乙巳の変 その1 中臣鎌足と中大兄皇子の接近
今日はいよいよ乙巳の変です。
乙巳の変は、まず、中臣鎌足と中大兄皇子の出会いから始まります。
もっとも、中臣鎌足に最初に近づいたのは、孝徳天皇こと軽王子でした。軽王子は、時の皇極天皇の同母弟です。軽王子が寵姫の阿部氏の娘に命じて、いろいろと接待させたとあります。孝徳天皇の妃に阿部小足媛がいて、有間皇子を産んでいるのですが、この時に鎌足を接待したのは小足媛だったのでしょうか。
しかし鎌足は軽王子ではなく中大兄皇子に近づこうとします。法興寺(現・飛鳥寺の前身。飛鳥寺は蘇我馬子創建です)で蹴鞠を楽しんでいた中大兄皇子に対し、脱げた靴を拾ってあげたことをきっかけに意気投合しました。
そして、南淵請安のところに儒教を学びに行きます。南淵請安は、小野妹子とともに遣隋使として中国に派遣されたこともあり、日本書紀では、この遣隋使派遣のときの記録として「南淵漢人請安」とあるので、渡来人系の人物であると推測できます。
ここで中臣鎌足は「蘇我倉山田麻呂の娘を妃とし、後に事情を明かして共に事を計ってはどうか」と提案します。中大兄皇子もこれに賛同し、蘇我倉山田麻呂から娘を貰い受けることができました。ところが、この娘の方は、「所期之夜」に「被偸於族」となってしまいます。講談社学術文庫「全現代語訳日本書紀」(宇治谷孟)では、これを「その長女は契りのできた夜、一族の者に盗まれた」と訳しています。なお原文では続けて「族謂身狹臣也」と注を入れてます。身狭臣と蘇我氏、あるいは中大兄皇子との関係が気になるところです。なお、この顛末は、妹が中大兄皇子に嫁ぐことになり、事なきを得ています。
このあと、中臣鎌足は、中大兄皇子に、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田を紹介しています。佐伯連と言えば、推古天皇の後継選びのときは、当初、山背大兄王を推してます(ただし後に舒明天皇推しに転向)。葛城稚犬養連は、日本書紀ではここが初見でしょうか。「犬養」だけで言えば安閑天皇の時代に県犬養連らに屯倉の税を管理させたとあるのですが、このほかに目立った事績はありません。「犬養」と言えば、県犬養三千代につながる氏族なので、注目したいところです。




