敏達天皇時代の仏教抗争
前回は物部氏と蘇我氏の抗争につき、仏教公伝から始めました。今回は、その後の物部氏の廃仏と蘇我氏の崇仏について紹介します。
次にこの手の話が出て来るのが、敏達天皇の時代です。敏達天皇は、前回登場の欽明天皇の子です。
日本書紀によれば、敏達天皇の13年、西暦にして584年、百済から弥勒菩薩の石像1体と、これとは別に仏像1体がもたらされたとのことです。
このとき、蘇我馬子(蘇我稲目の子)がこの2体の仏像を引き受け、鞍作村主司馬達等と池辺直水田を遣わして、修行者を探させました。そして播磨国で高麗人の恵便という人物を見つけ、仏法の先生としました。また、司馬達等の娘とその弟子2人も出家させました。日本書紀では、「弟子」としてますが、その娘の年齢を11歳ともしており、弟子をとるには若すぎるように思うので、この2人は弟子ではなく付き人だったのかもしれません。
そして蘇我馬子は、家の東に仏殿を作ったりします。ところが蘇我馬子は、その後、病気になり、蘇我稲目が祀った仏像に祟られているなどと言われてしまいます。また、国内では、疫病が流行って死者も出たそうです。
これに対し、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が「疫病が流行っているのは蘇我氏が仏法を広めているからです」と天皇に進言し、天皇は「仏法をやめよ」と命じます。物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴いてこれを破壊し、仏像と仏殿を焼きました。焼け残った仏像を難波の堀江に棄てさせるなどしました。また、司馬達等の娘とその弟子2人は、佐伯造御室に引き渡され、海石榴市の馬屋館につながれ、尻や肩の鞭打ち刑に処せられました。
この話の流れ、先代の欽明天皇のときの仏教公伝のエピソードと重なる部分が多いので、ひょっとしたら、同一の事件のことを書いているのかもしれませんね。




