穴穂部皇子の死
前回では用明天皇時代のエピソードを紹介しましたが、用明天皇は間もなく病に伏します。このとき用明天皇は自分は仏教に帰依する旨の意思を表明しました。
これに反対したのが物部守屋大連と中臣勝海連でした。崇仏派の蘇我馬子は、もちろん、この天皇の言葉を歓迎します。それが、どこでどう話がややこしくなったのか、押坂部史毛屎という者が物部守屋大連に「群臣があなたを陥れようとしている」と密告してきます。これを聞いて物部守屋大連は、別業のある河内の阿都に退いて人を集めました。中臣勝海連も兵を集め、皇太子の押坂彦人大兄皇子や竹田皇子の人形を作って呪うなどしました。しかし、中臣勝海連は押坂彦人大兄皇子の側に寝返りますが、舍人迹見檮に殺されます。この辺り、なんとなく物部氏の謀反の動きを暗示します。
この時、物部氏は、自分に謀反の意思がないことを表明しますが、その後に蘇我馬子は大伴毗羅夫連に自分の家を守らせます。
このように国内の緊張感が高まる中、用明天皇が死亡します。用明天皇が死ぬと、物部守屋大連の軍が動き、穴穂部皇子を次の天皇にしようとします。これに対して蘇我馬子は、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真嚙に、穴穂部皇子と宅部皇子を殺すよう命じます。そして穴穂部美穂は、佐伯連丹経手らの兵に宮を囲まれ、殺されます。
ここで気になるのが、日本書紀は、蘇我馬子が「奉炊屋姬尊」と記述していることです。敏達天皇の皇后というのは、「奉」すなわち旗印にできるほど偉い存在だったのでしょうか?




