第3話
稽古場で萬葉さんと対峙した時の失敗以降、特に問題なく舞台稽古は進んでいる。
まだ立ち会いシーンの稽古は行われていないせいなのか、わたしも特におかしいと思っていない。
今日は舞台の取材ということで会社に来ている。
壁には舞台『鬼と人と娘と』のポスターが貼られている。
萬葉さんとわたしの写真の周りに、無数の影がいるような絵柄。
――思わず、足が止まった。
影は、ただの演出だ。
そういう意図のポスターなのだと分かっている。
それでも、その“数”に、息が詰まる。
萬葉さんが合流した日に撮影した写真が元になっている。
写真には写っていない。
なのに…胸の奥に残っている“何か”だけが、それを本物だと告げてくる。
わたしは視線を逸らした。
理由は、分からない。
ただ――言いしれない恐怖感だけが、残っていた。
一度、深く息を吐く。
それから、何事もなかったかのように歩き出す。
約束された会議室にノックをして入る。
「華鳥、調子はどうだ」
声に、わずかに肩が揺れた。
萬葉さんが既にいた。
「おはようございます、萬葉さん」
萬葉さんが頷くと、手元のファイルをわたしに渡す。
今日の取材内容が書かれている。
今日の相手は雪野莉紗さん。
『鬼と人と娘と』の劇場アニメでわたしの役を演じた声優さん。
雪野さんが会議室に入ってこられた。
お互いに挨拶を交わす。
雪野さんが簡単に今回の取材内容を説明してくれる。
その声に、わたしはわずかに意識を向けた。
――この人が、あの役を演じた人。
劇場アニメで。
そして、わたしがこれから舞台で演じる役。
同じ役だ。
分かっている。
それなのに。
雪野さんの声に乗るその人物は、
迷いがなくて、揺らぎがなくて――完成されていた。
わたしの中で掴みかけている“その子”とは、
決定的に何かが違う。
「……」
胸の奥が、わずかに軋む。
――敵わない。
そう思った瞬間、
自分で自分の思考を押し込めた。
違う。
まだ、これからだ。
そう言い聞かせる。
それでも。
一度浮かんだ感情は、簡単には消えてくれなかった。
声も、容姿も、艶っぽい人だ。
あまりにも自分とかけ離れている。
「華鳥さん。『秋楽』役に決まった時はどう思いました?」
「何故私に声がかかったのか不思議で、萬葉さんと相談しました」
「あまりにも雪野さんと違いすぎて、怖いくらいでした」
「あら」
雪野さんは、少しだけ首を傾げる。
「昼間の姿は、華鳥さん。ぴったりだと思いましたよ」
「『淡雪の剣』のあの子のようですもの」
――昼。
わたしの胸が、わずかに痛む。
「でも」
雪野さんは、穏やかに続けた。
「『秋楽』の“夜”は、まだこれからですよね」
言葉は柔らかいのに、
どこか逃げ場がない。
「……はい」
「『秋楽』は人と鬼の間に生まれて。昼は人の姿、夜は鬼の姿になってしまう」
「昼と夜のギャップをどうするかが、この役の面白さだと思います」
静かに微笑む。
完成された言葉だった。
わたしは、何も言えなかった。
「『秋楽』のお兄さんとはどうですか」
「え」
「『秋楽』には人間のお兄さんと一緒にいて守ってくれるじゃないですか」
「…そして好きになっていく相手」
「そのお兄さんさん役との演技も見どころの一つですよね」
雪野が探るように見つめる。
『秋楽』の兄役は未だキャストが決まっていない。
人気のある役で難航しているとプロデューサーが言っていた。
「そうですね。そこもこれからだと思っています」
「桜野さんが演じてくれた映画版のお兄さんは素晴らしくて……あの人がいなければ、あの作品は完成しなかったと思います」
穏やかな声だった。
その名前が出た瞬間、わたしの中で、何かが止まる。
「……」
胸の奥が、わずかに冷える。
聞きたくなかった。
――その話は。
なのに。
仕事の話として、自然に出てくる。
避けているはずなのに、簡単に踏み込んでくる。
「……そうですね」
それだけを、なんとか返す。
それ以上、続ける気にはなれなかった。




