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土師氏の記録まとめ その2

 今週は土師氏特集です。日本書紀(公式)におけるその後の土師氏の事績について紹介します。

 用明天皇の時代になると、土師氏の記録がだんだん具体的になってきます。蘇我氏と物部氏の抗争で緊張感が高まっている中、蘇我馬子が「土師八島連」を大伴毗羅夫連に使わしたとあります。これによって、毗羅夫連が大臣の家に行って、昼夜を分たず大臣を守ったというので、土師八島連は大伴毗羅夫連に救援を求めたということでしょう。

 その用明天皇が死ぬと、蘇我馬子は、佐伯連丹経手と的臣真嚙とともに、土師連磐村に穴穂部皇子と宅部皇子を殺せすよう命じています。

 推古天皇の時代では、来目皇子が筑紫で死亡したときに周防国の佐波に殯宮を設けて土師連猪手に司らせたとあります。それで佐波連というのは、土師連猪手の子孫ということです。皇極天皇の時代では、吉備島皇祖母(皇極天皇の母親)が死亡したときに、土師娑婆連射手に葬儀を執り行わせています。また、蘇我入鹿が山背大兄皇子を急襲しようとしたときに、小徳の巨勢徳太臣とともに使わせたのが土師娑婆連ということです。この土師連猪手と、土師娑婆(佐波?)連射手と、土師娑婆連が同一人物なのかどうかは、よく分かりません。

 こうしてみると土師氏というのは蘇我氏の手駒のような存在のように見えますが、乙巳の変で蘇我本宗家が滅ぼされた(?)後の孝徳天皇の時代でも土師氏は登場します。蘇我臣日向が右大臣蘇我倉山田麻呂を皇太子(中大兄皇子=天智天皇)に讒言したので、大伴狛連と蘇我日向臣に蘇我倉山田麻呂を攻めさせたところ、土師連身と采女臣使主麻呂が、山田寺から馳せ来たって「蘇我大臣は三男一女とともに自殺しました」と告げてきたということがありました。山田寺というのは、蘇我倉山田麻呂の子が造っていた寺なので、そこから来たという土師連身が元々はどちらの側についていたのか、よく分かりません。孝徳天皇の時代には、このほか、土師連八手が遣唐使の送使となったこと、孝徳天皇の殯宮を司ったことなどが記録されています。

 天武天皇の時代になると、壬申の乱の時の武功記事となります。まず、天智天皇が死んで、天武天皇が吉野から東国に入ろうとしたときに、土師連馬手が、菟田の安騎で、天皇の従者の人々の食事を接待しました。土師連馬手は、このとき屯田司だったということですが、以後、天武天皇に付き従ったようで、軍兵のことで東山に派遣されるなどしています(「發東山軍」とあり、兵を集めるよう命じられたのでしょうか?)。他方で、天武天皇側の将である村国連男依が土師連千島を捕虜にしたともあります。とすると、土師氏は、もともと大友皇子側についていたところ、土師連馬手が天武天皇側に寝返ったということでしょうか?

 以後の土師氏の記録は、人事の記録が多く、事績に関する目立ったものはありません。


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