推古天皇の後継者選び その2 境部摩理勢の最期
本日は、群臣の協議で推古天皇後の天皇後継が舒明天皇となりそうな流れの次の動きです。
次代天皇を舒明天皇とするにつき、群臣への根回しが完成しようとする段階で、蘇我蝦夷は、阿倍臣と中臣連を通じて、境部臣摩理勢に「次の天皇は誰が良いか?」と聞きますが、境部臣摩理勢は「そのことなら前に言ったじゃん!」と回答されます。
ところで、この境部氏というのは、蘇我氏の一派なのですが、境部臣摩理勢は建設中の蘇我馬子の墓の庵を壊して帰ってしまったということがありました。完全に、へそを曲げてますね。蘇我蝦夷は、このことについて、身狹君勝牛と錦織首赤猪を遣わせて、「ふざけんな!」と抗議します。
そこで境部摩理勢は逃げて泊瀬王の宮に逃げ込みます。泊瀬王というのは、前回登場した、蘇我蝦夷の立場に近い泊瀬仲王のことでしょうか?
それで蘇我蝦夷は、山背大兄王に仁義を切って、「摩理勢を引き渡してよ」とお願いします。これに対し山背大兄王は、境部摩理勢の引渡しを体よく断りますが、同時に境部摩理勢に対し「お前を匿ってると色々と面倒だから。出てってくんない?」と言い放ちます。この人を蘇我蝦夷に引き渡したら山背大兄王自身の体面が保てないけど、境部摩理勢が自分から出て行くならOKと、そんなノリでしょうか?
ただ、こう言われて大人しく出て行くような境部摩理勢ではありません。結局、「嫌だ! ここから出たくない!」と駄々をこねて、泊瀬王の宮に引きこもってしまいます。10日あまりすると、その泊瀬王も病気で死んでしまい(本当? 毒殺とかじゃね?)、ついには蘇我蝦夷が派兵してしまいます。このとき境部摩理勢は、来目物部伊区比という者に絞殺されたそうです。
なんともよく分からないエピソードでした。蘇我氏というと当時の最高権力者であるかのような評価が一般的でしょうが、こうして日本書紀の記述を分析すると、蘇我蝦夷は群臣の意見をよく聞く明君ではなかったかと思えます。また、山背大兄王の方は悲劇の王という評価が一般的ですが、この辺りは群臣がみんな反対しているのに親の権威にすがって皇位につこうとしていた駄々っ子ではないかと思えてきます。分からないのは、どうして蘇我蝦夷が舒明天皇を推したのか? 蘇我氏の利益を考えるならば山背大兄王を推しておけばよかったのに、それをしなかったというのは、できない事情でもあったのでしょうか?
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