中臣氏は山背大兄王暗殺計画に加わっていた?
日本書紀も、前回までに、舒明天皇の条まで見てきました。その次の皇極天皇は、舒明天皇の妻にして、天智天皇や天武天皇の母親でもあります。皇極天皇の条で、蘇我入鹿が中大兄皇子(天智天皇)に暗殺され、蘇我本宗家が滅びてしまうという乙巳の変が発生します。
この乙巳の変の伏線として、中臣氏も推した舒明天皇と皇位を争った山背大兄王が蘇我入鹿に襲われたというのがあります。ただし、日本書紀では、このとき中臣氏がこれに関与したことを示す記述はありません。
なお、聖徳太子伝補闕記には「癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害」とあるようです。これによると、中臣鹽屋枚夫というのが山背大兄王暗殺計画に加わっているようにも見えます。
なお、ここでいう「致奴王子兒名輕王」というのは後の孝徳天皇(乙巳の変の直後に天皇になりました)のことです。日本書紀では、中臣鎌足と孝徳天皇が元から親しかったとしているので、自分は中臣氏が山背大兄王暗殺計画に加わっていた可能性は高いと見るのですが、いかがでしょうか。




