中臣氏は蘇我派だった?
推古天皇の次の舒明天皇の時代では、中臣氏は推古天皇死後の天皇を決める段で登場します。
推古天皇は、その最期、病床で、田村皇子(次代の舒明天皇)を呼出し「天皇となって政治を行うことはたやすいことではないので、身を慎んで軽々しいことを言ってはならない」という趣旨のことを伝えたということです。また、聖徳太子の子である山背大兄王を呼び出しては「お前はまだ若い。必ず群臣の言葉を聞いてこれに従いなさい」と伝えたそうです。
当時、次の天皇候補に挙がっていたのはこの2人でしたが、このようにどっちにもとれるような言葉を残していたがために、推古天皇の死後、どちらを即位させようかという議論になってしまいました。
この時、蘇我蝦夷(蘇我馬子はすでに死んでいます)は、他の豪族に次々に伺いを立て、意見をよく聞いて、田村皇子に天皇として即位するようお願いすることになります。このとき、中臣氏の中で意見を言ったのが中臣連弥気で、彼は田村皇子を推していました。
日本書紀ではこの後、山背大兄王と蘇我氏との確執が始まるのですが、このように最初は中臣氏は蘇我氏側に就いていたということです。




