推古天皇の後継者選び その1
今回は、乙巳の変の伏線としての推古天皇の後継選びです。このとき候補にあがったのが、舒明天皇と山背大兄王です。それでは、このときはどのような経過をたどったのか、人に注目してみて行きましょう。
日本書紀では、「蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從」とあります。つまり、蘇我蝦夷が一人で後継を決めようとしたのだけれども、他の群臣が従わないことを恐れたとあります。それで阿倍麻呂臣と相談して、群臣を集めて自宅で食事会を開いたとします。
この食事会で、大伴鲸連が舒明天皇を推します。そして臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺の4人も舒明天皇推しを表明します。
これに対し、食事会では反対者も出ました。許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手の3人が山背大兄王推しです。
蘇我倉麻呂臣は、意見を表明しませんでした。
なお、蘇我蝦夷が事前に境部摩理勢臣に相談したところ、山背大兄王推しでした。
蘇我蝦夷がこのような食事会を開いていたことに対し、山背大兄王は三国王と桜井臣和慈古の2人を蘇我蝦夷に遣わせて「意味が分からん」と抗議をしています。この抗議を受けて、蘇我蝦夷は阿倍臣、中臣連、紀臣、河辺臣、高向臣、采女臣、大伴連、許勢臣を呼んで「次は舒明天皇ということで群臣は一致しました。今度、直接説明するから、そのように山背大兄王に伝えておいて」と述べたそうです。
そこで群臣が山背大兄王にそのことを伝えに行くのですが、三国王と桜井臣を通じて、「それはおかしいのではないか?」と逆に群臣を諭しています。
なお日本書紀では、「泊瀬仲王、別喚中臣連・河邊臣謂之曰「我等父子並自蘇我出之、天下所知。是以、如高山恃之。願嗣位勿輙言。」」とあります。泊瀬仲王というのは山背大兄王の異母弟なのですが、中臣連と河辺臣に「自分たち父子は蘇我氏から出ているから、跡継ぎのことにとやかく言わないで」と伝えていたということです。
この後も、山背大兄王は蘇我蝦夷に「どういうことか? 返答を求む!」などとやっているのですが、この時も山背大兄王側の使者は三国王と桜井臣です。これに対し蘇我蝦夷は、紀臣と大伴連に「言ったとおりだから」と回答させてます。また、蘇我蝦夷は桜井臣を呼び、阿倍臣、中臣連、河辺王、小墾田臣、大伴連を遣わして、山背大兄王に「その件についてはオレの口から直接言うから」と伝えさせています。
以上を前提とすると、当時の豪族・王族は次のように色分けができるのではないでしょうか。
もとから舒明天皇推し
大伴鲸連、臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺。
最初は山背大兄推し、しかし後に舒明天皇推し
許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手。
ずっと山背大兄推し
境部摩理勢臣、三国王、桜井臣和慈古。
阿倍麻呂臣と泊瀬仲王は、蘇我蝦夷と近い立場であるので、おそらく最初から舒明天皇推しです。
明日、この後の境部摩理勢の最期についてまとめます。




