物部氏の滅亡
これまで、日本書紀の記述に従って、物部氏と蘇我氏の抗争についてまとめてきました。今回は、いよいよそのラストです。
用明天皇が死んで穴穂部皇子が討たれた後のこと、まず、蘇我馬子宿禰大臣が、いよいよ物部守屋大連を滅ぼそうと計画しました。この計画に加わったのは、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀陀夫、葛城臣烏那羅です。
大伴連嚙、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣も加わり、志紀郡から物部守屋の渋河の家に攻め込みました。
これに対し守屋は砦を築いて戦いました。守屋の軍は強くて、蘇我氏の軍は攻めあぐねておりましたが、厩戸皇子が四天王の像を作って願掛けするなどして、ようやく守屋の軍に勝つことができました。
物部守屋を殺したのは、迹見首赤檮です。木の股から射落して、大連とその子らを殺したとのことです。これで、守屋の軍は態勢を崩して敗走しました。
このときの抗争について日本書紀はさまざまなエピソードを挙げているのですが、詳細は別の機会に紹介しましょう。
ここで気になるのは、蘇我の軍の側に、彦人大兄皇子がいないことです。彦人大兄皇子は、この直前では、物部氏の対立側に居て、中臣勝海連に呪われたりしています。ですから、この頃には生存していたとみられます。ところが、この最後の決戦には名前がないので、この前に、何等かの原因で死んでしまったのでしょうか。
この彦人大兄皇子がらみで気になるのがもう一つ、迹見首赤檮です。彼は、物部守屋を射殺す蘇我氏側の軍人になっているのですが、その前は、彦人大兄皇子側に寝返った中臣勝海連を、すなわち蘇我氏側の者を暗殺しています。
この辺り、日本書紀は事実を整理しきれていないように見えるのですが、いかがでしょうか。




