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CASE2:やがて星は還る

更新中

「うっ……ぉえっ……!」

 便器に顔を突っ込んで嘔吐する私と、私の背中を静かに摩るハルク。この光景も、いつしか星を浄化した後の恒例行事となってしまった。

 胃の中はもう、とっくに空っぽだ。何度吐いても、喉を焼くような苦い胃液しか出てこない。それでも、内臓を雑巾絞りにされているような不快感を少しでも外に出したくて、私は涙目で何度も嘔吐いた。

 ハルクの大きな手のひらが、一定のリズムで背中を上下する。そのリズムに合わせて呼吸をするように意識をすれば、波打っていた内臓の震えが少しずつ凪いでいくような気がした。

「はぁ……っ、ごめん、ハルク……いつもいつも……」

 胃液で濡れた口元を乱暴に袖で拭いながら、私は背後にいる彼を振り返った。

 ハルクの紫色の瞳は、心配と不安が複雑に入り交じり、夜の明かりの中で微かに揺れている。いつも冷静な彼が時折見せる、ひどく人間臭い表情だった。

「いや、俺はいいんだが……お前は大丈夫か? 最近いつも吐いてるけど……」

 彼の低い声が、狭い空間に重く沈む。

 私は便器の縁を掴んだまま、まだ少し焦点の定まらない頭で思考を巡らせた。

「うーん……今日のは瘴気もそれほど強くなかったはずなのに、どうしてだろう……」

 最近はいつもそうだ。星の浄化が終わったあと、猛烈な吐き気に襲われる。今までそんなこと、一度も無かったのに。

 何かが決定的に変わってしまったのは、あのメイの一件からだ。

 私自身には、全く自覚が無い。あの日を境に、私の浄化に対しての気持ちが変わってしまったのだろうか。私は今も変わらず、自分の出来ることを全うしたいと思っている。調律師としての使命を、最後までやり遂げたい。そう願っているはずなのに、身体だけが裏切り者のように拒絶反応を示している。

 そこまで考えて、先日シオンが言った言葉が、頭の中で鋭く響いた。

『つまりこの星は、この世界のものではないってこと』

 そう。私たちが祈りを捧げるように必死に浄化しているこの星は、この世界の理から外れた異物なのだ。

 冷静になった今なら、確かにそうだろうなと思う。あんなに簡単に人間を狂わせ、死に追いやるものが、この世界の一部であるはずがない。

 けれど、シオンの言葉がきっかけで、私は気付いてしまった。

 ――星を観測し、回収し、浄化する。

 私たちはこの工程を『神聖な義務』として教え込まれ、疑うことなく繰り返してきた。けれど、何故星が落ちてくるのか、私が見ている記憶は何なのか。私たちは何一つ知らない。

「……ノア?」

 突然黙りこくった私を不思議に思ったのか、ハルクは名前を呼んで、沈み込んでいた私の意識を無理矢理引き上げた。

 ……ただ考えても、今は仕方ない。答えの出ない問いは、吐き出した胃液と一緒に流してしまえばいい。知りたいのなら、行動に移さなければ。

 私は最後にもう一度だけ咳き込んで、喉に残る酸っぱさを吐き出すと、ふらつく足で立ち上がった。

「ねえ、ハルク。お願いがあるんだけど」

「……何?」

 私の声のトーンに嫌な予感を察したのか、ハルクは床にしゃがみこんだまま、眉間に深い皺を寄せて思い切り顔をしかめた。その警戒心の強さに、少しだけおかしくなる。

「明日、ハルクの部屋にある本、読みに行っていい?」


 いつものように二つ返事で頷いてもらえるだろうという私の予想は、あっけなく外れた。

 今回のハルクは頑なだった。「だめだ」「病み上がりなんだから休んでろ」「余計なことはするな」……。飛んでくるのは突き放すような言葉ばかりで、彼はなかなか首を縦に振ってくれなかった。

 だから、私は最終手段として泣きついたのだ。気を紛らわせていないと、またあの星の記憶が逆流して気持ち悪くなりそうで――そう訴えて、ようやく妥協案を引き出した。

『せめて、明後日にしてくれ』

 そんな条件付きではあったけれど、私はなんとかハルクの部屋への切符を手に入れた。


 そうして二日後の昼、私は約束通り、展望台を兼ねたハルクの私室に足を踏み入れた。

 重厚な扉を開けると、そこには開いたままの本を胸に置いたハルクが、ソファで無防備に寝転んでいた。物音に反応したのか、彼は重そうな瞼をわずかに持ち上げ、こちらを視界に入れる。

「ああ……そう言えば、今日来るって言ってたな……」

 彼は大きく欠伸をしながらソファから起き上がり、乱れた髪を無造作に掻き揚げた。「何を調べたいんだ?」と、まだ眠気の残る目を擦りながら問いかけてくる。

「うーん。星について、かな」

「星について?」

 聞き返したハルクの微睡みに溶けたアメジスト色の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。

「なんで今更? 調律師になる前にある程度、座学の教育は受けてきただろ」

 ハルクは少し怪訝そうに眉を寄せた。彼からすれば、現場に出て久しい私が今さら教科書を開きたがるのが不思議なのだろう。

「そうだけど、私にはまだまだ知らないことが多いなって思ったの。水は瘴気を吸う性質があることとか……そういう基礎的なことだって、本当の意味では理解してなかった気がして」

「ああ……まあ、別に無事に浄化できれば、余計なことまで知る必要なんて無いと思うけどな」

 納得したような、していないような。そんな曖昧な雰囲気を醸し出しながらも、ハルクは重い腰を上げて立ち上がった。

 彼は展望台から、自室がある地下へと続く階段を降りていく。それに続いて私も一段ずつ、ひんやりとした空気の層へ潜り込むように階段を降りた。

 そこには、ハルクのプライベートな生活空間が広がっていた。

 主人があまり使っていないことが一目で分かる、整えられすぎたベッド。質素な食事のための小さなテーブルと椅子。そして必要最低限のものしか置かれていない簡易キッチン。

 だが、それ以外の『空いている壁』は、すべて巨大な棚で埋め尽くされていた。

 棚には、背表紙の文字が掠れた古書から、手書きのメモが挟まった分厚い資料まで、おびただしい数の本がひしめき合っている。

「相変わらず凄い量だね。これ全部読んだの?」

「いや……軽く目を通したくらいのものもある。親からそのまま引き継いだやつだからな」

「へえ……」

 そう話しながら、私は棚の周りをゆっくり歩いて本の背表紙を眺めて回る。けれど、これほど膨大な量があると、どこから手をつけたらいいのか全く見当がつかない。

 うーん、と私が唸っていると、ハルクが一冊の本を棚から抜き出し、私の目の前に差し出してきた。

「これは『アペリオン』について詳しく書いてある。このくらいならお前ももう既に知っている話ばかりだろうが、基礎から学び直すならいっそここから読んだ方がいいかもな」

 差し出された本を受け取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わる。使い込まれた表紙には、見覚えのある惑星の絵が描かれていた。

 『アペリオン』――それは、私が生まれ育ったこの国の名前であり、同時にこの惑星そのものの名前でもある。

 ここは一つの国家で成り立っている、ひどく小さな惑星だ。

 人々の種族も信仰も、すべてが一つの型に嵌まったように同じ。定期的に『星の落下』という共通の災厄に見舞われるこの星では、人間同士で争っている余裕などなかった。大規模な戦争の記録すら、歴史のどこにも存在しない。

 文献の記述によれば、アペリオンは他の惑星との関わりを一切持たない閉鎖的な場所で、文明の発展という点では宇宙の中でもだいぶ遅れているらしい。

 頁には、アペリオンの奇妙な形が描かれていた。

 下がボウル状に凹んだ半円球形。その凹みにへばりつくようにして、私たちの住む土地が広がっている。そして、見上げればその先はすべて、あの『星』が降ってくる底なしの空だ。

「……やっぱり、こうして見ると変な形だよね」

 私が指先でその図形をなぞると、ハルクは私の横から本を覗き込み、「そうだな」と同意した。

「他の惑星はどれも円球だ。そして星の落下なんて災害は起きていない。となると、アペリオンが半円球形という特殊な形だから星が降ってくるのか……」

 そう言いながら、ハルクの視線は、文章の最後の一行に注がれていた。

 ――落ちてくる『星』が一体何なのか。それは未だ、はっきりと解明されていない。

「はあ……」

 その一文を読んで、私は心底がっかりした。

 そりゃあ、そう簡単に真実へ辿り着けるとは思っていなかったけれど、なにもこんなに強調して書かなくてもいいじゃない。

 「解明されていない」なんて無責任な言葉を残した、今はもう居ないであろう著者に心の中で文句を言いながら、私は縋るような思いで他のページへ指を掛けた。

「ここのページは……『星』について書いてあるな」

 ハルクの言う通り、そのページには惑星を破滅へと導く『星』についての基礎知識が記されていた。

 アペリオンに初めて星が落下したのは、星歴五十年。つまり、この惑星に人類が誕生してからわずか五十年ほどで星は降り始めたということだ。当然、最初は未曾有の混乱に陥り、多数の死者が出た。だが、何百年もの研究の末、今の『浄化システム』が発明されたのだという。

 この惑星の存亡を握る『浄化』は、水が瘴気を吸収する性質を利用して、不純物を徹底的に排除した聖水が用いられる。そこに特殊な槌で星を叩き、刺激を与えることで瘴気の分離を促す。

 だが、浄化によって引き剥がされる瞬間、瘴気は消滅を拒む最後の手向けとして、調律師の精神に強い負荷をかけ、悍ましい幻覚を見せる。ゆえに浄化は、過酷な訓練を経て選ばれた者のみが行える『神聖な儀式』である――。

 読み進めるほどに、それは幼い頃から嫌というほど聞かされてきた、退屈で代わり映えのしない話だった。

「な? 既に知っている話ばかりだっただろ」

 私が溜息を吐くと同時に本を閉じれば、ハルクはそれ見たことかと呆れたように私を見た。

「俺だって最初は『星』が一体何なのか気になって調べたけど、結局どこにも載ってないんだ。誰も、本当のことは知らないんだよ」

「ハルクも気になってたの?」

「ああ。だって考えてみろよ。星の瘴気を浄化するまではいい。だが、なぜそれを客に『喰わせる』必要がある?」

 ハルクの言葉に、私は言葉を失った。

 確かにそうだ。星を浄化し、それを『料理』として提供する本当の理由が分からない。

 人々の願いを叶えるため? だとしたら、なぜこのシステムの管理者たちは自分たちでその力を使わないのだろう。

 ただの金儲けのため? もしそうなら、私たちが命を削り、嘔吐きながら繰り返しているこの『神聖な儀式』の正体は、一体何なのだ。

 考えれば考えるほど、自分が正しいと信じてきた足元が、音を立てて崩れていくような感覚に陥った。

「だから、考えたって無駄なんだよ。多分ここにある本を全て読んだって、お前が求める答えなんて書いていない」

 ハルクはその場から離れ、先程降りてきた階段の一番下に腰掛けた。膝を立てて頬杖をつく。その動作一つ一つが、彼もまたかつて同じ壁にぶつかり、諦めた過去があることを物語っているようだった。

「それより俺は、お前が浄化の度に嘔吐するようになった原因が知りてえよ」

 真っ直ぐに向けられた紫の瞳が、私の内側を見透かそうとする。

 そんなもの、私だって知りたい。

 私は心の中でそう毒づきながら、再度うーんと唸って、行き場のない思考を抱えたまま本棚へと視線を戻した。


 結局あれから、ハルクの言う通り何も得ることが出来なかった。久しぶりに大量の活字を追ったせいで酷く体力を消耗したのか、私はあろうことか、読書の途中でハルクのベッドに潜り込んで眠ってしまったのだ。

 目が覚めた時には、部屋の窓から差し込む光はすっかり夜の闇に塗り替えられていた。慌てて飛び起きた私を、ハルクは床に座って本を捲る手を止めて迎え入れた。

「どっちが調べ物をしてるのか分からないな」

 灯りに照らされた彼の紫の瞳が、少しだけ意地悪く、けれど柔らかな苦笑を浮かべて私を見つめていた。

 このまま居座っても仕方がない。私はハルクにお礼と別れを告げ、自分の部屋へ戻るためにエレベーターへと乗り込んだ。

 結局、何一つ分からずじまいだった。無駄な時間を過ごしてしまった。自嘲気味にそう思って、地下へと向かうボタンを押そうとした、その時だ。

「あ……」

 脳裏に、あの冷徹な銀髪の少年の姿が不意に浮かび上がった。

 そうだ。シオンは、あの時確かに『何か』を知っているような顔をしていた。

 わざわざ埃を被った古い本を紐解かなくても、彼に直接、あの言葉の真意を聞けば良かったのではないか。

 指先が、ボタンの手前で止まった。

「……」

 今はちょうど夕食時。あそこは今、最も忙しい時間帯のはずだ。訪ねたところで、冷たく追い返されるのが関の山かもしれない。

 けれど、一度膨らんだ疑念はもう抑えられなかった。私は少しの間だけ迷ってから、地下へ向かおうとしていた指をずらし、錬成室がある地上一階のボタンを押し込んだ。


 そこには以前と同じく銀髪の少年が立っていた。しかし、あの時のように研究に没頭している様子はなく、どこか退屈そうに、それでいて幾つもの工程を淀みなく並行させて料理を進めている。

 見ると、作っているのはパスタのようだった。彼は慣れた手つきで、茹で上がったばかりの楕円形の生地を鍋から取り出し、手早く水気を切る。それを、鮮やかな水色のクリームソースの中へと滑り込ませ、丁寧に絡めていった。

「これは何?」

 シオンの隣に立ち、その手元を覗き込むようにして問いかける。シオンは最初から私の存在に気づいていたようで、視線すら向けず、驚く素振りも見せずに短く答えた。

「ニョッキ」

「ニョッキ?」

「ショートパスタの一種」

 へえ。気の抜けた相槌を打つことしかできなかった。私はあまり料理に詳しくない。

 そんな私をちらりと横目で捉え、シオンは退屈そうに溜息を吐く。

「生地にはじゃがいもと小麦粉、それから砕いた星を練り合わせた。このクリームソースも同じ。……今回使った星は水色だったから、あまり食欲が湧かない見た目になっちゃったね」

 そう言われて改めて手元を覗き込めば、滑らかな生地の表面には、星の欠片であろう水色の粒が斑点のように浮かび上がっていた。

 水色の星。

 それはきっと、メイが命懸けで回収したあの星の成れの果てだ。

 そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。何とも形容しがたい、けれど確かにそこにある切なさが込み上げてくる。それが星を壊したことへの罪悪感なのか、それとも別の何かなのか、今の私にはまだ言葉に出来なかったけれど。

「どう? 自分が浄化した星が調理される気分は」

 そんな私を試すように、シオンが意地悪く微笑んで顔を覗き込んでくる。性格が悪い……。返答に窮し、喉の奥が詰まった――その時だった。

「シオン、料理できた?」

 錬成室の扉が開き、隙間から一人の男性が顔を出した。

 煌びやかな金髪のマッシュヘアーに、エメラルドのように澄んだ瞳。まるで物語の王子様が迷い込んできたような容貌に、私は思わず息を呑む。彼も私を捉えると、「お客さん? 珍しいね」と不思議そうに首を傾げた。

「テオ、知らないの。調律師だよ」

 シオンは意外とでも言いたげに空色の瞳を瞬かせ、ニョッキの載った皿をカウンターの端へ滑らせた。その皿を受け取るために、テオと呼ばれた男性は錬成室へ足を踏み入れ、後ろ手で扉を閉める。

「へえ……星を浄化してる、あの?」

 彼は私を物珍しげに見つめた。まるで値を付ける前の品物でも見るように、頭の先から足先まで、隅々と。

 そのあからさまな視線に居心地が悪くなり、私は彼から目を逸らして、ぺこりと頭を下げる。

「いやー、まさか調律師がこんな可愛い子だなんて思わなかったよ。年齢も俺と同じくらいじゃん」

「はあ……」

「調律師とただの給仕じゃ、位が違いすぎて普段出会うことなんて無いもんね。引き合わせてくれたシオン様様だなぁ」

 テオは皿を通り越し、私のすぐ傍まで歩み寄ってきた。ぐっと顔が近付く。その間もお喋りは止まらず、彼は驚いてみせたり喜んでみせたりと、ころころ表情を変える。

 普段、無愛想な男たちばかりを相手にしているせいか、私はどう返していいか分からず、曖昧な生返事を繰り返すことしか出来なかった。

「ちょっと。早く持っていけよ、それ」

 そんなテオに痺れを切らしたシオンが、放置された皿を指差す。

「あー、はいはい。持っていくよ」

 彼は面倒そうに皿へ目を移し、ようやく私から距離を取った。棚からクロッシュを慣れた手つきで取り出し、皿に被せる。

「俺はテオ。このホテルの給仕をやってます」

 君は? 芝居がかった所作で胸に手を当て、仰々しく頭を下げる。伏せられた長い睫毛が、顔を上げた瞬間に揺れ、甘い微笑みとなって私を射抜いた。

 シオンもそうだが、このテオという男も顔が整いすぎている。その目で見つめられると、どうにも居心地が悪くて私は目を逸らした。

「……ノア」

「ノアちゃんね。可愛い名前」

 テオは料理を載せたトレイを片手で軽々と掲げ、扉へと向かう。そのまま彼が去るのを眺めていた時だった。

「ノアちゃんさ、ホールの様子見たことないでしょ」

 不意に呼びかけられ、私は「え?」と間抜けた声を漏らした。テオは開け放った扉の前で立ち止まり、肩越しに振り返る。

「良い機会だから見せてあげるよ。客がどんな顔をして、その星を食べているのか」

 口元には先ほどと同じ甘い微笑みが浮かんでいた。けれど、宝石のように澄んだ緑色の瞳だけは笑っておらず、ひどく冷ややかに透き通っている。

 その視線に射すくめられ、私は言葉を失った。


 重厚な扉が開かれた先では、幾重にも重なる巨大なシャンデリアが私を出迎えた。暴力的なまでの光の粒が視界に飛び込み、私は思わず目を細める。

 テオは景色に圧倒されている私をちらりと一瞥しただけで、迷いのない足取りで目的のテーブルへと歩き出した。

 ……付いていけば、いいんだよね?

 滅多に足を踏み入れられない煌びやかな空間に、戸惑いを隠しきれない。私は落ち着かない心持ちで辺りをきょろきょろと見渡しながら、遠ざかっていく彼の背中を必死に追った。

 足元に敷かれたふかふかの赤いカーペットは、気を付けていないと足を引っ掛けてしまいそうなほど毛足が長い。

 周囲では、テオと同じ燕尾服に身を包んだ給仕たちが、その忙しなさを微塵も感じさせない優雅な所作で配膳をこなしている。

 席に座っているのは、誰もが目を剥くほど豪華に着飾った人々ばかりだった。

 装飾品の一つすらない簡素なワンピース姿の私は、この場において「浮いている」という言葉すら生温いほど、場違いな存在だろう。

 ……どこに連れていかれるんだろうか。

 募る不安に足がすくみそうになった、その時だ。

「お待たせいたしました、エリオス様」

 テオがひとつのテーブルの前で足を止めた。私は彼の背中にぶつかりそうになりながら、慌ててその場に立ち止まる。

 そこに座っていたのは、二人の男性だった。

 一人は整えられた髭を蓄えた、落ち着いた色気のある中年男性。もう一人は、私と同じくらいの年齢に見える青年だ。二人ともテオに似た鮮やかな金髪を湛えており、その髪がシャンデリアの光を眩しく跳ね返している。

「ほう……ほら、来たぞ。エリオス」

「え? ああ、本当だ」

 中年男性に促され、エリオスと呼ばれた青年がこちらを振り返った。

 彼は期待を込めた眼差しで、テオが運んできた皿へと顔を向ける。その瞳は、底知れない深海を思わせる静かな群青色をしていた。

 けれど、どこか視線のピントが合っていないような、心許ない違和感がある。私はその正体を図りかねて、思わず首を傾げた。

「こちら、『蒼穹の雫と白銀のニョッキ』でございます」

 テオは皿を音もなくテーブルへ置くと、流れるような動作でクロッシュを持ち上げた。その瞬間、二人の口から感嘆の溜息が漏れる。

「生地とソースの双方に星を練り込んでおります。熱を帯びた生地と冷たいソースが絡み合うことで、至高の味わいに仕上がりました」

 淀みなく説明をこなし、テオはいつもの完璧な微笑みを浮かべる。

「へえ、すごいな。星の料理は夜にしか出されないと聞いているけれど、メニューは毎晩変わるのか?」

 エリオスの問いに、テオはにこやかに応じた。

「左様でございます。当ホテルのシェフがその瞬間に最もふさわしい趣向を凝らし、丹精込めて作り上げております」

「……そりゃあ、予約もなかなか取れないわけだ。なあ、父さん」

 エリオスが隣の男性へ同意を求めると、父親は重々しく「そうだな」と頷いた。そして訪れた、わずかな沈黙。父親は探るような視線で、テオを見上げた。

「……これを食べれば、本当に願いが叶うのか?」

 父親の瞳には、明らかな疑念が混じっていた。

 無理もない。料理を口にするだけで願いが叶うなどという噂、そう簡単に信じられるはずがないのだ。

 テオはなんと答えるのだろう。固唾を呑んで彼を見守る私とは対照的に、テオはまるで使い古された台本でも読み上げるかのような、滑らかな口先で言葉を紡いだ。

「さあ、どうでしょう。……ただ、皆様、一度召し上がると二度、三度とこのホテルへ足を運ばれますから。もしかしたら、そのようなこともあるのかもしれません」

 肯定も否定もしない、曖昧な返事。だというのに、父親はその言葉にすがりつくように安堵の息を漏らした。

 彼は隣に座る青年の肩を叩く。期待を隠しきれないその様子は、当のエリオスよりもずっと浮き足立っているように見えた。

「もしかしたら、お前の目が治るかもしれない。……さあ、早く頂こう」

「う、うん。そうだね」

 エリオスは長い指先をテーブルにつき、慎重に位置を確かめるように彷徨わせた後、ようやくフォークを手に取った。

 父親の切実な言葉と、その不確かな手つき。――ああ、そうか。彼は目が見えないのだ。その事実に、私はようやく合点がいった。

「いただきます」

 エリオスは何とかニョッキをフォークの腹に乗せ、落とさないよう細心の注意を払いながら口へと運ぶ。そして一口食べた瞬間、彼の表情が、蕾が綻ぶようにみるみる明るく変わっていった。

「美味しい……! 生地に練り込まれた星が、良い食感のアクセントになっていて楽しいよ。このソースはクリームベースかな? 甘すぎず、けれど濃厚で、すごく奥行きのある味わいだ」

 エリオスはテオの方を向き、心からの感謝を込めて微笑んだ。テオは「恐れ入ります」と、立てた指先を胸に当てて謙遜してみせる。そして。

「この星は、こちらにいる彼女が浄化したものです。エリオス様とは年齢も近いですし、ぜひご紹介させていただきたいと思いまして」

「えっ……!?」

 突然話を振られ、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 斜め後ろからテオを見上げるが、彼は私の方を向き、ただ笑みを深めるだけだ。その微笑みにどんな意味が隠されているのか、今の私には到底理解出来なかった。

「へえ、君が」

 エリオスも、その隣の父親も、驚いたように私を見る。

 急に視線が集中したせいで、私はさらに緊張し、またぺこりと頭を下げることしか出来ない。場違いな者が入り込んだという自覚が、私の背中をじりじりと焼く。

 そんな私の強張った様子を感じ取ったのか、エリオスは人当たりのいい笑みを浮かべ、穏やかに声をかけてくれた。

「初めまして。僕はエリオス。二十一歳。君は?」

「わ、私はノアと言います。二十二歳です。……調律師を、しています」

 消え入りそうな声で自分の職業を口にすると、エリオスは驚いたように、けれど嬉しそうに目を丸くする。

「わあ、本当に年齢が近いね。なかなか同年代と話す機会がないから嬉しいよ。しかも調律師なんて。噂には聞いていたけれど、まさか実際に会えるなんて光栄だ」

 エリオスの名に違わぬ眩い笑顔を見せられて、私は思わず目を細めた。

 辛い境遇にありながら、これほど屈託のない笑みを浮かべられるのは、隣に座る父親をはじめ、多くの人々に慈しまれて育ってきた証なのだろう。私は彼の温かな空気に毒気を抜かれ、「私も嬉しいです」と、心からの微笑みを返した。

「僕ね、婚約者がいるんだ」

 しかし、唐突に切り出された言葉に、一瞬、戸惑いが走る。

 自分に対する予防線だろうか――そんな打算的な考えが脳裏をよぎったが、続く彼の言葉は、もっと純粋で切実なものだった。

「家のしきたりで決められた縁談なんだけどね。でも、僕は彼女のことがちゃんと好きなんだ。……だけど、僕には目が見えないから、彼女の顔を知らなくて。この料理を食べて奇跡が起きたら、彼女の可愛い笑顔が見られたらいいな、って思ってる」

 彼はそう言って、再びニョッキをぎこちない動作で掬い上げ、大切そうに口へと運んだ。

「……」

 今、彼が美味しそうに口にしている料理は、メイの命を犠牲にし、グリードの壮絶な過去を盗み見ることで、ようやく形を成したものだ。

 私たちの献身が、ただの『料理』として消費されていく光景に、胸の奥をざわつかせる何かがなかったわけではない。けれど、それでも――。

 彼の穏やかな声と、自由の利かない瞳という境遇を思えば、この料理が本当に奇跡を起こしてほしいと願わずにはいられなかった。

 私たちがどんな泥を啜る思いで星を浄化したかなんて、彼は知らなくていい。ただこの一皿が、彼の閉ざされた世界に光を灯す『願い』になってくれればいい。

 私は彼に見えないことを承知で、せめて祈るような気持ちで小さな笑みを返した。


 エリオスは、生まれつき視神経が未発達なのだという。

 ぼんやりとした人影や光の明滅は感じ取れるものの、そこに誰がいるのか、何が置かれているのかを判別することはできない。それが当たり前の日常として育ってきた彼を不憫に思っていた父親が、このホテルの噂を最後の拠り所にして、彼の手を引いてやってきたらしい。

 星の料理を食べたからといって、その場ですぐに劇的な奇跡が起きるわけではない。テオはそう断りを入れた上で、祈りとも呪いともつかない言葉を添えていた。

「――次に朝を迎える時、あなたの人生が変わっていることを願っています」

 その言葉をどう受け取ったのか、二人は満足げな表情を浮かべてホテルを後にした。


「テオはどうして私を誘ってくれたの?」

 彼らが去るのを見送り、私たちも煌びやかなホールを後にした。裏方へと続く薄暗い廊下を歩きながら、私は抱いていた疑問をぶつける。

 テオは立ち止まらずに前を向いたままだったが、ふと振り返ったその瞳は、先ほどエリオスたちに見せていたものとは別の色を宿していた。どこか温度の低い、冷めた視線。

「どうして、って……別に特別な理由があったわけじゃないけど。強いて言うなら、ホテルの紹介かな?」

「紹介?」

「君、地下の自室から滅多に出てこないでしょ。自分が浄化した星を、どんな客がどんな顔をして食べているのか――それを見れば、これからの仕事もやる気が出るかなって思ってさ」

 テオは、にこりと微笑んだ。

 貼り付けたようなその笑顔からは、やはり真意が読み取れない。彼が純粋な親切心で私を連れ出したのか、それとも『浄化』という苦行に意味を見出させるための計算なのか。

 けれど、確かに彼の言う通りだった。

 あの時、エリオスの顔に浮かんだ綻ぶような喜び。それを目の当たりにした今、私が感じていた苦痛や恐怖は、確かに誰かの救いになっているのだという静かな自信と安堵に繋がっていた。

「実際、見て良かったでしょ?」

「まあ……」

「これからも彼が来たら呼んであげるよ。仲良くなれるかもしれないしね」

 厨房の前に差し掛かった時、テオは足を止めて、私に向かって軽く手を振った。彼はまだ厨房に用があるのだろう。

 私は小さく頷き、けれど彼が扉の向こうへ消えてしまう前に、ずっと喉元に引っかかっていた問いを投げかけてみた。

「テオは……エリオスのこと、どう思った?」

 給仕としての彼は、常に完璧で爽やかな微笑みを貼り付けていた。けれど、ここまで行動を共にしていても、彼の心の奥底にあるものは霧に包まれたように何も見えてこない。

 少しでも彼という人間を知りたくて発した質問だったが、テオは私の問いにわずかに眉を寄せ、考えるように視線を左上へと泳がせた。

 やがて、やはりどこか冷めた色を湛えた緑色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。

「……可哀想な人だなって」

 それ以上、言葉を継ぐつもりはないらしい。彼は「またね」とだけ緩く手を振り、賑やかな音が漏れる厨房の中へと背を向けて消えていった。

「可哀想……」

 その言葉の意味を反芻してみる。

 目が見えないことへの同情だろうか。けれど、もし本当に星が願いを叶えてくれるのだとしたら、その不幸もいつかは終わるはずだ。それとも、単に私の質問を適当に受け流しただけなのだろうか。

「結局、何も分からなかったな……」

 彼は愛想が良く、人との距離を詰めるのも上手い。けれど、薄暗い廊下を独り歩きながら感じるのは、テオという人間の輪郭がより一層ぼやけてしまったような奇妙な感覚だった。

 私を外へ連れ出し、星がもたらす喜びを見せてくれた彼。その一方で、その喜びを享受する客を「可哀想」と切り捨てる彼。

 どちらが本物の彼なのか、あるいはどちらも作り物なのか。私は暗い廊下の先にある、自分の冷え切った部屋へと足を向けた。


 あれから数日が経った。私は相変わらず、定期的に星を浄化しては、逃げ場のない吐き気に襲われて胃の中のものを全てぶちまけるという行為を繰り返していた。

 気のせいだろうか。最近、星が地上へ落ちてくる頻度が増えているように感じる。

 以前は二週間に一度あるかないかだったはずなのに、今は一週間に二回もその輝きを『処理』しなければならないこともある。観測されてから落下するまでの猶予も、以前よりずっと短くなっている気がしてならない。

 空で、一体何が起きているのか。底知れぬ不穏な気配が、じわじわと地下の部屋まで侵食してきているようだった。

「……やっぱり一度、病院で診てもらった方がいいんじゃないか? 流石に心配になる。お前、ここ数週間で目に見えて痩せた気がするし」

 いつも通り、便器に顔を突っ込んで呻く私の背中を擦りながら、ハルクが切実な声を上げた。

 病気じゃない。これはただの『代償』なのだから、病院へ行ったところでどうにもならない。

 そう言い返そうとした瞬間、再び激しい胃液の逆流が喉を焼き、言葉は酸っぱい飛沫とともに飲み込まれた。

「おい、ノア……しっかりしろ」

 ハルクの悲痛な声が、タイル張りの狭いトイレに反響する。

「っ、大丈夫……すぐ、良くなるから……」

 胃を雑巾のように絞られるようなこの吐き気は、何度経験しても慣れることはない。けれど、あのホテルに足を運ぶ客たちが、この星を食べて願いを叶えてくれるのだと思えば、不思議と耐えることができた。

 もしエリオスの目が見えるようになって、彼が心から愛する婚約者と笑い合えているのなら――私のこの泥を啜るような苦しみにも、確かな『甲斐』があったというものだ。

 あれ以来、テオからの連絡は途絶えたままだ。

 予約の取れない人気ホテルだと言っていたし、そもそも願いが叶ったのなら、彼らにはもうこの場所に用はないはずだ。もしかしたら、もう二度と会うこともないのかもしれない。

 胸の奥に、ほんのりと小さな寂しさが滲む。けれど、それは同時に喜ばしいことでもあるはずだ。二度と現れないということは、彼らがもう『星』に縋らなくていいほど、幸せな日常を手に入れたという証なのだから。

 ――コンコンコン。

 突然、静かな地下の空気を切り裂くように、軽やかなノックの音が響いた。

 誰だろう。返事をしようと口を開きかけたが、またしてもせり上がってきた吐き気に喉を塞がれ、声にならない。

 返事がないことをどう捉えたのか。しばらくの沈黙の後、ガチャリと音を立てて扉がゆっくりと押し開かれた。

「ノアちゃーん? ちょっと、エリオスのことで話があるんだけど」

 扉の隙間から、ひょっこりと顔を覗かせたのはテオだった。

 エリオスのこと? その名を聞いた瞬間、私は無理やり顔を上げ、トイレの入り口から廊下の方を振り返る。けれどテオは、私がさらに奥の自室にいることにはまだ気づいていないようだ。

「あれ、いないのかなぁ……」

 彼は独り言をこぼしながら、主のいない調律室を所在なさげに見回していた。

 わざわざテオが地下まで足を運ぶなんて、きっとエリオスに関する重要な知らせに違いない。

 私は胃の奥で渦巻く不快感を無理やり抑え込み、ふらつく足取りでトイレから出ようとした。けれど、それよりも早くハルクが動いた。

「……何?」

 地を這うような、冷徹な声だった。

 私が制止する暇もなく、ハルクはテオの眼前に立ち塞がり、威圧するように扉を大きく開け放つ。

 扉に寄りかかっていたのか、テオは支えを失って一瞬たじろぎ、軽くバランスを崩した。しかし、彼はすぐに体勢を立て直すと、不機嫌なハルクなど眼中にないといった様子で顔を上げる。

 そして、ハルクの背後から縋るように出てきた私の姿を、その鋭い緑色の瞳で正確に捉えた。

「あー……お邪魔しちゃった? ごめんね?」

「え? いや……」

「君に頼まれていたことを報告しに来たんだけど、そういう雰囲気じゃないか。また出直すよ」

 「頼まれていたこと」なんて、心当たりはない。けれど、ハルクの手前、テオが何らかの口実を作って私を連れ出そうとしているのだと直感した。

 テオはそれだけを言い残すと、用は済んだと言わんばかりに、ひらひらと手を振って調律室を去っていった。

「……誰だ?」

 ハルクはテオの背中が消えたあとも、警戒を解かずにしばらく廊下の先を睨みつけていた。それから重々しく扉を閉め、詰問するような視線を私に向ける。

 そういえば、二人に接点はないのだ。光の当たる場所で立ち働くテオと、地下の汚れ仕事を引き受けるハルク。出会うはずのない二人だった。

「給仕の人だよ。この前、錬成室に行った時に少し話した」

「頼んでたことってのは?」

「……うーん、ちょっとした調べ物。大したことじゃないよ」

 必死に声を整えて誤魔化す。もし客と接触したことがバレれば、ハルクは間違いなく激昂するだろう。

 星の『素材』に関わるスタッフは、それを享受する客と関わってはならない――それはこのホテルの、破ってはならない暗黙のルールなのだから。

 追及の手を逃れるように、私はテオを追うべく扉のノブに手をかけた。

 ――その時だった。

「まだ、星について調べてるのか」

 低く、地鳴りのような声が響く。

 ぐっと手首を掴まれ、抗う間もなく引き寄せられた。予想もしなかったハルクの強引な行動に、私は彼の厚い胸板へと飛び込む形になってしまう。

 慌てて顔を上げると、視界に飛び込んできたのはハルクの苦しげな、今にも泣き出しそうな表情。

 いつも不愛想で、けれど誰より頼もしかった彼が、どうしてこれほど悲痛な顔を浮かべるのか。私には、その理由が分からなかった。

「無駄だって言っただろ。……これ以上、首を突っ込むな」

「……ハルク」

「俺は、お前が心配で言ってるんだ」

 言葉の続きを飲み込むようにして、ハルクは懇願するような瞳で私を真っ直ぐに見つめる。

 それから、壊れ物を扱うような慎重さと、決して離さないという執着が混ざり合った腕が、私を強く抱きしめた。

 骨が軋み、肺の空気が押し出されるほどの力。このまま潰されてしまうのではないかと、本気で錯覚するほどに。

「ねえ、ハルク……」

 彼らしくない、ひどく感傷的な振る舞い。

 不安に駆られてその顔を覗き込もうとしたけれど、万力のような力で抱き締められ、わずかに身体を離すことすら叶わない。鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う清潔な石鹸の香り。

 どうすれば、彼を安心させてあげられるだろうか。

 私はしばらく考え、それから覚悟を決めて、ハルクの広い背中にそっと手を回した。

「ハルク」

「……」

「大丈夫だよ。ハルクが心配するようなことは、何ひとつ起きたりしない。たとえ真実がどんなものであっても、私はこの仕事への誇りを捨てたりはしないから」

「……ノア」

「ただね、私はこのまま何も知らずに星の浄化を続けることは出来ない。誰のものかも分からない記憶を無理矢理見せられて、それを無かったことになんて出来ない。――私は自分の使命と、本当の意味で向き合いたいの」

 言葉に力を込めると、ハルクの身体が微かに震える。

 それは、私の決意の固さを悟ったゆえの拒絶か、あるいは逃れられない運命に対する静かな諦念なのか。

 私を縛り付けていた彼の腕が、迷うようにわずかな緩みを見せた。

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