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推古天皇の時代の中臣氏

 日本書紀(公式)は、推古天皇以後の時代になると、既述がだいぶ詳細になってきます。この頃になると、国政の一々を記録に残すという伝統が生まれてきているということでしょうか。日本書紀(公式)の推古天皇の条では、中臣の語が3ヵ所で出てきます。

 まず最初は、遣隋使(日本書紀(公式)では「大唐」とありますが、時代的には「隋」です。)が帰朝した時のことです。この時、隋から裴世清という者が随伴しているのですが、彼を接待したのが中臣宮地連烏摩呂みやどころのむらじおまろとされています。

 次は皇太夫人である堅塩媛(きたしひめ)を改装した時のことです。堅塩媛(きたしひめ)は、蘇我稲目の娘で、欽明天皇の妻であり、推古天皇の母であります。この時、中臣宮地連烏摩呂みやどころのむらじおまろが、蘇我馬子の言葉を代読したとあります。

 最後は、新羅が任那を討ったときに、国内で新羅を攻めようか議論した時のことです。この時、中臣連国が新羅を攻めるよう進言しています。そして境部臣雄摩侶(さかいべのおみおまろ)とともに大将軍に任命されて、新羅を征伐したということです。

 推古天皇の条の記録は、以上です。

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