれほど凄惨な記憶を見ても、それを『自分とは無関係な映像』だと割り切れる断絶。今までのノアはそれができていた。だが今回は……色々あっただろ」
俺は一度言葉を切り、重苦しい溜息をついた。
「本来なら受け流すべき他人の絶望を、罪悪感から自分のことのように全部受け止めてしまったんだ。その過剰なストレスに、ノアの身体が悲鳴を上げてるんだと思う」
一体何を見たのか、俺には想像も付かない。彼女は何も言わないし、俺も満身創痍な彼女にわざわざ問い質すことは出来なかった。
――だから、ずっと閉じ込めておけば良かったのに。心の底で、もう一人の自分が醜く囁く。
「……俺はお前が羨ましい」
「羨ましい?」
予想外の言葉だったのか、グリードが眉を寄せた。
「大切な人を守るためならどう思われようと構わないと割り切れる強さ。……俺は、どうしてもノアを突き放せないから」
一度溢れ出した本音は、止まらなかった。グリードの様子を見に来たはずなのに、情けなくも自分の弱さを吐露している。
「今回だって、メイと関わらせたからノアの心が乱れたんだ。現場の過酷さなんて知らせず、ずっと調律室に閉じ込めておけば、あいつがこんなにボロボロになることはなかった」
「……」
「きっとノアは、俺が『部屋から出るな』と命令すれば守ってくれる。でも、俺にはそれができない。……悲しそうにしているノアを見たくないんだ。俺は、ノアが望むことなら何でも叶えてやりたいし、全てを許してやりたいと思ってしまう」
俺は片手で顔を覆い、逃げるように目を閉じた。視界を遮っても、ノアの泣き顔が、嘔吐する背中の震えが、焼き付いて離れない。
「でも、それが最悪の結果を招いているのも分かってる。今回の事故だって、元はと言えば俺のせいなんだ。俺が、あの日ノアを展望台に行かせなければよかった。本当は断ろうとしたんだ……なのに、あいつの期待に満ちた目を見て、出来なかった」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
そんな俺の無様な姿を見て、グリードは重い腰を上げてソファからゆっくりと立ち上がった。そして、立ち尽くす俺の頭を、大きな手でくしゃくしゃに撫でる。
驚いて顔を上げれば、そこにはいつもの仏頂面はなく、何とも言えない複雑な——慈愛とも、諦念とも取れる表情で俺を見下ろすグリードがいた。
「お前は俺より三つも年下なのに、観測者として俺らをまとめてさ……十分、よくやってるよ」
「グリード……」
「結局、後悔しないように選択するしかない。でも、その選択が正しいかなんて誰にも分からない。未来なんて、誰にも読めねえからな」
「……」
「なら、お前がその時やりたいようにやればいい。やりたくねえことを選んで後悔するよりは、よっぽどマシだろ」
その言葉が、俺の強張った心を少しだけ解いた。
あの日、展望台へ行ったノアも、現場へ向かったメイも、そして彼女を引き止めようとしたグリードも。皆、あの瞬間に自分が『やりたいこと』を選択した結果なのだ。ならば、俺たちはこの残酷な結果と真っ正面から向き合うしかない。
「あの時ああしていれば」と過去をなぞっても、流れた時間は二度と戻らないのだから。
俺が「……そうだよな」とだけ短く返すと、グリードは満足したように手を離し、再びソファへと深く腰掛けた。そして、どこか茶化すような、ニヤついた笑みを浮かべる。
「俺は、お前がいつかこの世界よりあいつを選んだとしても、文句は言わねえよ」
真面目な話をしていたのに、急にそんなことを言われると少し腹が立つ。
まるで俺の隠している内面をすべて見透かされているような、あるいは子供扱いされているような気がして、俺は不機嫌そうにグリードを睨み返した。
「……うるさいな。俺はちゃんと責任を果たす」
「はいはい」
グリードは鼻で笑い、また天井を見上げた。
先ほどまでの凍りつくような静寂は、もうここにはなかった。
***
お腹が空いた。
ようやく胃を渦巻く不快感が落ち着き、私は重い身体を引きずるようにしてベッドから起き上がった。
ふらつく足取りで時計を見れば、夜の二十二時を回っている。夕食を摂るにはあまりに遅い時間だが、結局昨日の夜から水すらまともに受け付けなかったのだ。空っぽの胃が、今さらながらに情けない悲鳴を上げている。
何か食べるものは無いだろうかと、私は静まり返った調律室を後にした。
まだ、湖の一件について気持ちの整理ができたわけじゃない。目を閉じれば、今でも薄氷色の光の奥に、誰かの絶望や叫びが、澱のように沈んでいたのを感じる。
けれど、一生分の涙と胃液を出し尽くしたら、心にこびりついていた泥が、ほんの少しだけ洗い流されたような気もした。
星を観測し、回収し、浄化する。
その清らかな言葉の裏側には、どうしても避けられない犠牲が伴う。
私が今まで、調律室という守られた場所で知らずにいただけ。きっとこれまでも、似たような悲劇は繰り返されてきたのだ。
だからこそ、グリードはあの日、あんなに強くメイを行かせまいとしたのだろう。感受性が豊かで、突っ走りがちなあの子が、星の瘴気に当てられたらどうなるか。その残酷な結末を、彼は最初から予見していた。
守りたかったのに、守れなかった。
彼が背負ったその痛みの重さを、私は今回、ようやく自分の喉元で理解したような気がした。
私はスタッフ用のエレベーターに乗り込み、地上へと向かう。
無機質な機械音を響かせながらエレベーターを降り、長い廊下を歩いて薄暗い厨房へと向かった。
こんな時間に、こんな場所にいるのは私くらいだろう。
そう思っていたけれど、厨房の手前にある部屋――錬成室の隙間から漏れる微かな光に、私はふと足を止めた。
まだ作業をしているんだろうか。
私は空腹も忘れ、好奇心に引かれるまま、吸い寄せられるようにその部屋の扉から中を覗き込んだ。
漆黒の大理石で埋め尽くされたその部屋は、まるで底のない夜空の真ん中に浮かんでいるようだった。
壁には整然と、銀のフレームで仕切られたガラスの棚が並んでいる。そこには用途の分からない奇妙な器具や実験道具、そして何より目を引くのは、色とりどりに発光する砂が詰まった無数のガラス瓶だった。赤、青、紫……静かに明滅するその砂は、まるで閉じ込められた星屑のようにも見える。
ふと見上げれば、天井には磨き上げられた銀の円盤がいくつも埋め込まれていた。そこから針のように鋭く、冷たい光が真っ直ぐに降り注ぎ、彼が作業している黒大理石のテーブルを、残酷なほど鮮明に照らし出している。
静まり返った錬成室の中、そこにいたのは襟足を伸ばした銀髪の少年だった。
声をかけるか悩んでいると、扉の前で立ち尽くしている私の気配に気づいたのか、彼は作業を止めることなく、ちらりと後ろを振り返った。
「なに」
短く、そっけない問い。
向けられたのは、涙の雫を凍らせたような、冷たく澄んだ空色の瞳だった。
バレてしまっては仕方ない。私は「お腹空いたから何か食べたいなと思って」と、努めて堂々と錬成室に足を踏み入れた。
「ここに来たって何も出ない。厨房に行けば」
彼は手元に視線を戻し、冷淡に突き放す。
「分かってるけど、シオンが何をしてるのか気になったんだもん」
彼――シオンのすぐ横に立てば、あからさまに不機嫌そうな顔をされた。向けられる視線は鋭く、よそ者を排除しようとする拒絶の色が濃い。けれど、今の私はそれさえもどこか遠くのことのように感じて、彼の否定的な態度を無視するように、彼が見ているものへ共に視線を落とした。
それは、先日私が浄化したばかりの、あの薄氷色の星だった。
あんなに美しく、眩しい輝きを放っていた星は、今や無残にも半分に切断されていた。シオンは、その断面を顕微鏡のような精密な機械でじっと覗き込んでいる。
時折、スポイトで透明な薬品を垂らしては、星の表面がチリチリと変色する様子を冷徹な目で見つめ、あるいはピンセットで剥ぎ取った星の一片を乳鉢で粉々に砕いていく。その所作は、まるで冷徹な真理を追い求める『研究者』そのものだった。
「……」
ふと視線を巡らせれば、冷徹な研究室の光景とは対照的な、妙に生活感の漂う一角が目に入った。
そこは、漆黒の大理石のテーブルが地続きでキッチンへと変貌している場所だった。
研究器具のすぐ隣には、使い込まれた鍋やレードルが洗われぬまま流し台に放置されている。まな板の上には、何を作ろうとしたのか、中途半端に切り刻まれた野菜の残骸。
ふと足元を見れば、床には先ほどシオンが扱っていたような、色とりどりの砂が零れ落ちていた。
ただのゴミのはずなのに、それらは床の黒大理石の上で微かな光を放ちながら混ざり合い、まるで足元に銀河が広がっているかのような、偶然の芸術を作り出している。
「今日の夕食は何を出したの?」
まな板の上に寂しく取り残された野菜の切れ端を見つめながら、どんな料理だったのかを想像してみる。けれど、私の乏しい料理知識では、バラバラになった根菜たちの正解が導き出せない。
「根菜のコンフィ」
シオンは興味なさげに、ただ一言だけそう答えた。
こんふぃ。……うーん、聞いたことはあるような気がするけれど、やっぱりよく分からない。
ここはシオンの錬成室であり、同時に彼だけの特別な調理室でもある。
彼は毎晩、夕食にだけ供される『星』を使った特別な一品だけを、ここで孤独に作り上げている。その他の普通の料理――私たちが口にするような食事は、隣の厨房で専門のシェフたちが作っているのだ。
『ここに来たって何も出ない』と彼が言ったのは、単なる意地悪ではない。ここにあるのは、私たちホテルスタッフが決して口にしてはいけない食べ物だけだからだ。
私たちは、星を食べることができない。
理由は分からない。だが、物心ついた時から、それこそ呼吸の仕方を覚えるのと同じように両親から教え込まれてきた。
星を食べるのは選ばれたお客様だけの特権であり、私たち『仕える側』の人間には、決して許されない禁忌なのだと。
「そろそろ行ったら。邪魔」
昔のことを思い出していたら、これ以上ないほどストレートな邪魔者扱いをされた。
端正で幼さの残る可愛らしい顔立ちからは想像もつかないほど、彼の口から出る言葉はいつも鋭く、辛辣だ。確かシオンは、二十歳になったばかり。年下から何を言われても大して堪えないけれど、その素っ気なさは徹底している。
「えー、ひどい。……それで? 『それ』の研究結果は出たの?」
めげずに問いかけると、シオンはようやく顕微鏡から顔を上げ、これ見よがしに深い溜息を吐いた。
「別に。同じような結果ばかり。つまんない」
少しだけ唇を尖らせて吐き捨てる姿は、研究者というよりは、期待外れのおもちゃを前にした子供のようで、やはり年相応の可愛らしさがある。私は思わずふふっと笑い、「もう止めて寝なよ」と声をかけた。
「……そうしようかな。あんたもとっとと帰って」
「はいはい」
ぐっと両腕を上げて伸びをしたシオンを横目に、私は空腹を思い出しながら、今度こそ錬成室を出ようと扉へ足を向けた。
その時。
「そうだ」
不意に、シオンが声を上げた。
振り返れば、彼は黒大理石のテーブルに背中と肘を預け、まるでこちらを誘惑するかのように首を傾げたまま、上目遣いで私を見つめていた。
先程までとは違う雰囲気を纏う彼に、何となく嫌な予感がする。
「俺にとっては代わり映えのしない研究結果だけど、あんたは知らないだろうから教えてあげる」
「……え?」
「暇潰しにはなりそうだしね」
そう言って、彼は凍てつく硝子玉のような蒼い瞳をそっと細め、ゾッとするほど美しい笑みを浮かべた。
「この星の成分は、俺たちの世界のあらゆる物質と全て『逆相』を示している。……意味、分かる?」
シオンは楽しげに、残酷な真実を口にする。
「つまりこの星は、この世界のものではないってこと」
針のような光に照らされた彼の銀髪が、一瞬、不吉なほど白く輝いた。
私たちの頭上に降り注ぐ、あの美しい星。その正体が、この世界にとって『異物』でしかないという事実は、空っぽの私の胃の奥を、冷たい不安で満たしていくようだった。
これまで、落ちてくる星が何なのか、深く考えたことは一度もなかった。
天から降ってくる災厄であり、同時に人々に恩恵をもたらす奇跡。それを仕事として、呼吸をするように当たり前に浄化し、目の前の平穏を守る。そのサイクルに疑問を抱く余地なんてなかった。
けれど、シオンのあの冷徹な言葉が、私の心に小さな、けれど消えない波紋を広げている。
浄化の際に脳裏を過る、凄惨で、けれど切実な誰かの記憶。
この世界の理とは決して交わらない、逆相の成分。
そして、星を食す人々が、等価交換のように手に入れる願いの成就。
……私は一体、何を浄化しているのだろう。
祈りだろうか。それとも、この世界のどこにも居場所のない、迷子の絶望だろうか。
「はーあ、食欲無くなっちゃったよ……」
私は独り言を呟きながら、暗い廊下を歩く。
空っぽの胃はもう鳴るのをやめていたけれど、代わりに胸の奥に、得体の知れない冷たい『水』が溜まっていくような感覚があった。
一度知ってしまったら、もう以前のようには戻れない。
私が今まで信じてきた『調律』という行為が、真っ白な雪の上に一滴だけ落とされた黒いインクのように、静かに、けれど確実に色を変え始めていた。




