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神武東征の私見

 今回は2週間にわたって神武天皇の事績を簡単にたどってみました。本当は、もう少し話を膨らませて紹介するべきところですが、それをやろうとすると1本小説が書けてしまいますので、日本書紀(公式)古事記(インディーズ)の要約になってしまったことをご容赦ください。

 神武天皇シリーズの最後は、こうして神武天皇の足取りを追ってみた自分の感想を述べさせていただきます。

 まず、仮に神武天皇が実在していたとするならば、九州で東征を決意するというのは、あまり現実的な話のようには感じません。むしろ、元々九州に拠点をもっていた一族が、九州に居づらくなって東方に亡命したというのが真相に近いように思います。弥生時代の頃の九州は、大陸との交流を通じて、日本の中でもかなり先進的な地域だったと考えられます。その先進的な地域が東方に進出するにあたっての先兵であった可能性もあるでしょう。

 その過程で、神武天皇が吉備国を通過したというのは興味深いです。前方後円墳の成立が大和朝廷成立と結び付けられて論じられることが多いですが、その前方後円墳の創始が吉備地方にあるという有力な学説があります。神武天皇を九州から大和に進出した集団の象徴的な人物と解するならば、これは九州から安芸または吉備に亡命し、そしてさらに大和地方に入っていった一派だったのではないかとの推測ができるのです。

 日本書紀(公式)古事記(インディーズ)の伝承によれば、神武天皇は、決して大軍をもって大和を攻略したものではないことが推測できます。その間接事実として、難波から大和に進出しようとしたところで長髄彦に撃退され、決して大軍を動かすのに適切とはいえない熊野路の間道を通って大和入りしていることが挙げられましょう。

 熊野路から大和入りしたといっても、神武天皇は、まず、大和に隣接した宇陀の小盆地に入っていることも注目されます。この時、宇陀を支配していたのが兄猾と弟猾で、日本書紀(公式)では、兄猾は神武天皇に従わず、弟猾が神武天皇に従ったとありますが、宇陀地方の豪族の兄弟争いで、神武天皇は弟側を支援して、ようやく畿内に落ち着くことができたと、そのように直感します。

 このようにして畿内に拠点をもった神武天皇が、着々と実力を伸ばしていき、ついには兄猾と弟猾の兄弟と主従逆転し、最後に大和を支配していた長髄彦を討伐したと、そういう流れではないかと想像します。

 作家は、歴史家ではありません。限られた文献の中で、ここまで細かな真実はどこまで行っても立証されないでしょう。そこで歴史作家の役割は、その限られた文献の中で最大限に想像力を発揮して、その可能性の一つを提示することではないかとも考えます。異説反論歓迎です。ぜひぜひご感想をください。

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