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CASE0:産声は調律の調べ

 ――星が、落ちてくる。


 それは拳一つ分の大きさで、星によって様々な色を放つ。ある時は、太陽の如く全てを焼き尽くさんとする白。またある時は、世界の悲劇を一身に引き受けたかのような、儚い薄水色。不定期に落下するそれは、星が纏う瘴気によって周囲を澱ませ、破滅へと導く。――そして、この国『アペリオン』に住む彼らは、何かを代償にその星を喰らっている。



 星喰のゆりかご



 ホテル・アステリズム。それはアペリオンのおよそ中央に位置する山頂に建っている。贅沢に贅沢を尽くした『豪華絢爛』という言葉がよく似合うこのホテルは、所謂、裕福層のための場所だ。周囲を彩る豊かな緑と、夜を埋め尽くす満天の星。それらに包まれる大浴場やエステといった贅の限りを尽くした設備は、訪れる者を等しく癒やしてくれる。しかし、このホテルを象徴する最大の特徴は――


「あーあ、暇だなぁ」

 私は溜息を吐きながら頬杖をつく。漏らした独り言は、冷え切った壁に反射して虚しく響くだけだ。窓も娯楽も、そして滅多に訪れる者もいないこの部屋において、今現在、肺から空気を吐き出すこと以上に有意義な仕事など存在しない。

 ここはホテルの最下層に位置する『調律室』。私の自室であり仕事場でもある。大小無数に天井から吊り下げられている金平糖に似たライトは、私を包み込むように柔らかい橙色の光を注いでいる。その光を静かに受け止めるのは、中央に鎮座する水盤の、揺らぎ一つない水面。そして壁に掛けられている白真鍮の槌は、儀式の刻を今か今かと待ち侘びているようだった。

 槌が最後にその役目を果たしたのは、もう一週間も前のこと。星の落下は不定期とはいえ、これほど静かな日々が続くのは珍しい。

 同じように暇を持て余しているであろう彼の顔でも見に行こうか。そう思い椅子から腰を浮かせた瞬間、静寂を破るように軽やかな音が響いた。

 ――コンコン。扉を叩く規則的なリズム。この部屋を訪れる人間など限られている。私は来訪者の正体を確信しながら、浮かせた腰を再び椅子に預け、「はーい」と声を投げた。

「今大丈夫か?」

 扉の向こうから聞こえたのは、聞き慣れた低い声。現れたのは予想していた通りの、会いに行こうと思っていた人物だった。緩くパーマのかかった黒髪を揺らし、薄明の空を溶かし込んだような紫の瞳が私を捉える。

「大丈夫も何も、暇すぎて困ってたところ」

「だろうな。そうだろうと思って来た。話したいこともあったしな」

 苦笑する私をよそに、彼は表情ひとつ変えず部屋へ踏み込んでくる。向かいの椅子に彼が腰を下ろすと、清潔な石鹸の香りがふわりと鼻をくすぐった。

「話したいこと?」

「ああ。星を観測した。落下するのは三日後。およそ午前二時頃だ」

「えっ、ようやく!? あー、良かったぁ。このままカビが生えるまで待たされるんじゃないかって思ってたよ」

 久々の朗報に、胸が微かに高鳴る。仕事そのものが好きかと聞かれれば微妙なところだが、少なくとも今の『無』よりは、槌を振るう数時間の方がずっと有意義に思えた。

 しかし、久々の仕事を純粋に喜んでいるのは私だけのようだった。彼は神妙な面持ちを崩さないまま、警告するように言葉を継ぐ。

「でも喜んでもいられないぞ。今回の星はこれまでに無いほど瘴気が濃い。回収するグリードもそうだが、調律するお前だって危険な目に遭うかもしれない」

「それはそうなんだけど……誰かがやらないといけないんだから仕方ないよ。ハルクは心配しすぎ」

 わざと明るく振る舞ってそう返すと、彼――ハルクはあからさまに眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ノアは楽観的すぎる。仕事に熱心なのはいいが、自分の身体も大事にしろ」

 いつもの小言だ。これ以上お説教の続きを拝聴するのは勘弁したい。私は「はいはい」と適当な返事でハルクの言葉を流し、再び頬杖をついた。強引にでも話を逸らすしかない。

「で、話したいことってそれだけ? そんな事務的な連絡なら、『あれ』を使えば良かったじゃない」

 顎で指し示したのは、扉の横に備え付けられた真鍮製の伝声管。

 ハルクの居所は、ホテルの最上階——屋上に突き出た半円形の展望台。そこにある天球儀で星を追うのが彼の役割だ。

 屋上から地下。スタッフ用のエレベーターがあるとはいえ、仕事の話など伝声管一本で済むはずなのに。それを指摘されたハルクは、図星を突かれたように気まずく視線を泳がせた。

「……うるさいな。言っただろ。お前が暇だろうから来たって」

 つまり仕事の話はただの口実で、本当は私の様子を見に来てくれたわけだ。

「ふふっ」

 不器用な気遣いを見せる幼馴染が可笑しくて、私は口角が上がるのを止められなかった。

「なんだ。可愛いところあるね」

「……そんなこと言うなら、もう帰るけど」

 ハルクが椅子を引く音を立てて立ち上がろうとする。

「あー、うそうそ! ハルクが来てくれて嬉しいよ! ちょっと待ってて。お茶入れてくるから」

 逃げようとする彼を必死に引き止め、ハルクが渋々と椅子に座り直したのを見届ける。私は安堵して、調律室の奥へと足を向けた。

 重厚な扉の向こうは、キッチンとベッドを押し込んだ私のささやかな居住区だ。私は無機質な仕事場とは対照的な、生活の匂いが漂う個室へと滑り込んだ。

 結局、あの後も話し続けていたのは私だけで、ハルクはいつものように聞き役に徹していた。


***


 あれから三日が経った。

 観測者のハルクや回収員のグリードたちは、今頃、星の落下に備えた慌ただしい準備の最中にいるはずだ。けれど、落ちてきた後にしか出番のない調律師の私は、相も変わらず地下の静寂に身を浸している。


 ――この国には、星が落ちてくる。

 人知れず山奥へ沈むこともあれば、時には民家を突き破り、人々の平穏を容赦なく奪い去ることもある。拳ほどの塊とはいえ、天から降り注ぐそれは、命を奪うに十分すぎる凶器だ。

 その星がいつ、どこへ落ちるのか。それを読み解くのがハルクの役目。代々観測者の血を継ぐ彼にとって、それは抗うことのできない使命だ。――そして、それは私も同じだった。

 星は、禍々しい瘴気を纏って地上に現れる。長期間その毒に曝されれば、人の精神など容易に崩壊し、狂気へと堕ちていく。落ちたままの星を放置することは、この国に緩やかな死を振りまくことに等しい。

 だからこそ、星を浄化し、毒を抜く『調律師』が必要なのだ。

 華やかなホテル・アステリズムの地下。金平糖のようなライトに照らされたこの調律室は、私にとっての仕事場であると同時に、星が吐き出す狂気を一滴も漏らさぬための、静かな密室でもあった。


 ――ピーーーーッ!

 鼓膜を刺すような高音が鳴り響く。

 さっきまでの退屈な思考は一瞬で霧散し、私は条件反射で――それこそパブロフの犬のように、壁の伝声管へと飛びついた。時計を見れば午前零時。星が落ちるまであと二時間しかない。

 受話口に耳を押し当て、意識のすべてを集中させる。金属の管の向こう側、屋上の星霜を見上げるハルクの切迫した呼気が、今にも聞こえてきそうだった。

『……準備は出来たか?』

 ハルクの鋭い声が冷たく響く。それが私への問いかけではないことは分かっていた。私は呼吸を潜め、次の声を待つ。

『ああ。いつでも出られる』

 返ってきたのは、短く重い肯定。内臓にまで響くような低い声の持ち主は、回収員であるグリードだ。彼らの『準備』が整ったことを告げるその声に、私の掌にもじわりと汗が滲む。

『今回の落下地点は北北西。カシオペア山嶺、標高千二百付近の断崖だ。距離がある上、道も悪い。回収の準備も考えれば今のうちに出た方が良いだろうな』

『ああ』

『今回の星はいつもより瘴気が強い。……お前なら大丈夫だろうが、当てられないように気をつけろよ』

『はいよ』

 淡々と交わされる二人のやり取りに、私の方が心臓が跳ねる。グリードが星を回収できなければ、私は槌を振るうことさえ叶わない。そうなれば世界は瘴気に呑まれ、人々は緩やかに、けれど確実に狂気へと堕ちていくだろう。

 世界の命運を左右する任務だというのに。どこか他人事のようなグリードの返事は、今の私にはあまりに頼もしく、同時にひどく頼りなくも聞こえた。

 ……そう、息を潜めて彼らの会話を聞いていた時だった。

『ノア』

 突然、鼓膜に直接響いた自分の名前に、肩がびくりと跳ねる。

「な、なに……?」

『お前も覚悟を決めておくんだぞ。今回は今までのように上手くいかないかもしれない』

 それは最早、儀式に近い恒例の確認事項だった。けれど、ハルクの声に乗った重圧は、いつもとは明らかに違っていた。大丈夫だよ、と。そう言いかけて、やめた。今の彼にそんな言葉は、あまりに無責任で空虚に思えたからだ。結局、私は消え入りそうな声で「……うん」と頷くことしかできなかった。

『俺はそろそろ出る。念の為二人くらい連れていく。指定の場所に着いたら通信機で報告するから』

 二人の会話が途切れたのを見計らい、グリードが低い声を響かせる。ハルクの『ああ、気をつけて』という短い返信を最後に、伝声管からの気配はぷつりと途絶えた。

 再び、部屋を濃密な静寂が包み込む。

 彼らが星を回収し、ここへ運び込むまでの数時間、私に出来ることは何もない。落ち着かない心臓の音を誤魔化すように、私は目的もなく部屋を歩き回り、何度も白真鍮の槌に触れてはその冷たさに指を弾ませていた。


***


 ――カチッ、カチッ。

 壁に掛かった時計の音が、耳元で鳴らされているかのように大きく響く。何度見上げても、針は牛歩のような速度でしか進まない。午前二時を回ってもなお、伝声管は沈黙を貫いたままだ。

 普段なら深い眠りに落ちている時刻だが、脳裏を過る不吉な想像が眠気を完全に追い払っている。ハルクがわざわざ念を押すほどの星だ。回収に手間取っているのか、それとも――。

 いや、グリードは今までだって無傷で星を回収してきた優秀な男だ。今回だってきっと、何ともなかったかのように帰ってくる。そう自分に言い聞かせ、視線で時計と扉を幾度も往復していた、その時だった。


 ――ダンッ! 乱暴な衝撃と共に扉が蹴り開けられた。反射的に顔を上げた視界に、影が飛び込んでくる。

「っ、――!」

 投げ込まれた正方形の箱を、私は椅子を蹴立てて飛び出し、床に激突する寸前で抱き止めた。

 ずしりと、見た目以上の質量が腕にのしかかる。それと同時に、透明な特殊強化ガラス越しに見える、赤黒い靄を纏った塊に息を呑んだ。

「っ……だから星を投げないでっていつも言ってるでしょ! 落としたらどうするの!」

「うるせえな。無事に回収してきてやったんだ。感謝くらいしろ」

 私が思わず大声をあげると、グリードは煩わしそうにゴーグルとマスクを剥ぎ取った。乱暴に掻き上げられた栗色のショートヘアが、わずかな熱を帯びて揺れる。ゴーグルの跡が残る顔に宿るのは、燃えるような茜色の瞳だ。彼の大柄な身体からは夜の冷気と、無理をさせたバイクのエンジンの熱が混じり合って立ち上っている。泥に汚れたその姿には、言葉とは裏腹の疲労が滲んでいたけれど、大きな怪我はなさそうだった。

「……はあ。相変わらず横暴なんだから」

 さっきまでの心臓が縮むような不安を返してほしい。毒づきながらも、五体満足で戻ってきた彼の姿に、胸の奥で小さな安堵が広がった。

「これで俺の仕事は終わりだ。あとは任せた」

 しかし私の心配を他所に、グリードはそれだけを言い捨てて踵を返す。そして入れ替わるようにハルクが部屋へ入ってきた。ハルクは何か短く声をかけたようだったが、グリードは振り返りもせず、無造作に片手を上げて去っていく。

 彼はいつだってそうだ。最低限の言葉しか残さない。私はグリードの背中を見送ったあと、小さく息を吐いてから、手元にある正方形の箱に視線を落とした。

「これが今回の星か。……初めて見る色だな」

 いつの間にか隣に立っていたハルクが、覗き込むようにして呟く。彼の冷静な声に、私は「……うん。なんか嫌な感じ」とだけ答え、短く息を吸い込んだ。

 この世界の血と憎悪を煮詰めて混ぜ合わせれば、きっとこんな色になる。

 私は一度、星の入った箱を無機質なテーブルの上に置いた。震えそうになる指先を隠すようにして、厚手のグローブをはめる。革が擦れる鈍い音が、静まり返った室内でやけに大きく響いた。

 再び箱を手に取り、深く、長く呼吸を整える。

 箱を開ける瞬間は、いつだって怖い。調律師としての職務に就いてから二年。恐怖を覚えなかったことなど、ただの一度もなかった。

 瘴気を纏った星は、無機質な物質でありながら、いつも私の感情を泥濘のようにぐちゃぐちゃにかき乱す。

 強張った私の心を見透かしたのか、ハルクが隣からそっと手を伸ばし、優しく背中を摩った。厚い生地越しに伝わってくる彼の温もりが、わずかに私の震えを止める。

「……」

 分かっている。これは私の宿命だ。

 私は星を浄化するために生まれ、そして、いつか星を浄化するために死ぬ。

 そのためにこの地下室があり、白真鍮の槌があるのだ。

 ――私は覚悟を決めて、その蓋を押し上げた。


「っ……!」

 ぶわり、と。

 箱に閉じ込められていた瘴気が、獲物を見つけた獣のように溢れ出した。

「はぁ……っ」

 息苦しい。鉛を飲み込んだように身体が重い。意識の奥底で、意味もなく悲しくて、痛い感情が泥流となって押し寄せてくる。

 けれど、ここで呑まれるわけにはいかない。

 赤黒い靄が部屋を埋め尽くす前に、私は急いで星を取り出し、清らかな水を湛えた水盤の上に乗せた。ジュウ、と水が鳴くような音がして、星はようやくその毒をいくらか落ち着かせ、ゆらゆらと不穏に水面を揺らす。

 今だ。

 私は壁に掛かった白真鍮の槌を手に取る。掌に伝わる硬質な冷たさが、混濁しそうだった意識を強引に引き戻した。

 ここからが本番だ。

 大きく息を吸い込み、吐く。

 鼓動が静まるのを待ってから。

 私は、己の宿命のすべてを乗せて。

「――っ!」

 赤黒く燃える星に向かって、槌を高く、天を突くほどに振りかぶった。


 ――キィィィィン。

 槌が星を叩いた瞬間、鼓膜を突き破るような鋭い音が脳内を侵食した。

 視界から色彩が消え、真っ暗な闇が落ちる。支えを失った身体から力が抜け、膝から崩れ落ちていく感覚。

 遠くでハルクが私の名を叫ぶ声が聞こえた気がしたが、濁流のように流れ込んでくる『感情』が、それらすべてを押し流していった。

『どうして……』

 脳内の暗闇を、炎の赤が焼き切った。

 映画のスクリーンのように、鮮明すぎる映像が投影される。あちこちで爆ぜる火の粉と、逃げ惑う人々の影。悲鳴さえも熱風に掻き消された無音の世界で、唯一、女性の掠れた声だけが直接胸に響いてきた。

『どう、して……こん、な……』

 血だらけの手を伸ばした先、視線の先にいたのは、緩やかなパーマがかかった黒髪を持つ男性だった。薄明の空を溶かし込んだような紫の瞳。――その色には、確かな見覚えがあった。

 彼は刃物を何度も、何度も振り下ろす。

 女性の肉を裂く手は止まらず、彼の瞳からは大粒の涙が溢れていた。炎がすぐ傍まで迫り、火の粉が肌を焼いても気にする様子すらない。それはまるで、心中でも望んでいるかのような、深く絶望的な慈しみ。

 刃が刺さるたび、私の身体にも熱い痛みが走る。

 焼けるような苦しみの中で、私はその女性の顔を必死に覗き込んだ。

 ウェーブがかったミルクティー色の髪が、返り血を浴びて赤く汚れている。光を失った黄昏色の瞳が、虚空を映していた。

 

 ――それは、私だ。


「ノア!」

 身体を強く揺さぶられ、私の意識は暗闇から現実へと引きずり戻された。

 さっきまで肌を焼いていた炎の熱さも、胸を貫く痛みも、もうどこにもない。ただ、私を壊れ物を扱うように抱き締めるハルクの、石鹸の香りと確かなぬくもりだけが私を包み込んでいた。

「大丈夫か? 俺のことは分かるか? 痛みは……どこか痛むところはないか?」

 矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、私はすぐにでも答えようとした。けれど、喉が砂漠のように乾ききっていて、舌が張り付いて動かない。ハルクの瞳が、今までに見たことがないほど不安げに揺れている。

 私は一度、重い唾液を飲み込んでから、震える呼気を整えた。

「……だいじょうぶ」

 今度は、掠れた声がちゃんと形になった。

 身体にはまだ、石のように重い倦怠感が残っている。ハルクの肩に力なくもたれかかったまま、ぼんやりと視線を巡らせた。

 部屋を埋め尽くしていた赤黒い靄は霧散し、どこにもない。

 水盤には、透き通った蜂蜜を月光で溶かしたような、柔らかな金色の星があった。

 浄化は、無事に成功したようだ。

「今回の星は危ないって分かってたのに。俺が何か対策でもしてたらこんなことには……」

 しかし、ハルクの表情は晴れない。それどころか、まるで世界の終わりを見届けるような悲壮感に、私は思わず力なく苦笑した。

 任務は成功したのだ。望んでいた結果を手に入れたというのに、彼はどうして、そんなに泣き出しそうな顔をするのだろう。

「星、ちゃんと浄化できて……よかったじゃない……」

「ノア……」

「少し危ないくらいの方が、私……やりがいがあっていいよ」

 鉛のように重い腕を、意識の力だけで無理やり動かして、ハルクの頬に触れた。

 指先に伝わる彼の肌の冷たさを、冗談めかした言葉で温めようとする。けれど、ハルクは私の細い指を閉じ込めるようにさらに力強く抱き締め、肺の中の空気をすべて吐き出すような、深い溜息を漏らした。

「馬鹿。お前、自分の母親が……浄化の最中に命を落としたことを、本当に理解しているのか」

 耳元で震える彼の声が、冷たい水のように私の胸に染み込んでいく。

 水盤の中で、どこか寂しげな黄金色の星が、皮肉なほど静かに、私たちの影を床に落としていた。


***


「シオン、お客様がお待ちかねだよ」

 錬成室。別名、調理室。あるいは、研究室。

 薬品とスパイスの混じり合った独特の香気が立ち込める部屋に足を踏み入れると、銀髪の少年は一切こちらを見ることなく、無造作にテーブルの皿を指差した。

「これは?」

「ポタージュ」

 相変わらずこっちを見ようともしない、愛想をどこかに置き忘れてきたような背中に、俺は思わず苦笑を零す。

 視線を皿へと戻せば、そこには真夜中の静寂をそのまま煮詰めたような、深く沈んだ紫色のスープが揺れていた。表面には細かく砕かれた月光を振りまいたような金粉が散らされ、スプーンでひと混ぜすれば、器の中に小さな銀河が渦巻く。

 おそらく、この金粉が先日浄化されたという『星』の欠片なのだろう。

「ふうん。この紫色はどうやって出してるの?」

「紫芋」

 返ってきたのは、期待を裏切らない短すぎる答えだった。

「へえ、おしゃれだね。これは客も喜ぶんじゃない?」

「……」

 シオンは返事の代わりに、鍋に残ったスープの濃度を確かめるように静かにレードルを動かした。

「はーあ、つれないなぁ。じゃ、さっさと運んでこよーっと」

 俺の話し相手にすらなってくれない無愛想な料理人のことは、とりあえず放っておくことにする。

 銀色に輝くクローシュを手に取ると、器の中に閉じ込められた銀河にそっと蓋をした。金属同士が触れ合う、小さく、澄んだ音だけが錬成室に響く。

 ずっしりとした磁器の重みと、その下に隠された『星』の熱を掌に感じながら、俺は軽やかな足取りで部屋を後にした。

 この『夜空』を待ち侘びている客の元へ、最高の状態で届けるのが俺の仕事だ。


 豪華に設えられた幾重ものシャンデリアが、天井から豪奢な光の雨を降らせている。

 優雅な弦楽の調べが漂う会場では、着飾った裕福な客たちが、隠しきれない欲望を気品という仮面で覆いながら食事を楽しんでいた。厚みのある赤いカーペットは、俺の足音を無慈悲なほど完璧に吸収していく。

 ターゲットは、中央のテーブルに陣取る六十代ほどの恰幅の良い男だ。

 そいつは俺の姿を捉えた瞬間、まるで玩具を待つ子供のように瞳を卑しく瞬かせた。吹き出しそうになるのを喉の奥で押し殺し、俺は一級の給仕人らしい、完璧な角度の辞儀と共に仰々しく声をあげる。

「お待たせいたしました。こちら、本日の特選料理――『瞬く星屑のポタージュ』でございます」

 たった今、口から出まかせに考えた名前を添えて、恭しく皿を供する。

 銀色のクローシュを滑らかに持ち上げれば、閉じ込められていた紫の銀河が、シャンデリアの光を反射して艶やかに跳ねた。

「ほう……!」

 男は感嘆の吐息を漏らし、脂ぎった両手を満足げに叩き合わせた。

「素晴らしい。……かかっているのは、例の『星』かい?」

「ええ。先程、丹念に毒を抜いたばかりの、これ以上ないほど新鮮な逸品です。旦那様は、本当にお目が高い」

 俺は極上の笑みを貼り付けたまま、さらりと嘘を重ねた。

「これほどの輝きは、滅多にお目にかかれませんよ」

 俺がそう大袈裟に言えば、男は獲物を前にした獣のように瞳を爛々と輝かせた。だが、すぐに思い出したように、じりじりと俺の顔を覗き込んでくる。

「これを食べれば……本当に願いが叶うんだな?」

 その言葉には、縋るような期待と、騙されているのではないかという疑念が、濁った水のように混ざり合っていた。

 初めてこのホテルを訪れる客は、判で押したように同じ質問をする。この世界を蝕み、滅ぼそうとしている忌まわしき『星』を喰らう。その冒涜的な行為が自らの欲望を叶える糧になるなど、正気であれば信じられるはずがないのだ。

 それでも、彼らは理性を捨て、莫大な金を積んでこの席に座る。自らの身を焼き尽くしかねない、猛毒の輝きを胃に収めるために。

 俺は一分の隙もない微笑みを浮かべ、あえて視線を逸らさずに答えた。

「さあ、どうでしょう。……ただ、皆様、一度召し上がると二度、三度とこのホテルへ足を運ばれますので。もしかしたら、そのようなこともあるのかもしれませんね」

 肯定も否定もしない。期待という名の飢えを適度に煽り、判断を客に委ねる。

 「願いが叶う」などという不確かな噂を安易に肯定してはいけない。俺たちが売っているのは『奇跡』ではなく、あくまで調理された『星』そのものなのだから。

「そうか。……分かった。もう下がっていい」

「はい。どうぞごゆっくり、至福のひとときをお過ごしください」

 深々と慇懃な礼をして、テーブルから離れる。

 視線を上げれば、眩いシャンデリアの下、俺と同じ制服を纏った給仕係たちが、まるで精巧な機械仕掛けの人形のように忙しなく会場を縫っていた。


 このホテル・アステリズムを象徴する、最大の特徴。

 それは、世界を滅ぼす『星』を調理し、至高のひと皿として提供すること。そしてその星を喰らった者は、どんな不可能な願いさえも叶えられるという。

『不治の病が完治した』

『失った若さを取り戻した』

『死んだはずの最愛の妻が、昨晩家に戻ってきた』

 給仕の傍ら耳に入ってくるのは、そんな、お伽話よりも甘く、毒々しい奇跡の数々だ。

 けれど、願いを叶えたはずの客たちは、飢えた獣のように何度もこの場所へ通い詰め――そして、ある日を境にぷつりと足跡を絶つ。

 彼らはすべての欲望を満たして去ったのか。それとも、星の輝きに呑み込まれて消えたのか。末端の給仕係である俺には、知る由もない。

 ただ、この美しきホテルには、決して触れてはならない『秘密』がある。


「テオ!」

 思案の海に沈みかけていた俺を引き戻したのは、同僚の切羽詰まった声だった。会場の喧騒はさらに熱を帯び、給仕の手が追いついていないらしい。

「今行くよ」

 俺は一瞬で、仮面のような微笑みを顔に貼り付けた。淀みない足取りで、欲望が渦巻く別のテーブルへと向かう。


 ホテル・アステリズム。

 ここは、星を喰らい、星に喰われる者たちが集う――まさに「星喰のゆりかご」だ。

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